「カタクリ様は妹以外の女性を好いたりするような御方じゃない」
「あんたはいいように利用されているだけ」

一人で歩いていると――突然大通りの往来で、知らない人にそう叫ばれた。

あの人がそう言った理由が、私を案じてのことか、別の思惑があってのことかはわからない。

(……利用、か。)

あの人は、カタクリさんと私の間柄を男女のそれだと思ったのだろう。二人で歩いているところなどは、おそらくこの島の人たちも見かけているはずだから。

だが利用されようもない。
私は人脈も権力も財産もないただの小娘で、しかも手を触れられたことすらないのだ。

「……」
「……」

じゃり、じゃり、と地面を踏みながら、春の宵を二人で歩いた。

どこかから、甘い香気が漂ってくる。
それは人のいない、砂埃の落ち着いた澄んだ空気だからこそ、日中よりも強く香ったのかもしれない。

カタクリさんは私を、自宅のある島まで送ってくれている。コムギ島から船では間近なところにある私の島。

島に降り立つと、必ず自宅前までカタクリさんご本人が見送りをしてくれるのだから、他人の目から見ても、たしかに勘違いされてもおかしくはないのだ。

もうその角を曲がればすぐに着いてしまう。
無言のまま門前に着くと、カタクリさんはきっと今日も、元来た道を歩いていくのだろう。心に燻りを抱えたまま私は、きっと今夜も眠れないんだろうな。

…ちら、と見上げると、左隣のずっと高いところに、カタクリさんの横顔がある。道々の街灯が地面を照らしているけれど、彼の顔までは届かない。その横顔を暗闇に照らすのは、まばゆいほどの月光だった。
青白く瞳の下あたりが照らされて、彼の肌が薄く光っているように見える。

「……」
「……」

……カタクリさんは妹以外の女性を好きになったりしない人…… か。

もしかしたらその通りなのかもしれない。
その心はきっととても硬くて、私のそれとは造りが違うのだ。私が隣を歩いているだけでどきどきしても、彼はいまも、凛とした表情でずっと前を向いている。

なにを考えているのかな。
私のことを少しでも想ってくれたことなんて……ないんだろうなぁ。

「……」
「……」

それなのにどうして、一緒にいてくれるのだろう……。手も触れないくせに。

(………まさか、他の女避けだったりして)

私という女がいるふりをして、誰とも付き合わないつもりとか。
どうしよう。ちょっと有り得るかも……。
え、無理。そんな理由なら、なおさらむり。

そんなことを考えて少々落ち込んでいると、もう私の家のそばに着いてしまった。カタクリさんは素っ気なく前方を眺めつづけている。

……さっきから一体、なにを見ているのだろう?

彼の視線を追って空を見上げれば、煌々と輝く、傾いた三日月がかかっていた。
ずっとうつむいていたから気がつかなかった。
なんてきれいな月だろう。


「春三日月だな」


掠れて落ち着いた、最後に余韻が甘く聞こえる声。聞いているだけでひりひりと鼓膜を震わすようだ。

「………春三日月、って言うんですか?」
「ああ、あのような釣り船型をしている」
「きれいですね」

カタクリさんって風流なんだなあ…。
白金色の光が、カタクリさんの顔半分を照らし、もう半分を影に隠している。
彼はきりりと目を細めた。神経質そうにストールの端から頬骨がわずかに動いた。

「……ナマエ」
「はい、」
「島の門番から聞いた。お前が先日、妙な女に付きまとわれていたと」
「……え?」
「どう絡まれた」
「……」

まさかあの場に、カタクリさんの側近がいたとは気づかなかった。カタクリさんはどこまで聞いているのだろう。

私は、それをカタクリさんに伝えるのがいやだった。カタクリさんにとっては無益なことでもそれを伝えることで、まるで自分がひどく傷つくような気がしたから。

……カタクリさんが女を好いたりしない、利用されている、だなんて…彼からすれば一笑に付す内容であるのだろう。

「……」
「お前が怯む理由などないだろうと思うが」
「いや、伝えることのほどでも……とってもくだらないことですし」

カタクリさんは、私の目線の高さにあるその瞳を、微かに細めた。

「そうか。なら仕方ないな」

さっと顔を背けて、腕を組む。
風を揺らして、夜の香気が鼻をくすぐった。
清らかな冷たい風が、私とカタクリさんのあいだに強く線を引いていった。

彼は虚無の横顔をしている。
こうなってしまっては、なにを考えているのか一切読めない。だが、なんとなく、この関係が冷たくなったような気がした。

「引き留めたな、早くうちへ入れ」
「……はい」

きしむ扉を開けた、中に入ってカタクリさんを振り返る。カタクリさんは私が中に入ったのを見届けてから、踵を返した。

「おやすみなさい……」
「ああ、おやすみ」

黒い革靴で、じゃっ、じゃっ、と砂を潰す小さな音が、遠ざかっていく。

………。


こうして、なにも言いだせぬまま、毎晩気にして、今晩も同じ日を繰り返すのだ。
その背中が行ってしまうのを見つめていると、こらえがたい衝動が喉を突いた。


“――あんたはいいように利用されてるだけ”


