麦わら海賊団との抗争、消えたシャーロット家の長男、ペロスペローさん。
風邪、環境の変化、気疲れ、心細さ、孤立感、それにカタクリさん。

心の真ん中に、ずしりと居座りつづけているストレスの要因を並べ立てて、どれひとつ自分の力量では、如何ともしがたいのだと思い知らされる。

これらの原因に対して、自分がアプローチする力はなく、ただ流されて、保護を受けているだけなのだ。せめて風邪だけでもよくなれば、カタクリさんにかかる負荷を減らすことができるだろう。

……いや、だけど、
もしかしたら彼にとって、私が寝込んでいるという状況は、手間がかかるという点を除けば、かえって安心できることなのかもしれない。

私がわがままを言って外に出ることこそ、彼には一番面倒だろうし――風邪をひいて臥せっているうちは、彼のプライベートな空間を、好きにうろつかれることもない。

(……)

汗をかいた顔を触り、ためいきをつく。
居場所がないということを実感して、いやになる。そして、そんなことを愚痴っぽく思う自分自身に対しても。


月曜日の昼。
ゆっくりベッドを降りると、フローリングの感触が心地よい。

汗を吸ったやわらかいシャツを脱いで、用意されていた新しいシャツを身に着ける。肌ざわりのよい、清潔なひんやりとした余韻を裸体に残す。

カタクリさんは、そんな私に「すまない」と、一言詫びたけれど、詫びなければならないのは私のほうだ。

いくら、私が彼の兄、ペロスペローさんの部下だったからって、こんなに甘えてしまっていいものだろうか。

あの日、麦わらの一味を援護してしまった落とし前をつけるべく、私はひっそりと、万国を出ようとした。

だが、それを阻止したのは、紛れもなくシャーロット家の長男、ペロスペローさんであった。

このまま万国にいろと命じられたものの、人の目がつくといけないとのことで、ペロスペローさんが匿ってくれていた。それと同じ時期に、万国からカタクリさんが姿を消した。


ある日、ペロスペローさんから突然、「お留守番を頼むよ、ペロリン」とだけ、告げられて、私が当面のあいだ身を隠せるよう、信頼している者に世話を任せているから安心しなさいと言い、今度は、ペロスペローさんも姿を消した。

色んな出来事が一気に重なり、疲労とストレスで高熱をあげて倒れた私をブリュレが世話してくれたらしく、何日も寝込んだあげく、目を覚めたときには、どこかの知らない島にいた私。

私を匿ってくれていたのは、万国から突如姿を消し、麦わらの少年に敗れた、あの、カタクリさんだったのだ。ペロスペローさんは、私の世話をカタクリさんに託したらしかった。


着の身着のままだったため、そのときのワンピースはきれいに畳んでチェストの上に置かれている。下着も洗ってワンピースの下に隠すようにして返却されていた。

カタクリさんが片づけてくれたのだろうか。
カタクリさんがどんな顔で、私のブラを片付けたのか想像もできないが、とはいえそこに置いてあることが事実だった。

私は、廊下に出るときは、一応ブラくらい着けなければならないと思った。風邪のときには、こんな最低限のマナーすら億劫になる。

廊下に出ると、ひとつだけ部屋の光が、無機質にぼうっと床に照り返していた。私はお手洗いを済ませて、光に吸い寄せられるように、その部屋へと入った。カタクリさんが、こちらに背を向けるかたちで、ソファに座っていた。

ぐつぐつぐつ、とミルクパンの入った鍋がテーブルの上で煮えている。側にはガラスの小皿が三つ並んでいた。

彼はこちらに振り向かない。
鍋の様子を真剣に見定めているらしい。
彼は、例のガラスの小皿にいれると、ミルクパンの鍋に蓋をした。そうして、ゆっくりこちらに振り向いた。

