いつの間にか塗られた赤い爪

 色々な人々が様々な思惑を抱えた状態で迎えた週明け。いつもの通り、リーグへ出勤するワタルを見送ったのち、ギラティナの反転世界を通じてナイトレイヴンカレッジへ出勤したユウは、鏡舎に降り立つなり突き刺さってくる視線の数々に一瞬身構えた。即座に周囲の状況を確認して、その視線が自身に害を成すものでは無いと判断すると、溜息を一つ溢してから気付かぬふりで職員室へと足を向ける。
 マブと呼ばれた彼等からの連絡により、ユウ(一部無許可のロトム)がマジカメに投稿した件の化粧品会社CMを見て、学園中の厄介な連中に狙われている事を知ったユウは、何時でも退避出来るよう、飛行が出来る子やテレポートを扱える子、俊足な子を中心に手持ちポケモンを入れ替えた。あと牽制が出来る強い子も。いざという時はその子達に頼る事になるだろうが、仕事を疎かにするわけにもいかないため、そのバランス維持が重要になってくるだろう。

 「ボンジュール、トリックスター!」
 「おはようございます。ハント先輩。」
 「良い朝だね。早速だが、君を我がポムフィオーレ寮に招待したいのだが、本日のご予定は如何かな?」
 「すみません。仕事があるので。」
 「勿論、仕事が終わってからで良いさ。我々も授業があるからね。」
 「夕方以降は予定があるので。」
 「では、明日以降は如何だろう?どこかでお時間を頂けないかな?」
 「すみません、予定が詰まっているので。」

 多くの突き刺さる視線をものともせずユウに話しかけたのは、ポムフィオーレ寮副寮長であるルーク・ハントであった。先日、彼の寮の寮長であるヴィル・シェーンハイトとからモデルの仕事の誘いを受けていたユウは、ポムフィオーレ寮の誰かは絶対に声を掛けてくると予想していたため、ルークの突然の招待に対して左程驚きはない。しかしその誘いを受ければ、必ず寮長の下へ連れていかれ、そこから今回の仕事に関しての質問という名の尋問を受け、自分のモデルの仕事へのお誘いという名の脅迫を受けるだろう事は目に見えているため、ユウは当たり障りのない薄い笑みでルークの誘いをすべて断った。
 最初こそにこやかな笑みで提案を続けていたルークだが、此処までユウが頑なに頷かない様子を見れば、端から誘いに乗る気も無ければ、その先に待っている展開を彼女が察している事にも気付き始める。口許こそ変わらず緩やかな弧を描いているが、狩人という異名に相応しい的確な観察力を持つ双眸は、段々とユウを獲物として見定めるように細くなっていた。

 「フフ、どうやらこのお誘いの裏にある事実を、君は的確に見極めているようだね。トリックスター。」
 「何のことでしょう。」
 「ノン、誤魔化す必要はないさ。ならばこちらも正直に伝えるまでだ。ヴィルが君と『話をしたい』と言っている。本日放課後、君の業務終了頃に迎えに上がるので待っていてくれ。」
 「お断りしたはずですが。」
 「こちらも毒の君から必ず連れてくるよう仰せつかっているものでね。悪いが諦めてくれたまえ。」

 要するに、最初からユウの意見など聞くつもりも無かったということ。眼前の狩人の口ぶりからそれを容易に察したユウは、あからさまな溜息をこれ見よがしに吐き、何も答える事なく職員室のドアを開いた。問答を繰り返している内に、既に職員室前まで辿り着いていたのだ。
 ではトリックスター。また後で。わざとらしいほど仰々しい身振りで、被っていたハットを胸元に当ててお辞儀をするルークが、ユウの背へと掛けた言葉は、当然ながら返事を待つ事なく閉ざされた扉により霧散する事になる。しかしそれに気分を害する事も無く、狩人は先程よりも愉しそうに口許を歪め、足早に自分の教室へと戻っていくのだった。


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 これから訪れる波乱を予想していたマブ達は、そんな波乱を起こすだろう先輩達から大切なマブを護るために朝から行動する予定だった。しかし狙ったようにその先輩達から挙って妨害を受け、彼等が護るべき予定だったユウに合流する事が叶ったのは、昼休みも半ばに差し掛かった頃だった。
 昼休みになるなり、ユウを捕まえようと行動を起こす先輩達の隙を突いて抜け出したマブ達は、ユウの居場所を探るべく一旦いつもの中庭へと集合した。オンボロ寮はそのセキュリティの高さからも厄介な先輩達から逃れる格好の場所であるが、それは周知の事実であるため、当然そこへ向かう道程で待ち伏せされる可能性が高い。つまり一時避難先としては、あまり得策ではない。特別な用事や授業ではない限り訪れる事の少ない温室は、サバナクロー寮長の縄張りのため除外、図書館も身を隠す事は出来るが多くの生徒が出入りするため却下。そうなると身を隠すにはどこが最適か。

