形に見える物だけ信じていたい

 教職員の雑用係なんて辞めて、ウチで働きませんか。そんなお誘いを受けたのは、これが初めてではない。眼前に立つ男は精一杯の営業スマイルを見せているが、その裏に潜む胡散臭さや悪どさを隠しきれていない。所詮、社会経験がまだ乏しい学生業の域を出ないものだな、と鋭い観察眼で相手を分析したユウは、前回と同様首を縦に振る事はしなかった。
 相手が自分を己のテリトリーに引き込もうとしている理由が、何もユウ自身の能力を買って、というものだけでは無い事には早々に察せた。確かに、今眼前の男が宣う、一癖も二癖もある教職員のサポートを忠実にこなし、それ以上の成果を見せる能力を買っている、という言葉に嘘は無いのだろう。しかしこの男の真の目的は、ユウ自身ではなく、ユウが住まうオンボロ寮にあるのだ。
 ユウがこの世界に迷い込んで早々、クロウリーの口からオンボロ寮に住まわせる事になったと聞いた男———アズール・アーシェングロットは、内心で舌打ちを隠せずにいた。あのオンボロ寮はもう随分と長く寮生が居らず空き家となっていた土地。今年の定期試験でイソギンチャクの解放条件としてあの土地を狙っていただけに、アズールにとってユウというイレギュラーな存在は正に目の上のたん瘤に等しかった。
 しかしそこでアズールが兼ねてからの計画を諦めたかと言えば当然否。あんな襤褸屋敷に魔法も使えない女性が耐えられる訳もない。自寮のゲストルームを無償で貸し、その他備品類も貸し与えてやれば、誰だって此方に食い付いて来る筈だ。そう算段立てたアズールであったが、此処で又もや計画が頓挫する事になる。あれだけ襤褸屋敷であったオンボロ寮が、外観こそそのままであったが、内装はそこ等の新築よりも綺麗にリフォームされてしまったからである。
 ゆくゆく自身がその土地と建物を入手した際、改築する必要性が無くなったと言えば聞こえは良いが、住居として十二分に機能する事になれば、ユウがその土地から退く理由が無くなる。これにはアズールも歯噛みするしか無かった。
 そうして暫くしてユウが元の世界へと帰る兆しが見えてきたという噂を聞き、アズールは再度巡ってきたチャンスを今度こそ逃さないよう鋭く獲物を狙っていたというのに、今度はクルーウェルの余計な一言により、ユウはこの学園に腰を落ち着かせ、当然ながらあのオンボロ寮もそのまま彼女の住まいとして継続される事になってしまったのだ。
 こうなってはアズールもそう簡単にあの土地に手を出せなくなる。ならばその土地の一時的な所有権を握ったユウ自身を自分のテリトリーに収めてしまえばいい。そうすれば実質あの土地も自分のものとなる。そう考えた結果のヘッドハンティングなのだろうと、ユウがそこに至るまで実に容易かった。アズールはそんな目論みは一切見せていないつもりでも、鋭い観察眼と考察力を持つユウを欺く事は非常に困難を極める。ユウの事を一筋縄ではいかない相手、という認識は持ちつつも、アズールの中で所詮無知な女の子という印象は消えていなかったのだから。

 「そんなにも、今の仕事が良いですか?給与面でも待遇面でもウチの方が格段に良いと保証しますよ?」
 「どんなに破格な給料であっても、ビジネス的にも人間的にも信用出来る相手とで無ければ、契約を結ぶつもりはありませんので。」
 「おやおや、悲しいですねぇ。僕はそんなに信用に足りませんか?」
 「ええ。まったく。」

 ズバッと言い退けたユウに、アズールは思わず営業スマイルを崩して口許を痙攣らせる。対してユウは、先程からの淡い笑みを崩していない。ポーカーフェイスの面でも、アズールはユウに劣っていたという訳だ。
 そこまで面と向かって言われると、流石に傷付きますねぇ。その場での取り繕いが通用するわけも無く、無情にもユウは再度、これ以上しつこい無駄な勧誘は御免被りたいので、と鋭い一撃を放った。勝負は既についていたのだ。

