差し込まなかった希望の約束

 明くる月曜日。普段なら休み明け特有の気怠さに眠気眼を擦りながらノロノロと登校するところだが、エースとデュース、そしてエペルとジャックには、ずっと気がかりな出来事があり、それが原因で今日も随分と早く眼が覚めてしまったのだ。
 異世界から迷い込み、何だかんだとつるむようになって、今ではマブなんて言うちょっと小恥ずかしい愛称で呼び合う関係にまでなった一人の女の子。彼女が一昨日から元の世界へと一時帰省しているのだ。そして今日、問題なければ此方に帰ってくる予定である。

 「ユウ、ちゃんと帰ってくるよな…」
 「とーぜんじゃん?帰って来なかったら承知しねぇし。」
 「大丈夫だとは思うけど、ちょっと不安だよね…」
 「グリムも行っているし、大丈夫だろ。」

 土曜日に見送りした際と同じ鏡舎の一角。登校するために多くの生徒が往来するため、邪魔にならない隅の方で待機している四人の顔色は一様に暗い。自分達に言い聞かせるように大丈夫だ、と言ってはいるが、もしかしたら、という不安感が拭い切れずにいるのだ。
 そろそろ予鈴が鳴る、そんな時間に突如、彼等の目の前の空間が歪み、人ひとりが通り抜けられそうな穴が開く。驚きで固まる四人を他所に、先ずその穴から顔を覗かせたのは、この数週間ですっかり仲良くなった同級生の魔獣であった。次いで待ち焦がれていたその人も顔を覗かせ、視線が絡むなり、おはよう、と笑顔で挨拶を口にしてきた。

 「ユウさん!」
 「良かった!来た!」
 「ばっかユウ!もうすぐ予鈴鳴るぞ!」
 「来るのが遅ぇ。」
 「ごめんて。後方彼氏面してくる面倒な兄貴分達を捌くのに時間がかかったの。」
 「ふな。オメー等ずっと此処で待っていたのか?」

 グリムの問いかけに素直に頷く事が出来ない、素直になれないお年頃の男子高校生達ではあるが、その表情や仕草、尻尾の動きでユウには丸分かりである。微笑ましい気持ちに包まれながら、ほら早くいくぞ、と無理矢理話題を変えてくるエースの言葉にユウは乗ってやることにした。


****


 時は遡って土曜の夜。両親からの許可が下り、母の激励を受けながら向かった先は、フスベの長が住まうユウの一族の本家———つまりはワタルの実家だった。ユウと共にフスベへ戻ったワタルは、てっきりそのまま自宅へ帰るのかと思っていたが、実家へと泊まるらしく、何かと理由を付けて強制しないと帰省しない息子の突然の帰省に、本家内は一時バタついたらしい。
 事前にアポを取ったため、ユウは特に止められることなく門を潜り、引き戸式の玄関を開けた。直ぐに出迎えてくれた女中の案内の下、通された一室は客室ではなく本家一族の居住スペースである広間だった。

 「いらっしゃい。」
 「こんばんは。お邪魔します。」

 広間で寛いでいた現当主とその奥方———つまるところワタルの父母に挨拶をし、勧められた座布団の上へと腰を下ろす。ワタルやユウの両親から話を聞いていたらしい彼等も、苦労したようだな、と労わりの言葉を掛けてくれる。それにお礼を返したところで、案内をしてくれた女中から報告を受けたらしい、珍しく着流し姿のワタルが入室してきた。
 場所を変えるか、というワタルの問いには、ユウが返答する前に同席していた彼の両親から否の言葉が返されたため、現在ユウ、ワタル、ワタルの両親といつの間に入室してきたのか前当主———今のフスベの長老と呼ばれる祖父の五人で卓を囲むこととなった。

 「それで?」
 「両親には話を付けたから。明後日からまた向こうに戻るね。」
 「…俺は断ってこい、と言ったはずだが?」
 「何でって聞いたじゃん。」
 「だから、」
 「————何で私が、ワタル君の言いなりにならなきゃいけないの。」

 早速不機嫌面を隠そうともしないワタルへ、ユウも大きめの双眸を鋭く細めながら、怯む事無く相対する。先に言葉を詰まらせたのは、ユウに痛いところを突かれたワタルだった。
 このフスベの街は、今でこそ古いしきたりや習慣というものが薄まりつつあるが、それでも他の地区に比べ未だ男性主導のコミュニティが形成されている。そしてワタルはそのコミュニティの中でもいっとう位の高い———謂わば群れの長と呼べる位置に坐する男だ。自然と彼の発言には力を持つし、周囲もそれに従う傾向がある。
 しかしそんな慣習に大きく異を唱えたのもまた、このワタルという男である。今の時代に家父長制だの男尊女卑だの、時代逆行も甚だしい、とフスベの慣習を嫌煙している代表格と言っても良い。だからこそ、ユウのこの発言はワタルにとってダメージが大きいのだ。