 「各寮は絶対あり得ないだろ?あとは何処?鏡の間?」
 「逃げ込んだとしても袋小路だろ。」
 「移動するにしても、こちらも身を潜ませながらではないと、後を付けられれば意味がないぞ。」
 「ああ。今も何人か見張っているもんな。」
 「うげ〜マジ勘弁…」

 他人の気配に敏感なジャックとセベクがざっと周囲を伺っただけでも、見知った顔がチラホラとこちらの動向を伺っている様子が見て取れる。その情報を共有されたエースは、げんなりとした様子で肩を落とした。グリムも空腹と大好きなユウに中々逢えない寂しさに、いつもの元気な様子は鳴りを潜み、自慢の耳をペタリとへたらせていた。
 そんなマブ達の真横の空間が、突如として歪み出す。かと思えば、ポッカリと開いた穴に一瞬彼等は身構えたが、その穴が見慣れたものであったため、勘付いて駆け寄ってくる先輩達から逃れるように急いでその穴の中へと飛び込んだ。空間に突如として開いた穴は、マブと呼ばれた五人と一匹を飲み込むなり、即座にその入り口を閉ざす。
 ずっと彼等の動向を伺っていたラギー・ブッチと、卓越した野生の勘で駆け寄ったフロイド・リーチは、寸でのところで完全に消失してしまった穴に舌を打つ。あの穴は彼等も見覚えがあった。それは平日の朝に必ず見るもの。自分達が獲物して定めた彼女の世界へと通ずる唯一の道。

 「逃げられたッスね…」
 「ほんっと厄介な穴。小エビちゃんを海に招待しようと思っていたのに〜」

 まるで初めから何もなかったかのように、既にいつも通りの中庭に戻ってしまったその虚空を睨みながら、ハイエナとウツボはそれぞれのボスへ報告するため、中庭を去っていった。


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 駆け寄ってきたハイエナとウツボから逃れる一心で穴に飛び込んだものの、実は反転世界を訪れるのが初めてだったエース達は、無限に広がるその空間に思わず感嘆の息を溢した。大きな硝子の破片のようなものが無数に浮遊し、鈍い光の反射と屈折を繰り返している。上も下も天井や底が見える事は無く、まるで広大な宇宙の中に迷い込んだような、そんな感覚を覚える空間。
 綺麗だ、と言葉を溢したのは誰だったか。しかしそんな声に呼応するように、遠くから歓喜とも悲鳴とも取れるような高い咆哮が聞こえてくる。その声に聞き覚えのあるグリムは、ギラティナなんだゾ、と短い手で一方を指示した。

 「あれが、この世界の主ってやつ?」
 「そうだゾ。あいつが協力してくれたから、ユウは元の世界と行き来が出来てるんだ。」
 「へぇ。遠いから解りにくいけど、随分とデカくね?」
 「ユウは全長七メートルくらいって言ってた。」
 「めちゃくちゃでけぇじゃん!?」

 ユウと共に何度もこの世界に訪れているグリムが手を振れば、応えるようにギラティナの尾がゆるりと波打つ。そんな様子を横目に、マブ達はとあるガラスの破片に続く道程を歩き続けた。ここは反転世界。各世界の破れた欠片が漂う反対側の世界。浮遊する欠片は世界のどこかへ通ずる鏡。ユウからの説明を思い出しつつ、グリムはこの世界の概要をマブ達に説明しながら。
 そうして辿り着いた先。世界の破れた欠片の一つに飛び込んだグリムに続き、彼等も次々に欠片へと飛び込んでいく。その感覚は鏡で移動する時のそれと似通っており、意外な類似点を見つけた事に嬉しさを覚えつつも、潜り抜けた先に広がる豪邸に目を見開いた。
 いらっしゃーい、と間延びした声と共に玄関ドアからユウが顔を覗かせる。学園内じゃおちおち休憩も取れないと判断した結果、一旦帰宅を選択したらしいユウの案内の下、通されたダイニングには既にランチが用意されており、腹ペコの成長期達は喜びの歓声を上げた。

 「そういえば、今朝は大丈夫だったか?迎えに行きたかったんだが、寮長やダイヤモンド先輩に捕まってな…」
 「ポムフィオーレにロックオンされたくらいで、特に問題はなかったかな。」
 「いや、それ問題大ありじゃん…?」
 「大丈夫だよ。仕事終わったらみんなの言う通り真っすぐ帰るし。あ、みんなも今日は部活休むって聞いたけど、よかったらこっち泊まっていく?」

 心配かけたお詫びに夕飯も御馳走するよ、というユウの言葉に昨日の内に外泊届を何とか捥ぎ取っていたマブ達は再度歓声の声を上げる。せっかくだし課題もみんなでやろうぜ。僕はポケモンバトルが見てみたい、とこの後の予定を次々に立てて行くマブ達を、今日も変わらず私のマブ可愛い、とユウは微笑ましく眺めるのだった。