 「どうやら、これ以上の交渉は百害あって一利無し、のようですね。では単刀直入に申しましょう。貴女が住まうオンボロ寮とその土地を譲って頂きたい。勿論対価は払いますよ。」
 「へえ?」
 「貴女は現在この世界について一から学習中でしたよね?この世界に関する基礎知識を分かり易く纏めた参考書は如何でしょう?ああ、勿論現在の暮らしと同等———いえそれ以上の住居環境をお約束致しますよ?」
 「内容に全く具体性がありませんね。交渉の余地も無い。」
 「そう早く結論を出されずに。グリムさんと個室でキッチンやトイレ、浴室等の水回り環境も独立させましょう。寝具を始め家具類は当然ながら最高級のものを。生活に必要となる日用品類は此方が全て無償で提供致します。どうです?悪く無いでしょう?」
 「今の暮らしに特別不満は無く、問題なく暮らしていける給与も頂いています。それに、いくら個室環境を用意すると言っても、所詮集団生活の中の一画でしょう?それならば完全に建物自体独立している今の環境の方が良いです。それに、付加価値とした参考書ですが、誰の視点から見て理解し易いと判断したのでしょう?」
 「―どういう意味でしょうか?」

 誰が見ても理解出来る参考書。そのは一体誰ですか?異世界出身者である私ですか?それともこの世界についてまだ何も学んでいない、この世界出身の赤子ですか?その視点は、価値観は、一体誰が定めたものですか?矢継ぎ早なユウの問い掛けに、しかしその真意が見抜けないアズールはあからさまに眉を顰める。

 「例えば基本的な法令。『魔法で他者を傷付けてはならない。』これは何故?」
 「強い魔力を持つ者が一方的な権力を握り、弱者が虐げられ、基本的な社会活動に支障を来たすからです。」
 「つまりは正当な競争社会が築けなくなるからでしょうか?しかしその法令の適用範囲は何処までですか?魔法を行使した者が明確に他者を傷付ける意志を持った場合ですか?では例えば人気のない場所で魔法の練習をしており、それが偶々その人が見えない、気付けない場所にいた他者を傷付けてしまった場合、その者は罪に問われますか?」
 「当然、安全確保の不徹底、過失傷害で罪になるでしょうね。」
 「それは意図的な者と同等ですか?」
 「違います。傷付ける明確な意志がある場合とない場合で量刑は違ってきますから。」
 「ではその量刑のラインは何処ですか?明確な意志の有無の判断箇所は?そんなつもりは無かったと言えば全ての者が過失傷害になりますか?」
 「それは、」
 「貴方はそれを明確に、かつ簡潔に誰もが納得する説明が出来ますか?では明確な意志があったとして、その理由が自身が傷付けられそうになっていたから。先に傷付けなければ傷付けられると思ったっから。等の前提があった場合は?その場合でも明確に傷付けようとする意志があったので皆等しく同じ罰が下されますか?」
 「…、」
 「どうしましたか?答えられませんか?誰もが理解出来る基礎知識を教えて頂けるのでしょう?これは誰もが知っている基本的な法令ですよね?」

 言葉を詰まらせるアズールを一瞥し、ユウはその口許の笑みを絶やす事なく、交渉決裂ですね、と幕引きの言葉を最後に視線をアズールから外した。今回の交渉に自身の利点を見出すことが出来なかった。アズールもまたそれを示し切る事が出来なかった。その時点で交渉は既に決裂したも同然である。
 待って下さい、と咄嗟に引き留める言葉を口にしたアズールに対し、ユウは先程違い冷たい視線を持って、これ以上私の有限な時間を費やすと言うのであれば、それ相応の対価を支払って下さい、と言い退けた。交渉の余地無しと判断を下したにもかかわらず食い下がられるのだから、当然の権利だ。アズールが彼女の立場であっても同じ事を言っただろう。当然、そんな対価を払うつもりのないアズールは、再度口を噤むしかない。