「どうだ、気分は」
「……お陰様で随分回復してきました。熱も引きましたし」
「だが、それは解熱剤の薬効かもしれない」

と彼はいい、私に鋭い視線を投げかけた。
彼は、私の容態を目視で察知できるらしい。
だが、すぐに顔をそむけた。

「飯は食べられるか。ブリュレに作らせた」
「ありがとうございます。おいしそうな匂い……」
「それはよかった」

と、彼は淡々という。
私はなんだか、自分がとても場違いな発言をしたような気がして、口を噤んだ。この人と雑談なんてできる日が果たしていつかくるのだろうか。

映像電伝虫が映し出されている壁と、テーブルとソファだけの部屋。テーブルには鍋の他に、世界経済新聞が置いてある。

私は、床に腰を下ろした。
この部屋は、あまりにがらんとしすぎている。

前は――カタクリさんが、よくスイートシティの幹部室を出入りしていたときは――この人の家は、コムギ島、ハクリキタウンの大きな城で。

彼の、大臣がいた部屋は、生活感がない豪奢で高級ホテルのような部屋だった。

だが、いまはどうだろう。
その城よりも半分も満たないであろうこの部屋は生活感がない、というよりも、本当に生活していなさそうな感じがする。

匂いとか物音とか、気配がしない。物もない。まるで、隠棲しているみたいだ。実際彼は、そのつもりだったのだろう……ペロスペローさんからの依頼がくるまでは。

「口に合えばいいがな」

と、カタクリさんが言う。私は、緊張しながらそれを食べた。とても薄味で、普通においしかった。病院食のように、きちんと計量し栄養面を考えて作ってくれたのだろうという味だった。

カタクリさんは、私のはす向かいのソファに座り新聞を手にとっていたが、私の食思を確認するために、ときおりちらと視線をよこした。

「おいしいです。」
「ブリュレにも伝えておく」

なるほど……ブリュレはカタクリさんの居場所を知っているのか。万国の住人は、家族含め誰も彼の居場所を知らないだろうと思っていたけれど。

ともあれ、そんな人が私に時間を割いてくれたのだ。まったくありがたいことだった。ペロスペローさんが信頼している理由がよくわかる気がする――私はその恩恵を受けるほど価値のある人間ではないけれど。


すべて食べ終えると、カタクリさんは私に青い錠剤を出してきた。私がそれを飲み込むまで、彼は私から視線を離そうとはしなかった。出されたものをすべて胃に収め、手を合わせてごちそうさまでしたというと、カタクリさんはトレイに食器を片づけ、テーブルの隅に寄せた。

「カタクリさん。ありがとうございました」

彼は、「いや」といった。
長袖のライダースに隠れた腕の筋肉や手の大きさが既視感となって、私の記憶に流れた時間というものを一瞬流し去った。

数ヵ月前は、こうして彼の腕が隠されていたことはなかったのだけれど。だが、彼はもう、あの頃の彼ではない。

「汗をかいているだろう。浴室を使え」
「はい、お借りしたいです」
「……たしかに、かなり回復したようだな」

ひそめられがちな柔らかな眉や、どこか沈痛めいた翳りを浮かべる二重の瞳、高い鼻梁や薄い、いまでも隠された唇。

濃い影をたたえる姿は、もっとぐっと迫りくるような凄みがあった。私は、後ずさりたくなるのを、すんでのところでこらえた。

「今朝、ペロス兄から連絡があった」

カタクリさんは、私を見下ろして目を細める。

「お前のことを訊こうとはしなかったが。ペロス兄なりの気遣いだろう」
「ペロスペローさんは、無事でしたか?」
「ああ。心配はいらないと」
「……」
「……」

私が顔を曇らせると、彼は目を逸らして、顔を背けるように窓のほうを眺めた。

「ペロスペローさんは、なぜこんなふうに、突然失踪したんでしょう?なぜ、私をカタクリさんのところへ預けたんですか?」
「俺も、深い事情はなにも聞いていない。お前と同じように」
「……」
「だが、日々の動向を俺なりに探っていた。失踪の件はママを助けるためだろう。麦わら海賊団と百獣海賊団の抗争を噂に聞くと、それ以外考えられん」
「ペロスペローさんはどこにいるんですか?」
「ワノ国、とだけ。」
「カタクリさんはご存じなんですか?」
「ああ。といっても、ペロス兄が話したわけじゃねェが。俺への連絡はすべて逆探知をしかけているからな」
「……」
「俺は遠征しているはずの身だ。つまりこの場は誰にも知られていない……お前を預かることに関しては、ここが安全であることは保証する」
「あ……はい」
「……」
「カタクリさんは……ずっとペロスペローさんと連絡を取り合っていたんですか?」
「ずっと?今回のペロス兄の失踪のことか」
「あ、いえ――」
「数ヵ月前、麦わらに敗れ、いつのまにかペロス兄と和解したのか、ということか」

