木曜日の朝。
部屋を出ると、どこかうそ寒い沈黙が、しんしんと降りかかっているように感じた。

扉を開けて部屋に入ると、テーブルの上に一枚のメモが置かれていた。私は髪を耳に掛けながら、それを手に取った。

“朝には戻る”とだけ、
そこには書かれていた。

万年筆で走り書きされたそれ。――神経質そうな字体だけど、終結にすべてはねがつけられている。縦に長いシルエット、だけど濃いインクのライン。こういう字を書く人だったんだなぁ、としげしげとそれを眺める。

私は、それを持って、キッチンに入った。
火の気のない朝のキッチンはひんやりしている。
私は、冷蔵庫に寄りかかった。
冷たいと思ったのに温かくて、カタクリさんの温度を思い起こした。


食事の支度を済ませて待っていると、9時前に、確かに彼は帰ってきた。

カタクリさんは、私が勝手にキッチンを遣ったことを怒るかもしれないと思ったが、なんにも言わなかった。彼はテーブルの上の朝食の支度を一瞥し、私にゆっくり視線を戻した。

カタクリさんは、微かにこわばった顔をしていた。
ひとりきりで、恐ろしい事実を抱えている顔だ、と私は思った。ペロスペローさんになにかあったのだ。

「カタクリさん、おかえりなさい……コーヒーをどうぞ」
「……ああ」
「勝手に台所をお借りしてすみませんでした。すべて元の位置に戻しておきましたから――ほら、座って。食事にしませんか」

私は、すっと血の気が引いていくのを感じながら、彼の着席を促した。カタクリさんは、体を休める必要がある。私が気づかなかっただけで、彼はゆうべのうちからずっと出かけていたのではあるまいかという推測が、いまでは、確信に変わっていた。
なにかを、確かめに行ったのだ。一晩かけて、この寒空の中。

カタクリさんは、私に促されても、座ろうとはしなかった。私を、静かに見つめていた。だから私も座らず、彼に一歩近づいた。

ペロスペローさんはきっと死んだのだと思った。
カタクリさんの無表情な顔は、重大な秘密をストールの奥にしまいこんでいるように見えた。

「ナマエ。驚かず聞け――ペロス兄のことだ」
「はい」

カタクリさんは、私に淡々と説明をした。
カタクリさんは、昨夜、彼が極秘で潜入しているワノ国まで足を運んだらしい。昨晩、ペロスペローさんが撃たれたこと――万国の医師が一緒に同行していたお蔭で命は助かったこと。出血が多かったが、脊椎の損傷を避けていること。いまも使用人が付き添いしていること。万国に戻って来たこと。過労のため深く入眠していたことを話してくれた。

「だが、問題が解決したわけじゃねぇ。今後、抗争はより激化を見せるだろう」
「……」

私は、膝の力が抜けたようになって、テーブルに手をついた。

よかった。
ペロスペローさんは死んでいなかったのだ。

万国に戻っているということは、少なくとも今後命を落とすことはないだろう。彼は助かったのだ。

はあ、と吐息を漏らして、私はカタクリさんに目をやった。
自身の兄が助かったというのに、カタクリさんは、まるでペロスペローさんが死んだかのような顔をしているように見えた。まるで、一番恐れていたことが起きたと言いたげな、蒼褪めてこわばった顔だった。

「カタクリさん?」
「……安心するのはまだ早い。この状況で、お前の身はもっと危なくなったということだ。まだここにいてもらわねぇとな」
「カタクリさんには迷惑かけっぱなしですね。でも、私……正直ほっとしてます。毎晩ペロスペローさんが命を落とす夢を見ていたんです。だから、少なくとも正夢にならずに済んだんだって……」
「なぜそう思う」
「万国にいる以上、危険に晒されることはありませんよね──命は助かったんだし。そうでしょ?」
「だが、俺にはそうは思えん。ペロス兄の責任感ならば、這ってでも事態の収拾を図ろうとまた、ワノ国に向うはずだ。そのときこそ、本当に危ないような気がしてならない」
「そりゃあ、ペロスペローさんは、そんな立場の身ですから。いくらでも危険はあるだろうし、私たちも覚悟しないと。でも、今回は無事だったんです。それだけでもよかったと思います」
「本当にそうなのか、俺はそう思うことができない」

