長期遠征中のカタクリさんから、スイートシティ、幹部室直通の電伝虫宛に連絡が入った。

仕事に追われているペロスペローさんに深夜まで付き合っていた私だったが、「ナマエちゃん、きっとカタクリからだ、出てもらえるかいペロリン♪」と、忙しさで頭が沸いている深夜テンションで甲高くペロスペローさんから言われて、一瞬、思考回路がショートして、なんのことだかわからなかった。

カタクリさんは、家族の中でも(特に妹群)有名で、人気者で、そんな彼からの着信は誰もが望んで取りたがるとか、取り合いになって電伝虫が木っ端微塵になったことがある、なんて都市伝説をプリンから聞いたのも記憶に新しい。

使い慣れていない電伝虫の着信ボタンらしきものを押したら、どうやら、新機能の保留ボタンを押してしまったらしく、ウタの“風のゆくえ”の機械的な保留音が室内にこだました。
ペロスペローさんが咄嗟に「それは保留だ、ペロリン」と、長い舌をうな垂れさせたので、「スミマセン、スミマセン」と平謝りして、残りのボタンを押して、ようやく通話が開始した。

「もしもし……お電話出ました」
『……ナマエか?』

電話の向こうから、カタクリさんの低い、それでいて余韻の残る声が、鼓膜に響いた。
遠くで、家族らしき人たちの笑い声が聞こえてくる。きっと宴会中なんだな。その後、カタクリさんの周囲は静かになった。場所を移動したのだろう。

二週間前に直接会って聴いていたその声が、すごく久しぶりに感じる。遠くに離れているからなのかな。それとも、電話ごしが初めてだからなのかな。カタクリさんの長い下睫毛と、赤くきれいな瞳を思い浮かべて、鎖骨の下がぎゅっとする。

「カタクリさん。はい、わたしです」
『……声が、似てるんだな。プリンと』
「え、そうですか?」
『一瞬プリンが出たのかと』
「えー、そんなに?……カタクリさんは?遠征どうです?」
『ぼちぼちだな……』

なんだかもう電話が終わってしまう流れにしてしまってすこしだけ口を噤んだ。……それじゃあ、というのがとてももったいなかった。カタクリさんも黙ってる。こっちは雨が降ってます、とか、今日こんなことがありました、とか無難な話題はあるけれど、そんなことを話したいわけではなくて。

テーブルにあがっている山積みの手配書を風で飛ばされないように重しを乗せて、ソファから立ち上がった私は窓際に立って空を眺めた。

雨がしとしとと降っている。
月も星もない。暗闇から水滴の輪郭だけが部屋の灯りに照らされては落ちていく。

……好きだなぁと思う。
カタクリさんのことを好きだというこの感情が言葉のない繋がりの中で、はっきりと浮かび上がった。


『会いたいな』


低い声が、転がすような吐息を交えてゆっくりと確かに耳許を舐めた。私はまばたきをして彼の言葉に肯いた。
会いたい。私もすごく。

「帰るの、明日の夕方でしたっけ。疲れてるだろうから、明後日にします?」
『大丈夫だ。明日戻る』
「はい……」
『5時頃には……城の前で』
「はい」
『それじゃあな』
「ええ、……遠征、お疲れ様です。帰り、気を付けくださいね」
『ああ。』
「電話、ありがとうございました」
『……ああ、……ゆっくり休め』

おやすみなさい、と返すとわりとあっさりと通話は途絶えた。しばらく電伝虫を握りしめて動けなかった。

電話を切って立ち尽くしている私に、ペロスペローさんが背後で小さく溜め息を吐いたあとに静かに言う。

「ナマエちゃんに手伝わせていると伝えたんだ、ペロリン」
「あ、そうだったんですね…」
「何時頃だとここに居るのかと聞かれていてね」
「なるほど……」
「だからさっきのは100%、ナマエちゃん宛の電話だったんだよペロリン」
「………」

カタクリさんとは、たまに時間があればここで話したりする程度の仲で──付き合ってるとはいえないし、好きだといわれたこともなくて――だから、さっきの電話ではっきりと恋愛の形に変容したように思われて。

明日、どんな顔していけばいいかな。
ドキドキして帰宅後も結局明け方近くまで眠れなかった。





*****

「城の前で」と言われたものの、なんだか居ても立っても居られなくなって4時過ぎには港へ向かった。
やわやわと青空を残す海岸に向かうと、あぐらを掻いて座る後ろ姿のカタクリさんが見えた。近づいていくと大きな波がカタクリさんの足許で砕けて、そのしぶきが私の傍まで散ってきた。

「カタクリさん!…おかえりなさい」
「あぁ……今戻った」

振り向いたその表情や髪や声や雰囲気がすごく新鮮で、すごく近い。実物は直視しがたい凄みがある。
だけどカタクリさんはそうではないらしく、じろじろと私を眺めて「?」という表情を浮かべた。