カタクリさんは、相変わらず窓を眺めていた。
遠い、薄い青空が、細い窓枠ごしにたゆんでいる。私は、ぞく、と体の中枢が冷え込んだような気がした。

カタクリさんに対する違和感。
彼が本当に生きているのか、死んでいるのか、夢やまぼろしではないかと、ずっと疑いつづけていたのだ。

「……」
「……俺が万国にいまも潜んでいるのも、いつかペロス兄の役に立てる機会がくるだろうと考えてのことだ」
「……」
「お前のことも、なにがあっても必ず守る」

カタクリさんは、独白のように低くささやくと、唇を固く閉ざした。

私は、彼の想いや苦悩の一端を垣間見た気がした。それは、まるで実際の体験のように、深く心に圧し掛かる苦しみだった。
私は、なんだか息が詰まって、言葉を失った。





*****


火曜日の朝。
顔を洗って廊下に出ると、カタクリさんが、ジャケットを着ながら玄関に立っていた。彼は私に振り向いた。玄関は昏く沈んでいたが、朝の冷え冷えとした清潔な空気と共に、遠くから射す青い陽光の気配がした。

「どこかにお出かけですか?」
「ああ。」
「お気をつけて……」
「いつまでもお前に、ブリュレの部屋着を着せておくわけにもいかないな」

と彼は、私の全身を眺めていった。
いつも日替わりでブリュレの物を借りて着ているが、特に不便や不都合を感じたことはない。この上質の生地のやわらかさが、着心地がよく気に入っている。それに、シルエットもいい。そのことを伝えると、彼は「そうか」と目を伏せた。

「欲しい物を書き出しておけ。日用品やら本やら、好きに書け」
「でも、どこにも出かけられないし……特に必要ありません」
「それはお前が風邪で臥せっていたからだろう。回復したからには、可能な限り普段どおりの習慣を守るようにしてもらいたい。俺はお前に不自由させたくねぇ」
「はあ……」
「いいな。」

突然押し付けられたメモ用紙に面食らって、私は落っことしてしまいそうになる。こうして彼は身を潜めてきたのだと思いながらも、私は、ビックマム海賊団の“幹部”であった相手からメモ紙を預かったことに、呆然としていた。

「でも、わたし」
「女ならば当然、必要な物も多いはず」
「……」

カタクリさんは壁の掛け時計を確認すると、さっさとドアを開けて行ってしまった。私は所在をなくしたメモ用紙を見下ろし、とぼとぼと部屋に向かって、二度寝しようとした。

だが、カタクリさんが帰ってきたとき、このまま何も書かずにいれば、彼は怒るかもしれない。彼にとってみれば、私の遠慮はただの怠慢にしか映らないだろう。私は、全然ほしくなかったが、しばらく考えて、やっぱり化粧品と衣類とをメモ用紙に書かせてもらった。


夕方。カタクリさんは、まだ帰ってこない。
浴槽にたっぷり湯を溜め、体を洗って首まで浸かった。

風邪はほとんど治ったといっていいと思う。
まだ咳が時々出るけれど、それよりもときどき、ぞくっと襲ってくる悪寒が不快だった。いくらあったかくしても、湯につかっていても、芯まであたたまることはできない。体が硬縮しているようだ。

濡れてまとめた髪がひとすじ、首にまつわりついている。それを指に取ると、つやつやした雫をたたえていて、清潔な、果物のような香りがした。カタクリさんと同じシャンプーや、ボディジェルを使っているし、彼と同じ洗剤で洗った衣類を身に着けているということを、今更ながらに考えて、何とも言えない罪悪感を覚えた。

カタクリさんに大変な厄介になっているということと、お嫁入り前の身で、付き合ってもいない異性の住環境にいることが、果たしてどういうことなのかを、苦々しく思ったからだった。

