まわりがしんと静まり返る。
誰もが平伏しているように私も右に倣って床に額をつけていた。

島の大臣様が君臨する城といえど使用人の便所前なんかにその御方ご本人が現れるとは思いもしなかった。だがその大臣様はたしかに誰が命じたでもないのに歩くだけで万人を平伏させる力を持っているのだった。

隙の無い動作で歩いてきた黒い革靴から伸びるきれいな長い足が、こちらにやってくる。その足が私のまえで立ち止まった。彼がじっと私を見下ろしている視線が、うなじに突き刺さっていた――。

「名は」

意外にもおだやかで、くぐもった声だった。
生まれて初めて聞く声質だ、と思った。声にまで気品があるような。

だけどまさか、まさか……その一言が世話役の御指名になってしまうなんて。





*****


「ナマエ……と言ったな、顔を上げろ」

甘い香りが充満する屋敷内、コムギ島ハクリキタウン本部の城、大臣の館。

私は突如この国、万国に転生した。
“プリン”という可愛らしい名前の女の子と喋る絨毯に救われて、ひっそりとこの国の住人として暮らしている。

小麦粉の買い出しに訪れたコムギ島、ハクリキタウン。はじめて降り立ったこの島で私は案の定、迷子になる始末。それでも能天気な私は尿意を催し目の前にあった大きな屋敷のお手洗いを借りるべく裏口を見つけて駆け込んだ。

こともあろうに……
この島の長、“カタクリ様”に見つかってしまう。

——いいわね、ナマエ。カタクリ兄さんには見つからないこと。

「死刑よ、死刑」と当たり前に言い放ったプリンの言葉が胸に突き刺さる。

私は大臣、カタクリ様の部屋に拘束されて、なぜかお風呂に無理やり入れられ(汗臭かったかな)お化粧もしてもらって(なぜ)純白のワンピースを着せられている。なにがなんだかわからなかったけれど、名を訊かれたことで人生が一変してしまったことは理解できていた。

理解できていないのは、なぜ私なのかということ。ああ……プリンにちゃんとお別れをしたかったな。

「………」

平伏の姿勢から躊躇いつつ、そっと顔を上げるとカタクリ様のストールで覆われた首から下が視界に入った。私を見て、浅くため息を洩らしかけて口をつぐんだようにも見えた。

「……、」

お顔を見るのは失礼かと、ずっと焦点を彼の首元あたりに合わせていたけれど……困ってしまって。カタクリ様は黙りこくっておられるし、どうしたらいいのかよくわからない。当然ながら、このようなことは予想もしていなかったし、だし……大臣様なんて雲の上の御方だから。

「ナマエ」

名を呼ばれたことに不意に反応して。
私はついに、その顔を見つめ返してしまった。

その人は想像するにストールの下の頑固そうな口元、ほりの深いお顔立ちの、がっしりした男性だった。
眉がきりっとしていて、意志の強そうな瞳をしていて。いかめしく寄せられた眉が不満げな影を顔全体に落としている。

言葉もなく、目をそらすこともできず、無遠慮に見つめてしまった。

わたし、粉大臣って、もっとこう……柔らかいわたあめみたいなお姿をしているんだと思っていた。(名前だけで判断していたし)
だが目の前にいるこの御方は、革のジャケットを着——いや、お召し物を着た、生身の肉体を持つ端正な男の人だった。

なんだかそのお姿を認識したら、世話役という言葉が現実味を帯びてくる。

世話役ってきっと……夜伽とかのことだよね?
なんで、わたしなんだろう……。


「……大丈夫か」
「……、すみません。ぼうっとしていて……」
「無理もない、ずいぶん急なことだった」
「……」
「聞くところによると、菓子屋で働いているんだってな」
「……そのとおりに、ございます、です……」
「プリンの住む町ではなかなか人気らしい、このコムギ島の材料を使用するほどにな」
「……プリン——様含め、島の方々に御贔屓にしていただいております。」
「お前が作っているのか」
「……いいえ、修行中なので。わたしの作は、まだ……」
「そうか。一度食ってみたいもんだな」

呼吸の間に置かれた、吐息の余韻が耳に残る。
くらくらして、私は手に力を籠めた。

カタクリ様のメリエンダに私の作った菓子が上がるなんて、私が世話役に命ぜられたこと以上に信じがたい話だ。

「——カタクリ様、私はまだ修行の身でとてもメリエンダにお出しできるほどの腕では」
「ああ、聞いている」
「ですから、一人前になって師匠のプリンに……あ、いや。プリン様に認めてもらうまで、」
「ああ。わかった」