「いつもと感じが違うな」
「え。そうですか?初めて着たんです、このブラウス」
「……」
「……」
「そうか」
「……」
「よく似合っている」

私は照れくさくて、恥ずかしくなって口を噤んでじっとしていた。
カタクリさんはいつもさらっと言葉を口にするけど、それに振り回されているってこと彼は自覚ないんだろうな。

遠征がどうだったかとか、そういう話はしないらしい。カタクリさんはいつもどおりの彼だった。ゆうべの電話は夢だったのかなと疑ってしまいそうになるくらいに。

「何時にこっちに着いたんですか?」
「……1時間くらい前だ」
「疲れてません?」
「いや」
「そっか、相変わらずタフですねぇ」
「それよりも早く顔が見たかった」

普通の会話ができていると思ったのに、急にそんなことをいう。面食らってからじわじわと顔が熱くなって、こめかみに汗が滲んできた。

「わ……わたしも、毎日、カタクリさん元気かなぁと思ってましたよ」
「……」
「カタクリさんもですか?」
「……悪い。俺は毎日ではねェが……少々忙しかった」
「え!」
「昨夜は、ナマエを思い出してな」

ふふっと、鼻にかかった息を洩らしてカタクリさんの瞳が笑う。
こんなふうに、笑うとちょっと猫っぽい目になるのがたまらなくきれいだなぁと思ったのが好きになったきっかけだったかも知れない。

「会いたくて……参った」
「……カタクリさんって、たまに真顔で照れること言いますよね……恥ずかしくなっちゃいます」
「俺も照れくさいと思っている」
「うそでしょ、なんにも変ってないですもん」
「そんなことはない」

ぐっと右手を掴まれて、ぎゅっと胸板に押し付けられる。どく…どく…どく…と手のひらに鼓動が伝わって……その上にあるカタクリさんの隠された唇の端がそっと弧を描いた。

「どうだ。……早いだろう」
「えっ うっ うん」

たしかに、
すこしだけ早い…のかな。
本当にすこしだけな気がする。

それよりもグローブをはめていないカタクリさんの手、大きくて硬くて胸板も分厚くて、やっぱり硬くて。すこし乾燥したその手の感触は明らかに私の手とは違っていた。爪が清潔に短く切られているけれど、もともとの形が細長くてきれいだ。節々がなめらかで手の甲が筋張っていて。彼に掴まれていると自分の手が女っぽく見えてくる。
初めて触った手。ずっと触ってみたかった。憧れだった。

見惚れていたらカタクリさんはあっさりぱっと手を離した。それで、なんだか弱ったように眉尻を微かに下げて目を細めた。まるで本当に照れくさそうな感じで。

「今日は悪かったな」

つやつやした睫毛がしばたいて赤い瞳が私を眺めた。

海のかなたは、ゆっくりと橙色に沈みつつある。
あと1時間もすれば、とっぷりと暗くなってカタクリさんのきれいな瞳を隠してしまうだろう。赤い瞳の奥の、穏やかな海みたいな深くて澄んだその瞳を。

「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」
「島まで送っていく……」
「はい」
「立てるか?」
「あ、はい、」

大きな手がまた差し出される。
そっと握ると、強く握り返して助け起こしてくれた。

立ち上がって、その手はやんわりと力が抜けて私も握るのをやめた。お尻に付いた砂を払って、ふたりしてゆっくり歩きはじめる。

カタクリさんの左手はたぶん、さっき受け取ったのであろう新聞が持たれいて右手が空いている。繋いでみたいけど、きっと心臓が長くは持たない。

なめらかな小麦色の砂浜が広がっているのを眺めながら、まっすぐ歩いた。潮風が吹いてカタクリさんからは、やっぱり甘い匂いがした。

いままでは一歩分は距離をあけて歩いていた。
だけどいまは、一歩分近くカタクリさんが触れる距離で歩いている。長く伸びるカタクリさんの腕は筋肉でぎゅっと締まっていて熱を帯びている。

胸がいっぱいで、なにも話したいことがない。
きっと無難な話題は、蛇足に感じる。でも、黙っていると自分の心臓の音に負けてしまいそうになる。好きだなぁという気持ちでいっぱいだった。
どんどん、好きになってしまう。
こわいな、とも思う。こんなに好きになったら、きっと自分をコントロールできない。

「少しぶらついていくか」
「え……はいっ!いいですね」

ずっと高いところにあるカタクリさんの顔。
いつも見上げてた、いつも憧れてたその瞳が、高い鼻筋が隠された口許がいつもよりも少しだけ近い。

同じ気持ちだと期待してもいいのかな──いまはまだ、はっきりと言葉にしていない。
もうすこしだけこのまま、言葉にするのがもったいないから。不安も焦りも、ふしぎなほどない。

カタクリさんの優しく微かに細められた瞳が、これからの未来を信じさせてくれている。





きみがとなりにいる