「カタクリさん、みっけた」

ペロス兄が長期遠征のため、溜まりに溜まった仕事を片付けていて、気が付いたら日付が変わっていた。今日はもうこのまま、スイートシティで休もうと、誰も居なくなった幹部室で酒を嗜んでいると、ナマエが入ってきた。
寝起きなのか、いつも以上に眠たそうには見えるが、俺を見てニコニコしている。

城には使用人以外いないものだと思っていたので、ナマエが突然現れて正直驚いた。

「いいもの飲んでるぅー」
「ナマエ、帰らなかったのか」
「帰りましたよ、さっき。出戻りです」
「帰ったもんだと思って使用人を休ませたぞ」
「大丈夫、ダイフクさんと死ぬほど食べてきたから」

麦茶を注いだコップを持って、彼女は俺のいるソファの隣に、当たり前のように座ってくる。
柔らかいソファが軋んで、一瞬だけナマエのほうに重心が傾いて、脚と脚が触れそうになったが、そっと距離を離した。

「きょう残ってるの、私だけ?」
「ああ」
「ふーん……」

ナマエは両足をソファにあげると、膝を抱える体勢を取って、楽しそうに麦茶を飲んでいる。
俺も持っていた酒を呷って沈黙をごまかした。

もしかして、
この状況はまずいんじゃないか、と少しだけ思った。こんな夜更けに、彼女とふたりきりになるのは初めてだったからだ。

まさかナマエが俺に、下心など抱くはずはないと思うが……ナマエは、今ではこの国の宝みたいな存在で、ママ含め、皆から愛でられている。兄弟からも人気だ。そんな子が、わざわざ兄のように慕う相手に妙な気を起こすはずがない。……たぶんな。

とりあえず、意識せず、冷静に努めよう。
俺は全てにおいて完璧な男なのだから。

「ナマエ、先にシャワー浴びてきたらどうだ」
「えっ?」
「もう遅い、泊まるんだろう」
「もう浴びましたよ、お先に」
「そうか…」
「……驚いた」
「?なぜだ」
「なぜって……」

「なぜかしらねぇ?」とナマエは軽く笑っている。

なにを驚いたのだろう、と考えて、なんだか背中に汗がじわりと滲んでくる。まるで、これから行為をする前の発言みたいだったのか、もしかして。という気がしてきたからだ。
いや、でも、普通そんなこと思うだろうか?
しかし、他に心当たりが見当たらない。

こういうとき、ダイフクのような調子で軽く受け流せればいいのだろうが、いまの俺にはそれができない。その余裕が、いまひとつない。

ただ、黙っているのはもっとまずい。
なんとなく、空気が変わったような気がする。
ナマエはこちらをじっと見ているし、これはまずい。とにかくなんらかのリアクションをとらなければならない。

「……深読みしすぎだ」

と、俺が浅く溜め息を吐くと、ナマエは白い歯を覗かせながら、まだやわらかく笑っている。

「はは、バレた?」
「……揶揄うな」
「いや〜、勘違いしちゃってさ?カタクリさんて、やらしーなぁって」
「どこがだ、やらしくねェ」
「うん、じゃあやらしーのは私のほうだ」

屈託なく朗らかに笑いながら、そんなことを言える彼女は賢い。俺はきっと、そんなふうには言えない。

なるほど、とはっとした。
ナマエは、色気があるのだ。

ただ顔がきれいとか可愛らしいとか、見た目がいいだけじゃなくて、独特の雰囲気を持っている。近くに座っているだけで意識を奪われてしまうような、目力がある。その色気におされて、彼女のペースにハマってしまう。だからナマエには、余裕があるのだ。

そんなふうに、睫毛が長くて、艶があって、飴玉のように大きくて光る瞳は黒くて、どこか物憂げで、それでいて……

「……なんだ、見るな」
「カタクリさんが、じっと見てくるから」
「いや、お前が先だ」
「いんや、カタクリさんが先だった」

見つめあっていたという事実にはたと気づいて、なんだか顔が熱くなってくる。酒のせいか。ナマエはいつもどおり、かけらも照れた様子がないし、主導権は依然、彼女の手にある。

ガキのくせに……、けれどナマエはただのガキじゃない。あのナマエなのだ、という気にさせるものが彼女にはある。風格か、はたまたオーラか。ああ、そうか、色気もだったな。そうだった。

「カタクリさんって実は表情豊かだよねぇ…」
「……本当に怒るぞ」
「だって、見てて飽きないもん!」
「……ナマエは、いつもあまり変わらねェな」
「そう?」
「ああ、ぼけっとしてるか、ぼけっとしてないかの違いしかわからん」
「なんだ、そりゃ……」