 「基礎知識でご納得頂けないのならば、他に何をお望みですか?貴女の願いを叶えられるのならば、それを叶える事を対価に如何でしょうか?」
 「貴方に望むものなど何もありあせん。」
 「本当に?今以上の美しさが欲しくありませんか?声も顔も体型も美しくなりたいと思いませんか?例えば地位は?クルーウェル先生の義妹という立ち位置で満足されますか?この学園内でもっと発言力を持てる地位になりたいと思いませんか?あるいは自由に海を泳ぐ能力や、空を飛べる能力は?」
 「今以上の美しさを求めていません。クルーウェル先生の義妹に不満もありません。この学園内での権力に固執しません。海中も空中も今の私ならば自由です。それ以上のモノなど何も要らない。私は貴方に何も望まない。」
 「…っ、何故!人は誰しも誰かと比べ、それよりも優れていたいと、秀でていたいと望むモノでしょう!綺麗事を並べて聖人君子気取りですか?それで貴女に憧れる者は、焦がれる者はいますか?いないですよね?」
 「何を勘違いされているのか分かりませんが、私は聖人君子でもなければ、誰かに焦がれたいと思ったことも誰かより優れたいと秀でていたいと思った事もありません。然程他者に興味もありません。」
 「な…」
 「今の言葉そのままお返ししますよ。誰かより優れたいのは、誰かより秀でたいのは、もっと今以上のモノ望むのは、すべて貴方でしょう?醜い強欲のマーモンさん?」
 「強欲…?僕が…?ええ、当然でしょう?全てを手にしたいと思って何が悪いのですか?」
 「何も悪くありませんよ。貴方がそうしたいと言うのならば、そうすればいい。私には関係ありません。貴方がその結果どうなろうとどうでもいい。但し、」

 貴方が私のモノさえも欲して、それを奪い取ろうと画策しているのであれば、私は私の全てを持って貴方を否定し貴方を排除し貴方を退けます。それが罪に問われると言うのならば、その罪さえも私は否定する。その罪を定めた世界そのものを、私は否定する。
 それまでの冷たいオーラが可愛らしく思える程の、徹底的な否定、絶対的な敵対。その鋭い双眸は、纏うオーラはアズールが生まれ育ったこの17年間で、一度も味わった事のない底冷えする程の恐怖だった。息が詰まり、本能的に警鐘が鳴り響く。これに逆らってはいけない。これに敵対してはいけない。これに手を出してはいけない

 「…ぁ…っ、」
 「貴方はこれまで随分と無茶な契約を続けてきたそうですね。その際、少しでも危惧しませんでしたか?いくら貴方の優れたユニーク魔法により生み出された契約書といっても、魔法は万能ではありません。強引に契約破棄をしようと攻撃されるかもしれないし、極論を言ってしまえば、貴方を排除すれば契約そのものを無かった事にも出来るのですから。」
 「、そんなの…そんな事をする者がいるわけ…」
 「へぇ。良かったですね。これまで契約を結んできた方々が、みんなそんな危険な真似をする筈がないお優しい方々で。まあ、対象がこれまで同級生の方々が多かったようですから?そんな危険な手に出ない、そもそも考え付かない人が多かったのでしょうけど。」

 警戒した眼で引き腰になるアズールへ向けるユウの視線は相変わらず鋭い。少しでも眼を離せば、視線を外せば、即座に喉元に食らい付きすべてを食い千切られる様な、そんな底知れぬ恐怖。人魚として過酷な海中で生き延びてきたアズールでさえも、経験したことの無い本能で感じ取る怯え。本当ならば今直ぐにでも踵を返して逃げてしまいたい。しかし、恐怖で竦んでしまった足は、床に縫い付けられたかのように一歩も動かない。
 此処まできて漸くアズールは自身の浅はかさを痛感した。彼女の指摘通り、アズールは正におままごとのような契約ごっこの中で鼻高々に生きてきたのだと。本当の契約とは。それに伴うリスクとは。自分の利になるかならないかだけを考慮し、相手の事は一切考えて来なかった。相手が自分に強引に逆らい、剰え手を出してくる等、そんな事微塵も考えたことが無かった。
 良かったですね。本当に痛い目を見る前に、その可能性がある事に気付けて。鋭い双眸を細め、愉悦に釣り上げる口許を見て、アズールは喉を引き攣らせる。眼の奥が熱くなり、滲みそうになる視界を何とか喰いしばって堪えようと息を呑む。しかしそんなアズールを見つめる彼女のあくどい笑みは深まるばかり。