と言ってカタクリ様は「楽しみにしている」と、ふと微笑した。

堅苦しい表情なのに、なんてやさしい顔をするのだろう。それに、すごく苦労してきた人の目をしている。大臣様なのに、どうしてだろう。

「だが、城暮らしでは修行などできないか」
「……」
「じゃあお前は、この城に閉じ込められる気はないんだな」
「……はい、」
「……」
「……」
「……そうか」

密やかに、そう呟くように言ったカタクリ様が目を伏せる。私はどう返したらよいのかわからなかった。

「……」
「すぐ迎えを手配する、突然こんなところに閉じ込めてすまなかった」
「……、」

彼は微かに目を細めた。
きれいな鼻筋の先で、くちびるがそっと淡いため息をこぼした。

「でも、ここから二度と出ることは罷り通らぬと、さきほど言われたのですが……」
「そういう仕来りになっている、だが大丈夫だ。なんとでもできる、心配するな」
「……」
「……ちょっと待っていろ、話のわかるやつを呼んでくる」
「………、……あの、カタクリ様。」
「なんだ」
「恐れながら、お聞かせくださいまし。カタクリ様は、それでよろしいのですか?わたしを、その……」
「ん……ああ、帰らせてしまって、か」
「はい……」

カタクリ様は一瞬黙って真顔になってから、ふっと笑った。笑ったのだけれども眉間を微かに寄せている、なんだか困ったような顔だった。

「……実は俺も、声を掛けただけでこうなるとは思っていなかった」
「え?」
「ペロス兄のところへ行く途中……」
「……?」
「——いや、城を出る途中だった。そこでついさっき聞かされてな。昼間の娘を待たせてあると」
「……」
「だから強制する気はない、お前が気を遣うこともない。帰りたいならもちろんすぐ送り届けるつもりだ」
「……」

それでいいのかと考えあぐねるが、カタクリさんがそんな私を一瞥して「ナマエ」と、そっと私の名を呼んだ。

「はい」
「巻き込んでしまってすまないな」
「いえ、そんな……」
「挨拶が遅れたが、」
「?」
「プリンが世話になっている」
「……い、いや……。」

目を伏せたカタクリ様のまなじりに放射線状の皺が寄る。私は一度首を振って、うつむいた。

こんなに偉い御方が内省して謝罪するなんて、信じられないし恐れ多いことだった。

それにカタクリ様は私なんかを御所望だったのではない。ただ城内にいた庶民の女に一言声を掛けてやっただけだったのだ。

私なんかよりカタクリ様のほうこそ、お困りになったに違いない。ただ受動的でいるしかない私よりもカタクリ様は采配を下さなければならないのだから。それなのにこんなにも、おやさしいお声を掛けてくださっているのだ。

合点がいくと、ほっとしたような、体から力が抜けたような。とにかく私の日常は守られるようだった。

「……」

すっと椅子から立ち上がってカタクリ様は自ら部屋の大きな窓を開け放つ。その行動に使用人もとい、チェス戎兵が焦燥しているとカタクリ様は「いい」と言い、「下がれ」のその言葉にチェス戎兵たちも口をつぐんで即座に部屋を出て行った。

心地の良い風が入ってきて私の頬を掠める。

「そんなところにいないで、こっちへ来い」
「……はい」
「ここからの眺めなら、たぶん話のタネにくらいはなるだろう」

着いていた膝を絨毯からゆっくりと離してカタクリ様の元へ向かった。窓べに並んでふたりで立つ。

豪華な曲線美を描く窓から眺めた景色——それは濃橙の夕暮れ色にとっぷりと沈んだコムギ島の町を一望する光景だった。低い位置にある夕陽の、あたたかくしとやかな光が小さな豆粒のような家々の屋根を照らしている。ころんころんと敷き詰められて川底にある石粒のような光景だった。

わたしはいま、とても高いところにいる。
とてもとても、高いところに。

そう認識すると、膝下がふわふわするような、奇妙な心地よさと恐ろしさを感じた。城から見下ろせるということは、あの家々の端に見えるのは、普段はすれ違うだけで委縮してしまう、恐ろしい武装軍隊が住んでいるところだ。