ハハッと笑った目じりに、睫毛の影が落ちる。
眉と瞳の間隔が近くて、とぼけたとき、眉がついっと持ち上がる。いたずらっぽいくちびる。
見ていて飽きないのはナマエのほうだ。

その綺麗な顔立ちに、ナマエという人柄が加わると、こんなにも鮮やかな存在になってしまうのか。

なんだか、さっきよりもずっと変な空気になっている気がする。
ナマエは、俺側の背もたれに腕を伸ばしていて、変に肩を抱かれているような体温を感じて落ち着かない。

「ふたりきりですね」

口に含んだ酒を噴きそうになって、急いでごくんと飲みこんだ。

ナマエは、映像電伝虫の反射した、この時間には白黒で何の映像も映されていない壁を眺めている。爆弾発言をしたと思えないほど穏やかな横顔。その目蓋がぱちりとまばたきしたあと、黒い双眸が俺を捉えた。

「ああ、まあ、そうだな」
「……警戒してるの?」
「は……?」
「なんか、いつもと違う。」
「同じだ。ナマエがいつもより近いからだろう」
「近い?」
「ああ、」
「……イヤ?」
「嫌…じゃ、ねェが」

ぎし、とソファが軋んで、俺は、びく、となった。ナマエが動いて、何かが起きるのかと思ったのだ。ただ身じろぎしただけだったのに。

きれいな横顔が、ふ、と短い吐息を洩らして、鳥肌が立つ。丸い瞳が、星空みたいにキラキラして見える。実際にキラキラして見えるのか、心理的にそのような効果をもたらしているのか、判別がつかない。

けれど、流し見るようなその視線と視線が重なったとき、あ、と思った。これはまずい、と。

自分の気持ちが、ぐっ、とナマエのいるほうに引き寄せられた感覚があった。

「…私はもっと近づきたいな」
「……」
「これでも遠慮してるんだけど」
「おぃ……」
「カタクリさん、軽く酔ってる?」
「酔ってねェ」
「ちょっと赤くて、いい匂いがして」
「……」
「すごく、きれい」

ぎしり、
またソファが軋んで、背もたれの細い腕が、そっと俺の肩に優しく回された。

突然の出来事に硬直して思わず睨みを効かせている自分と、冷静にナマエの様子、そして自身を別の角度から眺めている感覚の自分がいる。

視線を重ねると、彼女は困ったように眉を寄せる。そして照れくさそうにくしゃりと笑った。

「カタクリさん」
「ちょ、ちょっと待て」
「えっ?……そりゃむずかしい注文ですね」
「いや、待て…落ち着け、……まずい」
「待たないよ、こんなチャンスもうないもん」
「……」
「カタクリさん」
「……」
「好きです」

ぐうん、とめまいがした。
肉体と理性が乖離する音だった。
受け入れられないのに、流されてしまいそうになる。

からだの中で、細胞が活性化している。
脈は早いし、たぶんずっと緊張している。
俺は、ナマエに心奪われることを恐れていたのだ。

きっとずっと前から、固くフィールドを張って、自分の感情を守っていた。
ナマエの気持ちを考えたことなんて、多分一度もなかった。自分のことしか考えられなかった。

「……」
「聞いてる……?」
「……聞いている」
「カタクリさんって私といると先読みしないよね」
「……」
「ダメ?」
「なにがだ」
「キスしたい」
「!?、ダメだ、なに馬鹿な事を言っているんだ!!!」

もはや、冷静に客観視している自分は消え、慌てている自分だけが取り残された。

いい匂いがするな、と思ったら、いつのまにかナマエに抱き着かれているし。さっきは遠慮がちに肩を抱いていただけだったのに。

俺の反応は彼女の予想どおりだったらしく、断られたというのに目じりを下げて頬笑んでいる。

「ナマエ、お前いくつなんだ」
「?」
「なんなんだ、その余裕は」
「ん……余裕なんて」
「あるだろう」
「ハハ、カタクリさん、ないの?」
「いまはな…」

彼女の言う通り、俺はナマエといると見聞色が使いづらい。読めないのだ、彼女の行動は。こんな相手とは出会ったこともなかったので、ずっと困惑していた。

「私もないよ」
「……」
「さっき聞かれたとおり、私は子供、カタクリさんは大人」
「……」
「余裕なんかないよ」

湿った甘い声が、こめかみのあたりから聞こえてくる。穏やかであることと、淡々としているということは、一見して似ている。ナマエがいま、どちらの状況であるのか、俺にはわからなかった。