私は、カタクリさんをちらと見た。
彼は、ひどく遠い目をしていた。

私を見ているようで、私をすり抜けた先を見据えているのだ。そこになにが映っているのか、私にはわかるような気がした。

カタクリさんやペロスペローさんは、あの日、麦わらの一味に敗れた。
あのときの想いや、過程や、苦痛が、呪縛のように彼にまとわりついているのだ。
だからカタクリさんは一度たりとも安心したことがない。できるはずがないのだ、と私は思った。


食後、食器を片づけたあと、私はコーヒーを指し出した。
カタクリさんは、コーヒーを一口飲んで、音もなく嚥下した喉許が、微かに上下する。そのとても長い睫毛の下で、ふしぎなほど美しい瞳が、光を湛えたガラス玉のように見えた。

「お前を、コムギ島に招いたことがあったな」

と、カタクリさんはいった。
わたしは肯いた。

麦わら海賊団が万国に上陸したあとのことを思い出していた。ペロスペローさんがスイートシティ本部で倒れたときのこと。麦わら海賊団との抗争直後であったし、腕も失っていたから。

「私のせいだね」

と、私がつぶやいた。

ペロスペローさんはまるで、骸骨のように見えた。今思えばあれは、死相というものだったのかもしれない。

カタクリさんは、静かに眠っているペロスペローさんのことを眺めていた。兄弟みんなが喪い、気が狂いそうな日々だった。

数日たち、カタクリさんは、看病で疲れているだろうと、私を食事に連れ出してくれた。そして自分の城のある、コムギ島へ連れて行ってくれたのだ。

無駄のない、美しいあのお城に。
そして、私の話を辛抱強く聞いてくれた。

彼は私をいたわり、私の自宅のある島まで送り届けてくれた。

今夜は兄弟で看病する、ゆっくり休め。といって――。

「ああ……一度だけ。今後のことについて助言してくれましたよね。感謝してます。あのとき、私、めちゃくちゃな心境だったんです。カタクリさんが助けてくれなかったら、もたなかったんじゃないかと、いまでも思います」
「それはお前が……俺があの晩、お前を誘ったわけを、知らないからそう言えるんだ」
「?……」
「お前は、俺がほんとうに親切心だけで誘ったと考えているのか」
「……」

思いがけない反応に、私が当惑していると、カタクリさんは、浅くため息を吐いた。

「お前は疑うべきだ。世の中には、打算や欲望を驚くほど狡猾に隠すことができる人種がいるものだ。お前は、どうも警戒心というものが希薄なようだな。心底、心配になる」

カタクリさんは、コーヒーカップに口をつけ、目を伏せながら一口飲んだ。白い、まどろみの中で見るような陽光に似た、あたたかい湯気が、カタクリさんの奥二重の目蓋のまえに、漂っている。会話の内容とは打って変わり、平和で、穏やかな光景だった。

「わたし……信頼している人とそうでない人には、線引きして対応してます。カタクリさんのことを信頼してますので……だからそう見えるんです」

カタクリさんは、私の言い分を聞くと、ふふ、と薄く笑った。
穏やかな、優しい、張り付いたような嘘の笑顔。
それが嘲笑であることを、私は肌で感じ取った。

「本当のことを言えば、あの晩、お前を抱こうと思っていた。下心だったんだぞ」
「………」
「お前が、なんの疑いもなく付いてくるのを見て、密かに笑っていた。あまりに不用心だったんでな」

かちゃ、とソーサーにカップを置き、カタクリさんは背もたれに背を預けて腕組みをした。
彼がなぜそんなことを言うのか、私にはよくわからなかった。
私を試そうとしているのだろうか?

