カタクリさんが眠りに就いたことを知り、私は彼の寝顔を覗き込んだ。

眠りが浅い彼のことだから、ベッドを揺らしてしまったり、シーツの中で衣擦れの音を立てては起こしてしまう。
そっと息を殺して、細心の注意を払って顔を寄せると、仰向けになった彼の無音の寝顔を見ることができる。それは、宗教画に見るような、穏やかだが隙のない、超人然とした印象を与えている。
ベッドライトのランプシェードが、彼の顔に靄のような鈍い陰影を浮かべている。

生えそろった、真っ直ぐで短い睫毛の影が、でこぼこのない平坦な涙袋に影を落としている。
空調に乗って、お菓子のような甘いの香りがした。
その香りの下で、カタクリさん自身の香りも感じる。シュガーの甘い匂いはごく薄く軽いのだが、鼻腔に甘く甘く残るのだ。

こうしていま傍らで、彼の寝顔を見つめていることなんて、片思いしていたときには信じられっこないだろう。
今までは、ただ見つめているだけで幸せで、それだけで胸がいっぱいだった。
いま思えば、当時は片思いなりに幸福だったことは間違いない。
気付かれぬよう、そっと見つめていた。

考えごとをしている顔、苛立った顔、目を細める顔が笑っているのだと知ったとき、紅茶の香りを楽しんでいる顔。手配書を読む瞳、上質の靴。ときどき目があえば、すぐに逸らす横顔。
幹部室の、同じ部屋にいるだけで幸せだった。
声を聞き、その存在感を肩越しに感じるだけで。
あのままでずっといられれば、よかったのかもしれない。深い関係になることなく。

彼の唇の感触も、指遣いも、体温も、私を見て表情をやわらげる優しさも、知らないままならば痛みもなく継続できていただろう。ただ、好きでいるというだけの状態を。
けれども私の気持ちは簡単に暴かれたし、彼は私が思ったよりもずっと敏感な人だった。

「本当に俺でいいのか?」

と、カタクリさんは一度だけ私に訊ねたことがある。
彼はお酒を飲んでいたし、私は彼が酔っているのだと思った。だが、覗き込んだ彼の顔は今までで一番冷静沈着で、感情というものを永遠に失くしてしまったかのように見えた。

「本当に俺でいいのかと訊いているんだ」

どうして彼がそんなことを訊いたのか、私にはそのときわからなかった。
一人で莫大な地位と名声を築き上げた彼が。私なんか、何も持っていないのに。私のようなおもちゃが、彼にはいっぱいいてもおかしくないのに。

いつも不敵なほどクールで、孤高なほどのプライドを思わせる彼が、どうして……

「どうしたんですか?どうしてそんなこと……」

私の問いに、彼は諦めたように目を閉じた。

「いや……もういい。疲れているらしい。」
「……」
「……忘れてくれ」





*****

「眠れないのか」

睡眠から目覚めへのきざしを見せず、低く掠れた声が耳に触れた。その声は、すっと空気の中に散り散りになって、鼓膜に余韻を残さない。彼が目を開けていなければ、気のせいだったと思ったかもしれない。

「どうした…」

彼は、しゅる、と衣擦れの音を立てて、右手で私の後頭部を掴んで引き寄せる。肌理の細かいつややかな顔の素肌。だが、もみあげと顎のあたりの皮膚はざらざらしている。カタクリさんの肌の匂いがした。私は愛しくて目を細めた。

「寝顔を見たくて」
「寝顔?」
「はい」
「そうか…」

ふ、と皮肉っぽく笑いながら、けれどすぐにやわらげた唇で、私の唇にそっと重ねる。
あまりやわらかくない、張りのある唇は、逆に私の唇のやわらかさを楽しんでいるようだった。押しつぶすように一度ついばんだあと、彼はそっと顔を離した。
私がキスから目を開けると、彼も同じタイミングでそうした。
美しく涼しげな目蓋が、そっと持ち上げられる瞬間が見えた。

「はやく寝ろ。あすも早い」
「はい」

ぎしり。
私を抱き寄せて、彼は深呼吸する。
絹のシーツの中は、カタクリさんの体温が溶け込んでいて、あったかくて気持がいい。そのなめらかな感触に吸い寄せられていくと、彼の硬く、鍛えられた厚い胸筋に触れた。