けれど彼女が、静けさを装っていることは伝わってきた。俺を抱き寄せる細くて小さな腕が、手が、指先が、その熱を訴えていた。
もしもナマエが、本部預かりの身ではなくて、せめて海賊だったら。

だが、ナマエはシャーロット家にとっての重要人物で、子供で、だから流されるわけにはいかない。きっとその手を取れたら、すごく、満たされるのだろうけれども。

「だめだ……」

胸元には触れぬよう、彼女の鎖骨ら辺を軽く押すと、俺の抵抗にナマエは、ゆっくり腕の力をゆるめて、体を離してくれた。

ナマエの顔を見るのがこわかった。
きっとナマエはもう笑っていない。いつもの穏やかさや人懐こさが消えた顔をしている。それを見た瞬間、自分が傷ついてしまう気がした。

「他に……好きなひと、いるの?」

そっと響いた声。
ぎゅっと体の中枢を握られたような、苦しさを感じる。ソファにふたりで向かい合って、至近距離で座っている。逃げ場がないとは、こういうことだ。

「……」
「カタクリさん」
「……」
「こっち見て」

ナマエの顔を見るのがこわくて。
目を逸らしていたけれど、甘い言葉に誘われるように見下ろしてしまう。
ナマエは、予感したとおり、もう笑っていなかった。真面目な顔をして、俺をじっと見つめていた。長い睫毛の下で、黒い瞳が思わしげな表情を見せていた。

「いない」
「……そっか」
「だからってナマエとそういう関係にはなれねェ……」
「……」
「重罪だ……」

ナマエは、ゆっくりまばたきしながら、真剣に俺の言い分に耳を傾けてくれていた。
けれども、ある瞬間から、微かにまなじりが和らいだ。

「重罪?」
「そうだろう、ナマエ。そういう条例があるんだ」
「うん、たしかに知らない。それ今作ったんじゃないの?」
「……」
「あ、眉毛が動いた。それ嘘だ。」
「……っ」
「ビッグマム海賊団の幹部は条例とか勝手に作れる系なんだ?」
「………ナマエ、勘弁してくれ」
「……ちぇっ。………くっ、ぷぷぷ」
「なにを笑ってやがる」

可笑しそうに口許を緩めているナマエに、俺は呆気に取られる。さっきまで真剣に聴いてくれていたのに、なにが可笑しいのだろうか。
しかし彼女は見れば見るほど、もう我慢できないと言った具合に、ますます破顔していく。

「ごめん……つい……」
「笑うところじゃねェ……」
「……今日、そこまで望んでたわけじゃなかったからさ。好きだって言えたらいいなって」
「あぁ?」
「なのにカタクリさんが、エッチな心配までしてるから……」
「……」

俺が呆然としているのを見て、ナマエはまだ可笑しそうに、朗らかにニコニコしている。
夜にふたりきりで告白されたら、そうなのかと心配しないのか。なんだか自分の顔が熱くなっていく。

「カタクリさん」
「……今度はなんだ」
「いや?…真面目なんだなぁーって」
「……」
「さすが、全てにおいて完璧なだけあるね」

ナマエはまだ笑っている。
ひとしきり笑って、ようやく治まった頃、彼女は短くため息を漏らした。

「重罪はおこさないよ。我慢する」
「……できるのか」
「……多分ね。もう少し、カタクリさんとちゃんと交流を深めてからにするよ」
「……」
「よし、解決っ!」

そもそもどんな交流なのだろうか、と考えていると、ふわっと体が動いて、あたたかい細くて白い腕に抱き着かれていた。

「……これはいいのか」
「セーフセーフ♪」
「……」

ナマエはニコニコしながら、片手で麦茶を取って飲んでいる。長い睫毛、大きな瞳、きれいな横顔、余裕のある表情。
完全にいつものナマエだが、突然距離がなくなって圧倒される。

俺は、もしかして…流されたのだろうか。
まだなにも返事もしていないのに、なんだか、もう恋仲になっているみたいな雰囲気なのはどうしたことだろう。

流されたのではなくて、流れていったのか、自分から。それから、しみじみとナマエのことが好きなんだな……と思って、なんだか不覚にも幸せに感じた。

きっとこんなことでもなければ一生封印して、押し殺していただろう。
だけどこうしてナマエを好きだと認められて、ただただ、嬉しかった。ナマエもニコニコしている。好きな人が自分を好きでいてくれるというのは、奇跡みたいなものだ。

もしかしたら我慢できないのは、
俺のほうかもしれない。言わないけれど。





わかっていたのに虜になった