 「今まで何もかも貴方の思い通りに事が運んだから、天狗になっちゃいましたか?正に井の中の蛙ですね。」
 「…っぅ、」
 「慈悲の心で忠告差し上げます。今後、こんな無謀で浅はかな契約は行わない事を強くお勧めしますよ。貴方だって、ほんの少し人より秀でた能力を手にするために、その命を落としたくはないでしょう?」

 窮地に追い込まれた者がどんな手に出るか。厳しい自然界を生き延びた貴方ならば、よくお分かりですよね?そこまで言い募られたところで、とうとうアズールの涙腺が決壊した。膝から崩れ落ち、その場で身体を震わせながら掠れた声で、ごめんなさい、と小さく呟く事しか出来ない姿は、声を掛けてきた時の自信に満ちた不遜とも取れる態度とは正反対と言える。
 自分に酔いしれ、自分の強さに驕り、そうして周囲の何をも見えていないドラゴンタイプも多く存在する。特定の種族というより、個々の生きた環境や正確によってそう成ったポケモン達をユウは少なからず見てきた。そして驕り高ぶり慢心した彼等を、ユウはその視線一つで解らせてきた。それはドラゴン遣いとして、古くから受け継がれてきたフスベの一族の能力。どちらが支配者足らしめるか解らせるもの。
 アズールもそんなポケモン達と正しく同じ状態だった。だから少し解らせた。本来であるならば、そこまで付き合ってやる義理も何もないが、彼はユウの逆鱗にほど近いところまで迫ってしまったのだ。直接言葉にする事は無かったが、言外には含ませていたそれ。
 ユウの逆鱗はユウが慈しみ、愛で、護り、そうして何よりも愛するもの。そしてそれに準ずるように形成されるもの。それまでを自分のモノにしようと画策していると言外に含まされては、ユウも重い腰を上げるしかない。ドラゴン遣いはどんなドラゴンタイプよりも獰猛で傲慢な龍そのものだから。

 「解って頂けて何よりです。それでは。」

 狡猾な笑みでわざとらしいほど恭しく一礼したユウは、すっかり腰を抜かして動けなくなっているアズールをその場に置き去りにし、今度こそ踵を返した。あそこまで牽制し、これ以上踏み込むな、と釘を刺したのだ。余程の大馬鹿者でない限り手は出してこないだろう。
 しかしこの出来事が後日、泣きじゃくるアズールから救援を受けて駆け付けたリーチ兄弟、及び実は隠れて話を盗み聞いていた一部の生徒達により広まり、ただでさえ気になる女の子であったユウを、群れを護る強くていい女』という眼で見る獣人や人魚、妖精族達が挙って出現する事になる。ユウの圧倒的強者に泣かされたアズールとフロイドですら、初恋に溺れる乙女のような眼でユウを見るようになったのだから、事の重大さが見て取れるだろう。
 そも、アズールとの一連の遣り取りは、二人きりの環境下で行われたものでは無い。多くの種族が入り混じるカレッジの廊下のど真ん中で行われたものだ。当然、そこを通行するものは多くいるし、放課後で人気が少なかったとはいえゼロでは無かった場所。
 そして自然界を逞しく生き延びる人魚や、野生の本能が強く残る獣人、自分達に怯えず強気な姿勢を見せる人の子に強い興味を抱く妖精族は、総じて強い女に焦がれやすい。あとは言わずもがな。意図せずユウは、ナイトレイヴンカレッジの幼気な男子生徒の約半数近くの初恋キラーとなってしまったのである。