ペロスペローさんが無事に帰ってきて、ここを出てお世話になりましたと告げるとき、いったい自分はどんな気持ちでいるのだろう。きっと気まずい思いをぶら下げたまま、逃げるようにカタクリさんの前から立ち去るのではないか。
こんなに世話になっている御恩を返すには、いったいどうすればいいのか、私にはわからなかった。

家に帰ったら、まず一番になにか、貯金も飛ぶような贈り物をさせてもらおう。
だけどそれだけじゃ足りない。
もっとなにか……カタクリさんが安心できるようなことはないだろうか……


「ナマエ」


という声が聞こえた気がして、私は、浴室の映像電伝虫の電源を切った。だが、それは気のせいだった。しんと耳に静寂の振動が伝わって、もう一度ボタンを押した。ちょうどウタが映し出されているところだった。

だけど、うわの空の頭では、心地よいサウンドもなにも響いてこない。

ペロスペローさんは大丈夫だろうか、なぜ自分はこんなふうに誰かの厄介にならなければ生きていけないのだろうか。
鼻をつまんで湯船の中に頭まで沈み、お湯の中で膝を抱えて丸くなった。

できることが限られている現状だからこそ、方向性を決めよう。ただひたむきに、ペロスペローさんの無事を祈る人になりたい。不安や恐怖よりも、信じる気持ちで過ごしていきたい。私は雑念が多すぎるのだ。すっきり割り切ることがとてもむずかしい。

息がつづかなくなって、お湯から顔を上げようとしたとき。

ざぶっ、と
いきなり大きな両手が、私の体を湯船から引き揚げた。目の前にけわしく美しい顔があって、息が止まった。

――カタクリさんだった。
私と同じシャンプーと衣類の香りがした。

怒気をはらんだ彼の顔は、
私を見つめるうちに、すっと無表情になった。

「悪かった」

と彼は、私を掴みあげていた手を放した。
ずる、と私の体が浴槽のなかに沈み込む。

私を抱き上げたその袖は、私の体から滴ったお湯で、ひどく濡れていた。
彼は顔を背け、すぐに浴室を出て行った。

嵐のような出来事だった。


映像電伝虫から流れる歌、カタクリさんが出入りしたために入り込んだ冷気、自分が丸裸だということ。

私は、しばらく湯船の中から出ることができなかった。


「さっきはすまなかった」

意を決して脱衣所から出ると、キッチンのところに寄りかかるようにして、カタクリさんが立っていた。

彼は腕を組んでいたが、筋張った指先でコップに入った飲み物を取ると、それを私に差し出した。

ここにきてからというもの、飲み物といえば、常温の水しか与えられなかったが、それは、100%フルーツジュースで、しかも冷えていた。私がそれを受け取ると、熱っぽい手に心地よかった。

「いえ……でも、びっくりしました」

まだ心臓がドキドキしている。
カタクリさんは眉根を寄せ、「だろうな」といった。

「何度か声を掛けたが、返事がなかった……
まさか殺されているんじゃねぇかと」

彼は、すう、と鼻腔から息を吸い込んだ。

「……」
「……」
「映像電伝虫つけて、お湯にもぐっていたので、カタクリさんの声が聴こえなかったんです。こちらこそすみませんでした」
「……」

私は、ちら、とカタクリさんを見上げる。
彼は横顔のまま、気難しげに、怒ったように黙りこくっている。私は、裸を見られたという大ショックを忘れることはできなかったが、彼の心的負担の軽減を図るために嘘をつくことにした。

「カタクリさん、私――全然気にしていません!カタクリさんのこと、お医者さんのように思っているので……裸くらい」
「………」
「私の病態も経過も治療方法も、すべて把握してくれてるでしょう?裸なんかより、心配をおかけして申し訳なかったなと思います」
「だが、俺はお前の医者じゃねぇ。ただ症状に合わせた薬を渡しただけだ」
「そうですけど、でも、そのくらい信用しているということです。まるでペロスペローさんのようにも思っているんですよ。だから、本当に全然……」
「……俺のことを、信用するな」