それらに囲まれるようにして守られながら、いま隣にいるこの御方が政務を取りしきっておられるのだ。この島の……この国のいただきにいる御方なのだ……めまいがする。

「なかなか珍しい眺めだろう、俺も初めて見たとき驚かされた」
「……圧倒されてしまいます。……こんなに、高いところにいるだなんて……」
「この島を一望できる眺めだ」
「……すごい、」
「本当は島内の案内でも、と言いたいところなんだが……危険も多く、女を連れ回すわけにはいかなくてな」
「そうなんです……か?」
「ああ。好んで住みたがるやつなどいない」

胸がドキン、ドキンと痛いほど脈打っていた。大げさかもしれないけれども空を飛んでいるような気分だった。

こんなところに立って、カタクリ様の隣にいて、罰が当たるのではないだろうか?……はっとして、かたわらにいるカタクリ様を見上げる。

彼は、私の言動をじっと見つめていた。彼の力強い目元や見え隠れする素肌を一葉の薄絹のようなやわらかな夕陽が照らしていた。

隠されたままの太い首筋と綺麗な横顔が目の前にある。夕陽が沈み掛けて薄い暗がりの中で黒い革のジャケットが目の錯覚で灰色に見えた。

私の知る男の人の中で誰よりも背が高くて均整の取れた体躯をしていて腰回りがしなやかで、そして誰よりもお肌がなめらかだった。

怒ったような眉、下から見上げると、たれ目がちに見える二重目蓋。豊かな涙袋と長い下睫毛。私の知る誰よりも、やさしそうで、真面目そうで、哀しそう。

それに……誰よりもかっこいい。……大臣様という肩書が無くても、ぼうっとなってしまうくらいに。


「……ナマエ。」
「はい……」
「……お前、心に決めた男はいるのか」
「え?」
「たとえば……許婚や、惚れた男が」
「え……、いいえ。おりませんが……」

「よかった」と、短く囁いてカタクリ様は私から景色に目を向ける。どきどきして、私は黙りこんだ。カタクリ様は凛と立っていて胸の前で腕組みをして遠景を眺めたまま黙りこんでいる。え、よかった……って、なんで……

「菓子作りの修行、頑張れよ」
「は、はい。頑張ります。カタクリ様のメリエンダに早くお出しできる腕になれるように」
「ああ。……」
「……」
「……また、会えるか」
「……」
「これは命令じゃ、ねェんだがな……」
「——っ、」

こくん、と無言でうなずいたら
カタクリ様はもう一度「よかった」と言った。

「でも、どうして……」
「……口説いているからだ」
「……え、」
「……」
「あ……そう……なんですか?」
「昼に名を訊いたのも、率直に知りたかった」
「……。」
「こんな形になってしまったが……次は是非、茶会にでも招待させてくれ」
「………あ、……は、はい……」

ドキン、ドキン、と心臓がはちきれそうだ。
赤くなって、ますます無口になってしまう私。
カタクリ様は小さく咳払いするように喉を転がした。

もし、カタクリ様が大臣様じゃなかったら——もし近所に住む人だったら、私はきっと遠慮や畏怖の念など抱かず、素直に恋に落ちていたんだろうな。

……ううん、もしかしたら、
大臣様のままでも——すでに。

「お前の店は、プリンの屋敷のあたりだろう」
「え?……、あ。そう、かな。こしあん饅頭ののぼりが目印なんですけど」

カタクリ様が少し目を細めた。なにかを思い出そうとしているみたいな、そんな表情で。

「……ああ、それらしき文字があったな、あれか」
「記憶力がよろしいんですね」
「あの店の裏がお前の家か」
「はい。そうです」
「そうか。よくわかった」
「……」
「たまにこうして眺めていよう。運がよければお前の姿をまた見れることもあるだろう」
「あ……じゃあ私、この島に来るたびにお城のカタクリ様に向かってお辞儀します。私もお城を見上げます」

カタクリ様が小さく口元をほころばせたように思えた。細めた目の長い睫毛が扇状に広がる。

表情のひとつひとつの皺や影に、彼の人柄の思慮深さ、丁寧さを感じた。

……わたし、この御方のことがもっと知りたい。今日のこと、あんなに絶望してたけれども。きっと、宝物になる——。


「そろそろ迎えを呼ぼう」
「あ、はい。でも——もし、お時間いただけますならば」
「……もう少し、話でもしていくか」
「はい、カタクリ様がよろしければ……」
「……」

もうすこしだけが、許されるなら。
――返事の代わりに、カタクリ様の瞳がそっと笑う。

愛しい≠ニ思ったら、
白金色の月光が、ふわり、佳き人のやさしさを照らした。





確かに恋だった。