「でも、カタクリさんはそんなふうには見えませんでした。そんなことを言われても、信じられない気持ちです」
「だが、それが事実だ。先ほど打算や欲望を隠すことができる人種がいると話したが。つまりお前は、俺に騙されていたということだな」
「……。カタクリさんが、実際にそうしていたら、そう思えたかもですけど……。カタクリさんに騙されたなんて、私にはとても思えません」
「当時、ペロス兄は危ない状態だった。お前を手の内に収め、ママの同意を得られれば……そんな筋書を、お前も一度くらい疑いはしなかったのか」

カタクリさんは、ゆっくり私を見た。
私は不意に、この人が、前の彼とはまるで違っていることを、改めて認識した。

出会った頃、確かにこの人は、得体のしれないところがあった。だが、いまでは彼が、そのような打算を抱くはずがないように見えた。
私はやはり、心から信頼しているのだ。

「でも、カタクリさんは、とても親切にしてくれました」
「……」
「なんで?なんで、そうしなかったんですか?ペロスペローさんへの義理があったからでしょ?」
「……」
「それとも、私があまりに魅力がなかったからですか?」

カタクリさんは、無表情だった顔を、不機嫌そうにむっとさせた。そうして、喉許までせりあがった言葉を、ぐっとこらえたように見えた。

「いや、なにを言っている。お前は――お前は」
「……?」
「とても――きれいだ」

私が驚いているのを見て、
カタクリさんは、眉間のしわを解いた。
つぎに、さらにますます強く眉根を寄せた。

とても複雑そうに、怒ったような、悲しいような、沈痛の面持ちとなっていた。

「………俺は、あのとき既に麦わらに負けた男だ。まさか義理立てして手が出なかったわけじゃねぇ」
「………」
「………」
「じゃ、なんで――」
「………」

カタクリさんは、なんともいわなかった。
さまざまな想いが、彼の中を駆け巡っているのかと思った。
もっとこの話題を掘り下げたかったが、私にはとてもできなかった。カタクリさんを苦しめる結果になるようにしか思えなかったからだ。

コーヒーはすっかり冷めきっていた。
あたりさわりない会話をそこそこに、私はコーヒーカップを洗いにキッチンへ向かい、カタクリさんは書斎にいった。
そしてそのまま、こもりきりになった。


夜、食事の用意を整えてから、意を決して書斎に向かう。冷たい暗褐色の扉をノックをして「カタクリさん」と声を掛ける。
返事がないのではないか、と予感したとおり、しんと沈黙だけが返ってくる。私は、10秒ほど突っ立っていたが、もう一度ノックして、扉を開けた。

扉は、意外なほど簡単に、音もなく、すっと開いた。
カタクリさんは、机に向かって、私に背を向ける形で座っていた。
電気もつけていなかったが、山積みの本やら書類があり、カーテンの隙間から射す青白い光で、室内はほの明るい。仕事をしているのだと思ったが、そうではなくて、ただ、彼はそこに座っているだけのように見えた。

「カタクリさん」

肩にそっと手を置くと、やっぱり腕組みをして座っているだけとわかった。カタクリさんはわずかに顔を上げて、視界の端で私を一瞥し、また顔を背けた。

「カタクリさん。お仕事中失礼します。食事の用意ができましたけど、いま、召し上がりますか?」
「……すまない。おまえに、そのようなことをさせてしまったな」
「時間だけは、たっぷりありますので」

私は頬笑んだが、彼は、私を見ようとはしなかった。
彼のこめかみのあたりに、細かい汗が、朝露の玉のように光っていることに気がついた。

「カタクリさん?具合が悪そうですけど……大丈夫ですか?」

私は、ティッシュをとって彼の額をぬぐった。
カタクリさんは、されるがままになっていた。そして、じっと黙りこんでいた。
頬の温度を確かめると、ひんやりと蒼褪め、こわばっていた。

「寒いんじゃないですか?」

私は、自分が着ていたブリュレのカーディガンを脱いで、カタクリさんの肩に掛けた。カタクリさんは、暗闇にむかって、そっとまばたきをした。長い、しなやかな睫毛が動かなければ、まるきり彫像のようであっただろう。触れた頬までが、青銅のように硬い感触をしていた。

