長年培ってきた習慣はそうそう変えることはできない。シーザーが目を覚ましたのはやはりいつもの起床時間だった。鈍痛を孕む頭を押さえて瞼を押し上げる。昨夜は少々飲みすぎた。友人たちに煽られてしまった、など本当に年甲斐もない。上着どころかマフラーも外さずに寝てしまったようだ。波紋の力で若さを保っているとはいえ、限界はある。
まず気が付いたのは匂いだった。自身の部屋の匂いではない。自宅の匂いというものは嗅ぎ慣れてしまっているため無臭に等しいのだが、今朝は匂いがした。やや、違う。違和感に気が付いて周囲を見回す。シーザーの部屋よりも物がない。最低限を突き詰めたような簡素さである。言ってしまえば個性がない。ビジネスホテルを彷彿とさせるような部屋の中で、唯一鮮やかな色を持つそれがシーザーの目に留まった。先日購った緑色のストール。その下でワンピースが控え目に吊るされている。瞬時に彼は昨夜のことを思い出す。弾かれたようにベッドから跳ね起きた。毛布が床に落ちる。少女の名を叫んでドアを開けた。
「おはようございます」
顔面蒼白のシーザーを出迎えたのはいつも通りの千里だった。あいかわらずなにを考えているかわからない表情で朝食の支度をしている。昨日の朝と違う部分があるとすれば千里が寝間着姿であることと、ソファーの上に畳んで置かれている毛布だろうか。頭痛で碌に動かない頭でもさすがにわかる。
「すまない! おれはきみになんてことをしてしまったんだ……ッ!」
シーザーは謝罪の言葉を叫びながら千里の右手を両手で握りしめ、こうべを垂れた。彼女の手は珍しく皮膚を外気にさらしていた。寝る前に手袋を外したままであったからだ。手袋は千里の自室にあるが、熟睡するシーザーを慮ってそれを取りに行かなかった。謝っても謝りきれない。抱えきれない後悔と罪悪感に苛まれ、押し潰される。ちらりと見えた首筋に残る色がさらに彼を責め立てた。
酔っていた、は理由にならない。そんなにあっさり理性を手放せるほど若くはないはずだ。年甲斐もなく、はうら若き少女を前にしては言い訳にしかならない。謝罪などしてもしきれないほどの過ちを犯してしまった。理解など必要ないほどにわかりきってしまっている。
「――顔を上げてください」
恐しいほどに静かな声がシーザーの頭上から落ちた。そこに含まれる感情が読み取れず、さらにシーザーの中の罪悪感が肥大化する。それを知ってか知らずか。どちらにしろ彼女は意に介さない。
「昨晩、あなたは酔っていた」
仕方のないことだったのです。千里が呟く。
千里は怒っていなかった。シーザーに対して怒りも幻滅もしていない。原因がアルコールだと知っているのだからすべて理由付けられ、完結してしまっている。
それでおしまいだと思っているのは千里ばかりである。いくら千里が気にしないと言おうとも、シーザーは気にする。なあなあにして水に流すことなど許せるはずがない。千里に対して誠実でありたがる彼がけじめをつけずに終わらせることなどできるはずがなかった。
「きみは優しすぎる。嫌なら嫌と言ってくれ。遠慮なく怒ってくれ」
「――やめてくださいとわたしは言いました。ですがあなたはやめなかった。酔っていたから、正常な判断ができなかった……責めるとしたら酒を飲んだあなたですか? あなたを食事に誘ったあなたの友人ですか? 友人と食事に行くあなたを送り出したわたしですか?」
きりのない話です。論じるだけ、無意味です。視線を外すことなく千里が淡々と言う。
それが本心なのだと理解するのは容易だった。彼女は決して嘘を吐かない。本心ばかりを口にするから残酷でもある。もしかしたら諦めなのかもしれない。灰色の瞳の中に浮かぶ感情はなにもなかった。
「手を離してもらえませんか。朝食の支度がまだ終わっていません」
千里が早々にこの話題を切り上げようとするも、シーザーは納得できない。言いたいことがありすぎた。聞き分けのいいことは決して悪いことではないが、千里は極端すぎる。寛容の度が過ぎている。たった十数年の人生でなにを悟ってしまったのか、シーザーには想像もできなかった。
確かに彼女の考え方にも一理ある。だがそれは主観をすべて排除したものだ。一見合理的のようでも、およそ人が有して当然の感情を加味していない。衝動的な行動に対してもなにかしら理屈をつけてしまう。さもなくばくだらないと切り捨ててしまうか。少なくとも千里は慰めるということをしない。
「きみは――千里は、それで辛くないのか?」
「なぜあなたがあのような行動を取ったのか理由は明白です。それ以上になにが必要なのですか?」
「そうじゃあない。あんなことをされて嫌だったとか、怖かったとか、きみ自身なにかを感じたはずだ」
「きっとあなたは後悔する、そう思いました」
