月の鱗
 海中で暗青の月が相手をしているのは一組の男女だった。操舵室の上で身を伏せながらスコープを覗く千里はその男女が空条承太郎と舞原まどかなのだと検討をつけていた。そしてあの自惚れの強い愚かな男は負けるだろうとも容易に想像できた。
 お子様はそこで指くわえて見てろ、と侮蔑と嘲笑を向けられたことなど特に興味はない。なぜあの男と組むことになったのか理解はできなかったが忠誠を誓うあの男の采配なのだから理解も不満も必要なかった。拝命した役目――ジョースター一行を抹殺する任務を全うすることだけが彼女に求められていることだからだ。そのためならば味方もろとも船を沈める用意もできている。ただ今は息をひそめて気配を消すことだけに徹するのみだ。
 暗青の月に敵の視線が向けられているこの隙に船上に残る者たちを一人一人仕留めることも悪くはないプランだったが、彼女はそれを選択しなかった。彼女の能力では複数の敵を一度に殺すことができない。敵を分断したことについては素直に暗青の月を褒めてもよかったが、あの男の視界には空条承太郎しか映っていないのだから減点である。
 確かに千里の崇拝する主人が一番危険視しているのは空条承太郎だ。そして優先的に死を与えるべきはジョースターの血筋だと言っていた。ならば選択として最初に空条承太郎を狙うのはあながち間違いではない。だがどうにも厄介そうであった。船に戻ってくる前に仕留めてしまおうと心に決める。
 若干、暗青の月が有利に立ち回っている様子を見た千里はスコープの向ける先を海中から船上へと移動させる。一人は端から敵であるが、残る二人は任務を失敗したどころか裏切り者の大罪人だ。唯一無二の絶対的な主人を裏切った愚か者たちである。ジャン・ピエール・ポルナレフと花京院典明。憎悪を向ける、という意味では空条承太郎より彼ら二人の方がその感情は勝っていた。自分たちが犯した行いがどれだけ愚かしいことかを理解させるべきだとも思ったが、そんな下らないことで遊ぶ暇があるのならば主人の命令を忠実に、そして確実に遂行することを優先すべきである。
 銃口が再度海に向けられた。まだ敵と遊んでいる。さっさと殺してしまえばいいものを。自己顕示欲の強い味方に嫌気がさした。そして向こう見ずにも空条承太郎を追いかけて海に飛び込んだあの女。舞原まどか。特に大した攻撃手段を持っていないらしいのに厚かましくも出しゃばるなど身の程も知らないようだ。スコープの中心に少女の頭部を収める。最初の標的は決まった。弱い者から狙うのは卑怯だと言われようとも構わない。確実に頭数を減らすのならば、弱い者から潰していくのが定石というものだ。話に聞く限りでは彼女の能力は少々厄介ではあると千里は思ったが、さすがに頭部を破壊されれば平然としていられないだろうと予測する。一発で仕留められなかったら二発撃ち込めばいい。無制限に回復するのならば無尽蔵の弾丸で相手をすればいい。非常に簡単なことだ。この距離ならば敵方の攻撃は届かないだろうし、船上にいる奴らに対してはパイナップルをいくつかくれてやればいい。銃器も手榴弾も扱う準備はできていた。
 海中での戦いに動きが見えた。千里はそれまでの雑念をすべて消し、息を潜める。引き金にかける人差し指の指先まで充分に意識を張り巡らせ、その瞬間を待った。

「――ッ!」

 目が合った。または視線がぶつかった。交わった。直感的に感じたそれが勘違いだった可能性もある。向けられたそれが果たして千里を捉えたのか、彼女にはわからない。もしかしたら少女はただ単に仲間のいる船を見ただけなのかもしれない。気付かれたかもしれないし、気づかれていないかもしれない。それが焦りに変化することはなくとも、間違いなく千里の緊張の糸を歪めた。
 引き金を引く。銃口から飛び出す弾丸は着弾点をやや外れた。それどころか着弾する直前に捕らえられてしまった。スタープラチナ。もっとも警戒すべきスタンドのその指先に。咄嗟に身を隠す。
 存在に気付かれたと歯噛みしたところでもう遅い。千里はすぐに思考を切り替える。暗青の月は敵の一人も減らすことができずに敗北した。千里は考える。六人のスタンド使い相手にどう立ち回るべきか、誰から殺すべきか。最悪船もろとも爆発してしまえばいいだろう。彼女は生きて帰る予定はなかった。もっとも千里は船の操舵ができない。
 無鉄砲に特攻せず、千里は操舵室の陰から戦局を窺う。圧倒的不利でも立ち回り方はあると彼女は知っている。戦争は千里の得意とするところだ。
 銃口を舞原まどかに向け、空条承太郎の意識が彼女からそれるの待つ。狙うは当然ヘッドショットによるワンショットキルだ。大型口径の弾丸を込める。さすがに大型の猛獣相手の弾丸ならば、あんな少女の頭など吹っ飛ぶだろう。回復する前に即死である。
 その瞬間千里は呼吸を止めた。引き金を引く。