「大丈夫だ」

と彼は、低くささやいた。
カタクリさんの傍に立っていると、同じシャンプーやシャワージェルの香りとともに、男の人の肌の匂いがした。ペロスペローさんと似ているようで、すこし違う。懐かしいのに、知らない匂い。

「ペロスペローさんのことを考えているんですか?」
「……」

カタクリさんは、黙りこんでいたが、「ああ」とやがて、かすれた声を漏らした。

「……。カタクリさんは、ゆうべ、ペロスペローさんをご覧になったんですか?」
「ああ。眠っていたので遠目にだが」
「ペロスペローさんは、どんなふうだったの?」
「……あのときと同じだ。チューブに繋がれて――」
「だけど、容態はあのときとまるで違ってます。あのときは本当に危篤状態だったけど……今回はそうじゃないんだし」
「ああ」

カタクリさんは、小さくうなずいた。
私は、彼の肩に手を置いた。カーディガンの下で、筋肉がぎゅっとこわばって、筋肉が微かに盛り上がる感触がした。

あのときの出来事を、彼はまざまざと思い描き、過去の自分を追体験をしているのだ。
あのときも、ペロスペローさんが倒れたことが引き金だった。

「……カタクリさん、こっちを向いてください」
「……」
「……」

私は、自分が涙声になっていることに気がついた。
カタクリさんの苦痛を想像して、勝手にわかった気になっている。
そうすることで彼の重荷をすこしでも分担することができれば、いくらでも背負いたいけれど、カタクリさんは私にはそんなことは望んでいない。むしろ保護しなければならない私という存在は、彼にとって更なる負荷でしかないのだ。

「ナマエ」と、
彼は小さく私の名をささやいた。

彼は、机からそっと私に顔を向け、椅子から立ち上がった。
眉間のしわが、一本の柱のように、彼の表情の真ん中に黒い影を落としていた。

「おまえにはどうやら、心配をかけてばかりのようだな」

カタクリさんは、目蓋を伏せ、そっとまた、私の顔を見つめた。
そして、自嘲するように目を細め、微かに口元をゆがめた。

カタクリさんは、なにか言おうとしている。
心の内にあるものを、私に伝えようとしている。
彼の沈黙の中に浮かぶ表情のこわばりから、そんなふうに私は感じた。

カタクリさんのこめかみが、ぴくとひきつるのが見えた。長い睫毛が、ぱち、とまばたきをする。切れ長の、信じられないくらいきれいな瞳が、仄かな翳りの中で、私を探るように見つめている。

その瞳は、時を止める魔力を秘めていた。
私は、ぼうっとなって、彼の言葉を待っていた。
気を張らなければ意識を奪われてしまう。カタクリさんの瞳の魔力に、私はいつも目を逸らしつづけてきたが、今度ばかりはそうはせず、魅せられたように見つめ返すしかなかった。

もしいま、目を逸らして待つのをやめてしまったら、きっと一生、後悔するような気がしたから。

だが、彼が口を開くことはなかった。
沈黙を破り、私の子電伝虫がけたたましく鳴り響いたためだ。

私は、呪縛から解かれ、はっとなっていたが、カタクリさんは、暗い顔をさっと背けて、椅子の背もたれに腰を預けて腕組みをした。

「ペロス兄からじゃねぇのか。……出ろ」
「あ……はい」

彼のいったとおり、電話の主は、ペロスペローさんからだった。
私が急いで電話に出ると、ペロスペローさんの声より先に、びゅうっと強い風が電伝虫の受話器にあたる音が響いた。
久しぶりに聞いたペロスペローさんの声は、夢の中よりも鮮明で、なんだか抑揚がなかった。

『元気かい?ペロリン』と訊ねた、懐かしいその声を、私は一生忘れないだろう。

私の安否を確認した後、ペロスペローさんは、カタクリさんに代わるよう言った。カタクリさんに子電伝虫を差し出すと、カタクリさんは私を一瞥し、軽く肯いて受け取った。

たぶん、私もカタクリさんも、そのとき、ひとつのことに気づいただろう。
はじまりがあれば終わりがあるように、いつか予感していたことだった。思っていたよりもずっと早く、片が付いたのだ。