それ以上、言葉は続かない。千里は目を伏せた。無意識だろうか、自身の首筋を撫でる。無機質な指先が醜いそれに触れ、存在しない爪を立てる。元々肉が盛り上がってはいたが、鬱血したせいでさらにグロテスクな様相になっていた。
シーザーはその傷痕の原因を知っている。なぜ千里が嫌うのかも、聞き知っていた。タートルネックやマフラーなどで隠しているところもよく見ていた。何事においても中立を貫く千里が義肢と合わせてコンプレックスを持っている部分だ。彼女が口にせずともわかる。その傷を抱いて千里は復讐に憂き身を窶したのだから、わからないはずがなかった。
かけるべき言葉も見出せずに息だけを無駄に吐き出すシーザーの目の奥を千里が覗き込む。以前より饒舌になったとはいえ、灰色の瞳の方が雄弁に物を語る。合成樹脂製の左手がシーザーの手に触れた。少しぎこちなく包み込む。しかしそこに人のぬくもりはなく、流れるべき血液すら存在しない。生きている方の手はシーザーの両手に包み込まれている。
「――すみません。あなたを困らせる気はなかった」
短い言葉の中に戸惑いの感情が読み取れた。わずかに眉尻を下げてシーザーを見る千里は迷子になった子供のそれに遠からず似ている。彼女にはまったく似合わない表情だ。
千里は文字通り戸惑っていた。人の心に対して酷く不器用であるために慰めるということがうまくできない。問われたことに対して素直に答えてしまえばシーザーがどんな顔をするのかわかりきっていたにもかかわらず、嘘を吐かなかった。そこで嘘を吐くことが誠実であるとは思えなかったからだ。だが、どうすればシーザーを傷付けずにすむのかわからなかった。オブラートで包んだところでシーザーは敏いためにおそらく隠し通すことはできなかったことだろう。
戸惑う千里を見て、ようやくシーザーは思い出す。彼女はとても不器用で、これが精一杯の気遣いだったのだと。千里は決して嘘を吐くことはしないため、昨夜のことに対しては彼女が発した言葉と行動がすべてである。自分のことを二の次三の次にするなど今に始まった事ではない。自身の感情よりシーザーを慮ることを優先した。それだけのことである。
「おれこそ、すまない。きみを困らせたいわけじゃあなかった」
「ならばおあいこ、ですね」
シーザーを見上げ、ぎこちなく千里が笑んだ。口元を緩めるだけの、申し訳程度の笑みであった。しかしシーザーは観念した。いびつながらも自分に対して、自分のためだけに向けられたものだ。どうしようもなくていけない。彼女が愛おしくて、いけない。
ゆえに抱きしめてしまったことは間違いなく不可抗力である。熱い熱い抱擁に対して苦しいと言われようとも簡単に拘束を緩める気にはならなかった。先ほどまであったはずの後悔や罪悪感といった感情は吹き飛んでしまっている。なにしろ仕方がない。心などとうの昔に奪われている。
「ああ、駄目だ」
シーザーは呟く。何度も何度も心に思い描いてきたものを抑えることができない。
「どうしようもなくきみが好きだ。きみのいない人生が考えられないほどに、千里が愛おしい」
それは本来心の中の呟きであった。独白に近い。本音を言えば返事を欲するものであったが、それが千里の負担にしかならないことを知っている。言う資格などないこともわかっていた。しかしどうしようもなかった。そればかりである。
千里が本当に心を許しているのは彼女の祖父母だけだ。どれだけ歩み寄ろうともシーザーの前に立ちふさがる障壁は恐ろしく高い。だから彼女を前にして言うつもりはなかった。後悔してもすでに遅いが、今更後悔などするはずもない。
腕の中で千里が身じろいだ。ほんの一瞬、彼女を包み込む腕に力がこもるもすぐに脱力する。わかりきっていたことだとシーザーは内心自嘲し、以前より長くなったダークブラウンの髪を撫でた。
「いや、いいんだ。忘れてくれ」
突然悪かった。シーザーは言う。酷い顔をしていると自覚があったため、見られないようにと千里の後頭部に手を添えて自身の体に押し付ける。今までこれほど千里に触れたことなど数えるほどあるかないか程度だ。今となっては抱きしめるだけでは満ち足りないが、脇目も振らずに猛進できるほど若くもない。
千里はわずかに口を開いた。しかしすぐに噤んでしまう。言ったところで仕方がないと早々に結論付けてしまうのは彼女の悪いところである。その上理屈で考えようとするからたちが悪い。抱きしめられて嫌ではないと思ってしまうのは絆されてしまっているからだ。安心感を覚えてしまっているのだって同様の理由のはずだ。それ以上も以下もない。自分自身に言い聞かせる。
だが千里も馬鹿ではない。ただ単に絆されてしまっただけなのか、絆されただけだと勘違いしているのか。シーザーの告白を聞いてしまった以上、考えざるを得なかった。
そこまで考えて千里は思考を遮断する。なにしろ朝食を準備している途中だったのだから、余計なことを考えている暇はなかった。