私がびっくりしていると、
彼は、「いや……、」と口をゆがめた。

「ペロス兄のようになど……恐れ多いことだ」
「……」

どうしよう。
ますます、眉間の皺が濃くなってしまったではないか。私の対応は間違いだったのだ。

「とにかく、悪かった」

カタクリさんはそれだけいうと、部屋の入り口へ、ゆっくり歩いていった。
彼のことを案じているうちに、たしかに、裸を見られたことなどきれいに忘れてしまっていた。

彼が何と言おうと、カタクリさんは誠実で、私をとても心配し、大切にしてくれているのに――。それは、昔も、いまでも。

私は、彼が“あの日”からずっと、自分自身をいまだに責めつづけていることを知った。


初めてカタクリさんと顔を合わせたのは、4年前、麦わら海賊団と抗争が起こる、ずっと前のことだ。

私が突如、万国に現れて、ペロスペローさんが引き取ることになった。

ペロスペローさんに連れられてきた彼は、情報から得る海賊とは違って、都会的でスマートで、俳優かなにかのようだった。

カタクリさんがコムギ島に帰ってから、私はペロスペローさんに聞いたことがある。カタクリさんって、どんな人なんですかって。ペロスペローさんは、ひとしきり彼のことを誉めたあと、顔を曇らせた。

“だが、カタクリはなぁ……自分に厳しすぎるところがある。そこが少し、心配だ……ペロリン”





*****


日付が変わって、水曜日になっていた。
ベッドに座って窓の外を眺めながら、ペロスペローさんのことを思い出していた。彼からの連絡は、いまだひとつとしてない。

私は立ち上がって部屋をでた。
キッチンにいって、水をもらおうと思った。

ひっそりと静まり返った廊下を歩いて、キッチンの電気をつける。なにか飲みたい。水切りバスケットからコップを取ったとき、鼻腔の奥が、つん、となった。

不安で不安でたまらなくなった。
この寒空の下で、ペロスペローさんは生きていられるのだろうか。いまこのときも、助けが必要な状況ではないだろうか。

心臓がばくばくとして立ちくらみを起こしてシンクに寄りかかる。震える指で胸を掻き毟ったとき背後から、きい、と扉の開く音がした。

「ナマエ。……」
「……っ」
「ナマエ、どうした」
「あ……いえ。すみません。ちょっとぼうっとしていて」

体がすくんで動けなかったけれど、カタクリさんの存在を認識すると、関節がやわらかくなり、ゆっくり振り返ることができた。

私は、すごい顔をしていたらしい。
カタクリさんは私を見るなり、ぴく、と顔をこわばらせて、まっすぐ大股で歩み寄ってきた。

「大丈夫か」

がし、と肘と肩を、うしろから支えられる。
私は、生唾を飲みながら、なんとか肯いた。

「深呼吸できるか」
「……」
「不安でつらいのか」
「……」

指先の震えは、痙攣のように大きくなり、突然ものすごく寒くなって、息苦しくなった。目の前がくらくらして、立っていられなくなって、やがてカタクリさんの声も聞こえなくなる。

視界がひっくり返ったかと思った。
猛烈なめまい。だが、私は倒れていなかった。
カタクリさんが、片膝をついて、しっかり抱き留めてくれていたからだった。

目を開けると、カタクリさんの唇が見えた。ストールの付けていない、薄いこわばった唇が、「ナマエ」と呼び、彼の手が、私の体幹を支えていた。

「……」
「深呼吸しろ」
「……、はい」
「大丈夫だ。ペロス兄の足取りも先ほど掴んだ。生きている。安心しろ」
「……はい」

すうー、と息を吸うと、すこしずつ楽になった。カタクリさんは、私に「歩けるか」といった。

彼に抱きかかえられたまま、おぼつかない足取りで歩き、ソファに横になった。まだ指先と唇が震えている。カタクリさんは、コップを持って戻ってきた。

「過換気を起こしかけていたようだな。これを飲むといい」
「……あ、すみません……」

中はぬるい水だった。
私は、ごくごくとそれを飲んだ。
一杯飲み干し、あおむけになって目を閉じていると、突然、どっと汗が滲んできた。
失われた水分と電解質が、末梢までいきわたったのだ。