これでもう終わり。

私はカタクリさんと離れ、また元の生活に戻らねばならない。

カタクリさんが、「ああ。……いや、問題ねェ。ああ。それまで、ナマエを預かっておく」と話すその背を、私は、くちびるを噛みながら眺めていた。





*****


金曜日の午後。

火曜日に紙に書かせてもらった衣類に袖を通し、化粧をして髪を整えると、そこには、いつもの私、日常生活を送る私の姿が、鏡に映っていた。

すこし痩せたけれど、前よりもずっと化粧のりがいい。栄養バランスもいいし、きちんと睡眠をとる生活がつづいたからだろう。

カタクリさんは、迎えを寄越すといい、その後改めて部屋まで迎えに来てくれた。
玄関を出て、迎えの待つ場所までふたりで歩く。

ペロスペローさんはゆうべ、医者のいる屋敷を抜け出したらしく、改めて治療し直しているという。きのうの電話は、脱走先からのものだったのだ。

カタクリさんは苦々しげに、「無事でよかった」と一言漏らした。とにかく、無事に済んだらしい。万事が解決したわけではないけれど……ペロスペローさんの暗い声を思い出して、また不安な気持ちに襲われる。この事件もまた、様々な因縁を残していくのだろう。

ペロスペローさんの居る屋敷は、首都スイートシティから少し離れた郊外にあった。

私とカタクリさんは、彼のいる屋敷まで共に向かったが、カタクリさんは、屋敷の中まで付き添うつもりはないらしく、「ここで待っている、おまえは行け」といった。

「カタクリさんもペロスペローさんを見舞ってよ。喜びますよ」
「家族水入らずの場面だろう。さすがに遠慮しておく」

家族水入らず――カタクリさんだって家族なのに。

諦めて屋敷の個部屋に入ると、ペロスペローさんの側近がいて、その奥にペロスペローさんいた。
彼は床上でも任務に追われていたものの顔色は悪くなかった。電伝虫の電話口で難しい話をしながら、私を一瞥して頬笑んだ。

カタクリさんとゆっくり日々を過ごしていたことが、どれだけ呑気なことであったか……危険や喧騒から隔絶されていたことを改めて実感する。

守られるだけの自分を足手まといのように感じることもあるけれど――受動的に構えるから卑屈な傾向に陥るのだ。ではどうすればよいのか、実行できるよう考えていく思考過程の訓練をしていかなければならない。

私も喧騒の中に混じって、二、三手伝いを済ませた。私はまた来ることを伝え、屋敷を出た。
外で、カタクリさんが腕を組んで立っている。
私に気づくと、彼は「戻るか」といった。

屋敷の外は、日が暮れはじめていた。
部屋に滞在したのはせいぜい15分程度であったように思う。カタクリさんと生活しているうちに、冬が厳しくなり、日没が早まっていたのだ。風は凍るようだ。

カタクリさんと暮らす家では、空気や気圧の変動など感じることもなく、快適に、安全に過ごしていた。彼もまた、真綿で包むような配慮をもって、私を守ってくれていたのだ。

島に戻る船の中、甲板でふたり。
カタクリさんはむっつりと黙り込んでいる。船内の清潔な空気の奥、まるで秘密のように、ごく微かに、体温に溶けだした男の肌の香りがした。鼻腔が、その香りを嗅ぎ分けると、私は、たまらないような気持ちになった。

この沈黙が永遠につづけばいいのに。
ずっとこのまま船に乗っていたかった。言葉はいらなかった。ずっとそばにいたかった。

「ペロス兄はどうだった」
「元気そうでした。二週間もすれば出られるそうです」
「……いつ帰るようにと言っていた」
「あすの、朝……」

カタクリさんは、また黙り込んだ。
私も、何もいうことはなかった。頭がぼうっとするのだ。無心で海の景色を眺めていると、カタクリさんはようやく「そうか」といった。

「ずいぶん、急だな。あと一週間ほどかと思ったが……」
「うん。カタクリさんには、本当にお世話になりました。あすまで、改めてどうぞ宜しくお願いします」
「ああ」
「……ペロスペローさんのところに戻ったら、カタクリさんと住んでた家に、お礼をしに伺ってもいいですか?」
「礼には及ばねぇ。その必要はない」
「こんなにお世話になったんだし、お礼させてもらわないと気が済みません」
「俺は潜伏のため、定期的に住居を転々としている身だ。お前が帰り次第、また場所を変える必要がある。あそこには戻らん」
「……」
「気持ちだけもらっておく」
「もう、会えないってことですか?ずっと?」
「……。もし連絡が必要なら、ペロス兄を通せ。ペロス兄にも伝えておく」
「……」