 「…俺の目の届くところにいて欲しい。」
 「別に一生向こうで暮らすわけじゃないし、お母さんにも頼まれたから、定期的に返ってくるつもりだよ。」
 「フスベにか?」
 「うん。」
 「…、」
 「あら。ならアンタも一緒に帰ってくればいいじゃない。そしたらユウちゃんの元気な姿も見られるでしょう。」
 「ついでにいい加減当主として落ち着いて欲しいものだな。」
 「…。」

 結局のところ、ワタルの我儘なのだ。古い慣習に縛り付けられたくないし、誰かを縛り付けたくはないが、自分にとっていっとう大事で、己の逆鱗だと豪語出来るほどに可愛がって一心に愛している女が、自分の目の届かないところへ行ってしまう事が嫌なことも。母親の頼みもあったとは言え、譲歩としてユウの帰省先がこのフスベの街である事が不満なことも。
 向こうの世界とは、たまに遊びに行く程度の関係性に留めて、早いところ自分が創り上げた巣へと引き籠ってしまいたい。大事に囲んで、寄り添って欲しい。そんなワタルの我儘がユウの新たな一歩を阻もうとしている。それに応えてやる義理は無いだろ、というのがユウのスタンスであり、当然のことだと納得出来る部分でもあるのだが、やはりワタルの奥底に燻っている傲慢な欲が、それを面白くないと感じさせるのだ。

 「せめて、こちらから通うのではダメなのか。」
 「面倒臭い。ギラティナにも負担掛けちゃうし。」
 「でも、君の手持ち達は、」
 「一緒に行くよ。ボールに入ってもらえれば移動も楽だしね。」
 「…、」
 「で?まだ私を引き留める決定的な指摘箇所はある?」
 「…俺が嫌だ。」
 「ワタル君の意見は聞いていない。というか、こうしてわざわざ説得しに来ただけ感謝して欲しいレベルなんだけど?君が二度としないでって懇願したから、こうして丁寧に報告しに来たのに。」
 「ぐぬ…」

 これは完全にワタルの分が悪いわね。お茶を啜りながら静観を続けていた当主夫人は、十五も年下の女の子にタジタジにされている息子の姿に、滑稽な面持ちで愉しげに口許に弧を描く。可愛い姪っ子の可愛い門出を応援したいが、今まで以上に構ってもらえる時間が減る事に息子同様難色を示している当主が、いい加減大人になってくれないなら、家族三人で向こうの世界に夜逃げするから、というユウの痛恨の一撃という名の王手に、大慌てでワタルを強引に頷かせた姿に、彼女の腹筋はとうとう音を上げる事になった。


****


 そんな実家でのひと悶着をサラッと報告したユウは、若干引き気味に口許を引き攣らせるクルーウェルへニッコリと営業スマイルを浮かべて、改めてお世話になります、と深々と頭を下げた。今度は俺があの馬鹿鴉になるのか、と戦慄を隠せないでいるクルーウェルの背にそっと激励を送ったのは、同じくユウの再就職に喜んでいたトレインであった。先の学園長襲撃事件は、この学園の全教員、生徒へワタルという存在の恐ろしさを強く植え付けたらしい。

 「とりあえず、ご実家の方は問題ないのだね?」
 「そもそも両親が許可している以上、他の誰かにとやかく言われる筋合いはないので。」
 「…それもそうだな。ではユウ。改めてよろしく頼む。」
 「はい。お世話になります。」

 お出迎えしてくれたマブ達と別れて向かった職員室。優しく迎え入れてくれた教職員達に挨拶をしつつ、クルーウェルに先の誘いを受けたい、と早速話を切り出したのだ。因みにユウの雇用契約書は、こちらの世界に紛れ込んだ翌日に取りまとめられているため、今回は契約書の一部文言を修正するだけの簡素なもので終わった。それでも学園最高責任者であるクロウリーだけでなく、クルーウェル、トレイン、バルガス、サムの四名が立ち会ったのだから、この学園内でのクロウリーの信用度が計り知れる。
 そんなこんなで意外とあっさり世界の行き来が出来てしまったが、ユウの新しい道のりがスタートする事となったのである。