「……カタクリさん」

カタクリさんは、毛布を持ってきて、私の腹部から下半身に掛けてくれる。だんだん、体が温まって、大丈夫だという判断ができた。

体を起こすと、カタクリさんが私を見下ろして立っていた。

「さっき、ペロスペローさんは生きているって……本当ですか?」
「ああ」
「いまどこに……?」

彼は、教えてくれないだろう。
きのうもそうだったように、ワノ国であるということしか言えない立場にあるだろう。だが、カタクリさんは逡巡するように目を逸らして、もう一度わたしを見つめた。

「これだ」

カタクリさんは、テーブルにあがっていた新聞を取って、私に見せてくれた。その一面にはあの、麦わら海賊団。その写真の隅に映っていたのだ。シャーロット家、長男の姿が。

「これは?」
「……ナマエ。これで納得できたか」
「……は、はい……」

カタクリさんは、ゆっくり私の隣に腰を下ろした。ソファが、ふわっと軋んで、私の体は、重心であるカタクリさんの体に傾きかけた。

彼は、私を安心させてくれたが、彼のほうは、誰にも慰められてはいないのだと思った。
そういう横顔をしていたから。

「ごめんなさい。みっともないところを見せちゃって…」
「いや。お前の立場なら不安も大きいだろう、当然だ」
「わたし……実は先日、ペロスペローさんと大喧嘩したんです」
「……」
「いい歳をして、おかしいでしょ?それきり会っていないんです。とてもひどいことを――いってしまったから。帰ってきたら、まずそのことを謝らなくちゃ……今回の件で、すごくそう思いました。カタクリさんのお蔭です」
「だが、ペロス兄は怒っていないだろうがな」
「そうですかね、どうなんだろ」
「ああ。必要なら、俺も一緒に謝罪してやる」
「ふふ……ありがとうございます。世話が焼けるでしょ?」
「……お前みたいな妹のような存在がいて、うらやましい気がする」

カタクリさんはそういって、私のことを一瞥した。
赤く澄んだ、美しい双眸だった。

硬質のつくりのなかで、睫毛だけが柔らかく、たわんだ。彼がまばたきをしたという残影を刻んで。

「……カタクリさんは?」
「いない。……いや、実際のところはいるのかもしれねェが」
「いますよ、たくさん。」
「いまはそれを口にしていいのか…難しいところだな」
「……。みんな変わらず慕っていると思うけど……」
「まぁ……自分と血を分けた人間なんて――
吐き気がする」

私は、鼻をすすった。
ぴりぴり、と強く、硬く、冷たい空気が流れてきた気がした。だがカタクリさんは、案外穏やかな顔をしていた。

「私は、カタクリさんと血を分けた方たちを、誇りに思ってます」
「……」
「みなさん。すごく優しくて、誠実で、真面目な方に違いはありません」
「……」
「……?どうしました?」
「いや、ペロス兄にも、そんなことを言われたことがあった」
「え?そうなんですか?あはは……そうですよ、きっと他の人も同じ意見だと思いますよ」
「いや。お前と、ペロス兄だけだ」

そういってカタクリさんは、無理に目元を細めて微笑んだ。

……なんで、笑ったのに、きゅっと胸が切なくなるのだろう、と思う。カタクリさんの微笑には、そのような作用があった。あまりにもきれいで、うそみたいに柔らかかったからかもしれない。

私とカタクリさんは、そこから半時ばかり、とりとめのない話をし、おやすみなさいと告げて、部屋に戻った。まだ、心臓がドキドキしている。

ベッドに横たわり、便箋を開いた。
そうして、ペロスペローさんに文を綴った。
ここへきて毎日、手紙だけは送りつづけている。
一通も帰ってはこないけれども、
もしかしたら目を通してくれているかもしれないと願って。





ペロスペローさんへ

――きょうもお加減はいかがでしょうか。
食事はちゃんと取っているでしょうか。

わたしは元気です。

こちらは楽しく過ごしていますから、心配しないでください。そしてどうか、気を付けて帰ってきてください。
謝りたいことがあります。先日の件のことです。

それに、お話したいこともあるのです――
ペロスペローさんも知っている、優しくて、誠実で、真面目な、あの御方のことです。





どうしても伝えたかったのです。

拝啓、君へ。