知らないうちに船は、大きな飛沫ををあげていた。
濃い群青色の水面が、かなたで波打っているのが見えた。いかにも風が強く、海は荒れて、岩にぶつかって砕け、白く泡立っている。

あす、ペロスペローさんの元へ帰ったら、もうカタクリさんとは会えなくなる。
ふしぎと落ち着いていられるのは、麦わら海賊団との抗争後に、このひとの喪失があったからだろう。
あのとき、カタクリさんの失踪に絶望したが、いまは違う。彼は生きている。息をし、思考し、熱を持っている。死んで一生会えないのと、どこかで生きているという差があるのだから、当然といえば当然かもしれない。
それに、生きている限り、一生会えないと断定すべきではないのだ。

「……ずいぶん大回りして帰るんですね」
「ああ。夜は、こっちのほうが人目につかないからな」
「この海路は初めて通りますけど……あれは商店街?思いがけないところに町があるんですね」
「そうだな」
「カタクリさんは、このへんも詳しいんですか?」
「ああ。といっても、来るのは30年ぶりくらいだが」

その景色には、なにかしら物悲しい風情が感じられた。

「30年前……じゃあもしかして、このあたりがカタクリさんの故郷とかですか?」
「そうだ。昔は住んでいた、なにも変わっちゃいないな」

カタクリさんは冷たいほど無感動な横顔をしている。きっと彼はこの町にいい思い出がないのだろう。私は、なにかを見つけたくて、船から景色を眺めていた。もし、カタクリさんの面影を見つけることができれば、私は、それを抱きしめたかった。

島に着くと、18時を過ぎていた。私とカタクリさんは、共に食事を作り、同じテーブルで晩餐を取った。野菜のごろごろした薄味のポトフで、ベーコンから出る塩味や、ぴりぴりする胡椒が、とても美味しく、とても熱かった。

カタクリさんは、ラーメンが苦手と風の噂で聞いたことがあったが、熱いものでも平気で口に入れるのでぎょっとするが、涼しい顔で平気で食べつづけていた。薄いくちびるが静かに動いている様子や、スプーンを上げ下げする仕草が、なにかしら男性的で美しく、無駄がなかった。
彼は自分の空間や手足の長さを把握しきっているのだという印象を受けた。

食後は食器を洗い、交互に入浴を済ませた。
そして、なんとなくリビングに戻ってきた。カタクリさんは、椅子の背もたれに腰を預けて腕組みをしながら立っていた。私は、ソファに座った。

「おまえもあすにはここを出る」
「はい……」
「ささやかながら、祝いたいところだな」

彼は、戸棚からグラスを取り出して、「やるか。ブランデーしかねぇが」といった。

「いいんですか?飲みたいです」
「ああ。氷や割り水は」
「ううん、いりません。ストレートで!」
「……酒は弱くなかったか?」
「一杯程度なら大丈夫ですよ」
「それを聞いて安心した」

カタクリさんも自分のグラスを片手に、私の隣に腰を下ろした。やわらかいソファが沈んで、体がカタクリさんのほうに傾いてしまうので、姿勢を正して座りなおす。

グラスの中には、3cmほど、濃いセピア色のブランデーが注がれている。きっとおかわりはもらえないのだろう。だからそれを、ちびちび舐めるように口に含んだ。ぎゅっとこわばるような苦味の後に、とろけるような甘味が、風味となってふわっとした余韻を残す。背伸びして味わってみたけれど、おいしいという感想にいきついた。でも正直すこし、渋いけれども。