……そんなことは、どうでもいい。


「カタクリさん、……!」


咄嗟に、扉から出て呼び止める。
彼はぴたりと立ち止まり、きびしい顔で振り向いた。

小走りで駆けて、傍に寄る。
高いところにある切れ長の瞳。怪訝そうにも怒っているようにも見えるほど、ひそめられていた。

「……どうした」
「いや。……あの」

唾を飲みこむと、ごくりといやな音が鳴る。
ほんの少し駆けただけなのに、心臓がどきどきとうるさくて、カタクリさんにも聞こえているに違いない。

…堅く組んだ両腕に守られたその胸が、私と同じように鼓動することはあるのだろうか。私はこの人が、驚いたり焦ったりしているところを見たことがないのだ。

「あの、もしよかったら……少し上がっていきませんか?紅茶くらいなら……ありますけど……」
「………」
「………」
「……なぜ、いまからなんだ、眠らないつもりか」
「いや、いつもお世話になってますし、少しお話もしたくて」
「………」
「………」
「だめ、ですか?」
「……。俺は明朝、外せない任務がある」
「……そう、ですよね……。」
「……」

すっと体温が冷えて、ますますカタクリさんが遠くなった気がした。それもそうだ。この人はとても忙しいのだから。急に誘うなんて失礼なことだった。

「ごめんなさい、ほんとに……。ではまた今度、日を改めてお誘いしますね」
「ああ、だが……夜分に誘うのはやめるべきだな」
「え?」
「一人住まいだろう。誤解を招きかねない」

見つめ合う視線のあいだを、夜風に乗って甘い香りが漂った。それは緊張して潤む私の目の水分を、すこしだけ飛ばしてくれた。

「大丈夫です、誰にでもそうするわけじゃないので……相手はあの、カタクリ様ですよ?」
「……」
「他の男の人とは違う……だって、粉大臣は誤解なんてしない御方でしょう?」
「そうか」
「……はい」

「…男なら、誤解しないわけがないと思うが」

ふっ、と小さく微かに皮肉っぽく笑った彼の吐息が、私のつむじに届いた気がした。

組んでいた腕を解き、大きな右手がゆっくり私の顔に向かって伸びてくる。

(?……)

驚く間もなくカタクリさんが片膝を地面に着けてその手が顎を持ち上げて、
私の唇を、ぷにゅっ、と触った。

「……!?」

目を見開いた瞬間、
なんだかとても美しいものが近づいてきて、
――目の前が真っ暗になった。

「………」

くちびるを奪われたのだと知ったのは、
すでにカタクリさんが顔を離してからのこと。

いつも冷静で完璧なカタクリさんが、微笑とも苦痛ともつかない、複雑な具合の口角をストールの隙間で結んでいる。

「……」

まだ、私の顎に彼の手が添えられている。
それがするり、と下ろされて、私はすっかり元の自分に戻った。誰にも触れられていない自分に。

それなのに唇に、まだ触れられているときの感触が生々しく残っている。

しっとりした、薄い、優しい、その感触。
それはいま、私の目線の先ではもうストールに隠されて見えない。

唇に指をあてると、カタクリさんの唇の残影が薄皮に閉じ込められるような気がした。
かすみのように、すぐ蒸発してしまう、きれいな湿度。それを撫でると、指先が小さく震えた。

(……うそ、いまのって……)

「……」
「……」
「カタクリさん、わたし、……」

茫然と囁けば、カタクリさんの右側の瞳がぴくりと引き攣る。それが、彼の表情をきびしいものに感じさせた。

「お前を抱きたくなったが」
「……!」
「今夜はやめておく」

複雑そうに瞳が微笑して。
混乱気味に考える私の肩を、カタクリさんは片手で掴んだ。夜の匂いを遮って、甘いお菓子のような匂いがした。

…これがカタクリさんの匂いなのだろうか。
いつも腕を組んでいる、あの懐にいま、抱き寄せられているのだ。

とくん、 とくん、 とくん、
心地よい心臓の音が聞こえる。

(あ………、)

顔が、近……。

(きれい……)

…まるで宝物のように、落ちてきた唇を受け入れると、あの湿度が、私の薄皮を潤した。

唇のついばむ、ちゅっと響く小さな音が心の深淵に波紋を落とした。


“……妹以外の女性を好いたりするような御方じゃない”


(――ちがう)

そんな人じゃない、
なにがあっても、これからは信じていける。

カタクリさんの腕と体温の中。どこか他人行儀な硬い抱擁に、しみじみと愛しさが湧いてくる。

肩ごしに射す一条の光が、
心に立てた誓いをまっすぐに照らした。





恋は砂糖でできている