「寒いのか」
「ううん」

何気ない腕が、私の体を締め付ける。
とても幸せで、このまま死んでもいいと思う。
満たされていて、胸があたたかくなる。
微笑しながら、いつのまにか私は冷たい涙を落としていた。それは、生理現象のようなものだと思った。カタクリさんは敏感にそれに気づき、指でそっと拭い取ってくれた。

「泣くな……」
「……」
「……おまえが気に病むことはない」
「……」

カタクリさんはこう言ってくれている。
だけど一生わたしを許すことはできないだろう。

『カタクリさんは家族のことしか興味ないんでしょう。あなたは私のことなんかどうでもいいはずです。それなのにどうして引き止めるんですか?家族しか信用していないくせに。別れます。もう二度と会いません。私にそれができないと思っているんですか?』

『俺が家族にしか興味ないと、どうしてそんなことが言える』

『他人には、完璧な恐怖を与えて…不法入国者を抹殺するんですよね』

あのとき、私は泣いていた。
頬を汚していく涙が熱く、マスカラを流してしまう。化粧と涙に煙る視界でもはっきりとカタクリさんの、なんとも言えない、束の間こわばりを解いた素顔が見えた。
それは、無防備で、どこか無垢で、そして私をじっと見つめていた。……信じがたいような目で。

“あなたは家族だけが大切なんです”

もし私に、もう少し余裕があれば、私はカタクリさんの態度にもっと注意を注ぐことができただろう。しかし私は慣れないこの国の暮らしに、荒んでいて、疲れ果てていた。
そして、偶然見つけてしまったあの少年時代の写真……面影があった、あれは過去を一切語らない彼の秘密なのだ。

……絶対に見てしまったことを言わないようにしようとしていたが、しかし、それを他の家族に言ってしまったということ、そして彼の過去を聞いたこと、その自分の言葉の断片が、ふわふわとあたりを漂っていた。

(……写真、見ました。……あなたは家族だけが大切なんです。……)

カタクリさんは、写真の中の少年と同じ瞳で、私を見つめていた。

思い出して、
喉に声を詰まらせて、涙を堪える私を、カタクリさんはぐっと抱き寄せる。

あれからカタクリさんはますます私に優しくなり、大切にしてくれる……。

だが、彼自身はちっとも幸せそうではなかった。

彼は、私を許そうとすることと引き換えに、自分を傷つけるほうを選んだのだ。
もう昔のように、私を束縛するようなことはしないし、私の前世を追及することもない。

いまになって思えば、出会った頃のあの辛辣な言葉も、駆け引きも、嫌な顔も、カタクリさんの感情表現だったのだとわかる。
彼は、そうやって私の反応を見ることでしか、安心できずにいたのだ。ずっと。
私は、そんなカタクリさんを簡単に裏切った。
まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。

カタクリさんは、その大きな手で私の髪を掻き分ける。

彼の、うつむきがちな顔。影を帯びた、憂いる表情。さぐるような眼差しが、私の瞳に注がれる。無理に微笑して見せると、彼は微かに眉を寄せ、熱いため息を吐いた。

「……ひとつ、懸念がある」

彼の、口角の動かない唇が、そう囁く。

「約束してくれ。どこにも行かないと」
「はい」

私が頷いても、彼は、疑わしげな視線のまま、私を見つめ続けた。
切れ長の鋭い瞳が、いまでは彼を幼いふうに見せている。その表情が切ないほど愛おしく思われて。まばたきすることすら、惜しかった。

この顔と、この声を、
忘れることがないように。

「どこにも行きません」
「本当か?」
「はい」
「……、なら、いい」
「はい……」

私は、
この国にふさわしくはない。


(ごめんなさい)
(ごめんなさい、ごめんなさい……)


だから、決めたんです。
この国を出ようと。

最後まで傷つけて、――ごめんなさい。

いつかまた、違う世界線で巡り会えたら
次はあなたと、
ハッピーエンドになりますように。





ぜんぶ
悪い夢でありますように

きっと目が覚めたらハッピーエンド