カタクリさんは一口飲みこんだあと、そっとこちらを向いて私を眺めた。
目が合うと、複雑そうに、苦い微笑を浮かべた。

「……おいしいですね」
「それはよかった」
「……」

カタクリさんとお酒を飲むなんて……実は想像したことならあったけれど、実現するとは思わなかった。

ただ、想像と違って、なんだか、酒というよりも、薬でも飲まされいるような気分になるのはなぜだろう。これを飲まなければ治らない、と監視されているような気分になる。それが、すこしだけ可笑しくて。お酒の場でも圧迫感をかもしだすなんて、本当、カタクリさんらしい。

「……ナマエは、ペロス兄と喧嘩したと言っていたが」
「!」
「きょうの面会で、和解できたのか」
「あ、いや……まだです。なかなか謝れる状況ではなくて」
「そうか」

カタクリさんは、ぎしっとソファを軋ませて立ち上がると、映像電伝虫を手に取った。それを操りながら改めて座ったとき、ふわっと彼の甘いの香りが、風となって私の顔を撫でていった。

壁には、ウタの歌う『世界のつづき』が映し出された。


 ♪ 信じてみる 信じてみる
  この路の果てで 手を振る君を
  信じてみる 信じてみるんだ
  この歌は わたしの歌と
  やがて会う 君の呼ぶ声と
  信じられる?信じられる?
  あの星あかりを 海の広さを
  信じてみる 信じられる
  夢のつづきで また会いましょう
  暁の輝く今日に


なんだか、しんみりしたみたいな空気に包まれた。カタクリさんが口を閉ざしているからなのか。それとも、私が、無性に泣き出したい気持ちになったからなのか。

「なぁ……教えてほしい。喧嘩の内容を」
「……」
「おまえが一体、なぜペロス兄と喧嘩などしたのか、興味がある」
「……」

ブランデーの水面には、気泡ひとつなく、濃い色をぼうっとたゆませている。私は、できればこのまま、ブランデーを見つめて黙り込んでいたかったが、カタクリさんが私をじっと見ているので、それは許されはしないだろう。

「あの……カタクリさんが聞いたら、きっと困ると思います」
「――?なぜだ」
「カタクリさんが原因なんだもん……」

カタクリさんは怪訝そうに私を睨んだ。私は、ますます黙り込んでしまいたくなる。

「それは聞き捨てならねぇな。どういうことだ」
「……。そんなふうに睨まれたら言い出せません」
「……悪い。だがこれは、もともとの顔だ」
「……」
「……」
「ええと……カタクリさんが原因というと、まるでカタクリさんが悪いみたいですね。ごめんなさい、そうじゃなくて、カタクリさんが話題になったときに兄妹喧嘩みたいになってしまったということです」
「……」
「つまり……」
「……」
「……」
「つまり、どういうことだ」
「つまり――あのとき、失踪したとき、わたしは、カタクリさんが死んだものだと思っていたんです」
「……」
「ペロスペローさんは、カタクリさんが生きていたことを、教えてくれなかったんです。今回、カタクリさんに匿ってもらうようにいわれて初めて無事だったことを知って。それで……」
「それで喧嘩になったのか」
「はい……わたし、怒ってしまって。ペロスペローさんはいつもそうなんです、あのとおり無口でしょ?立場を考えれば、長男だから大変だったろうって、いまなら思えるんですけど」
「……」
「……」
「ペロス兄は、俺のまえではそう無口ではないが、お前のまえでそうならば“兄貴”らしく振舞いたいと考えているのかもしれないな」

カタクリさんは、グラスにくちびるをつけ、するりと飲み干した。空になったグラスをローテーブルに置いた横顔に、酒気による赤みは感じられない。酒はたぶん、彼にとって娯楽ではないのだろう。

「それに、そんなことで怒るもんでもねぇ」

と静かにいう彼の横顔こそ、怒っているように見える。

「ペロスペローさんにも事情があったんだと、冷静になると理解できるんですけど。でも、急に匿ってもらえだなんて言われて、私も混乱したんです。混乱を言葉にしたら、怒りになってしまったみたい」
「なぜだ、わからん」
「なぜってペロスペローさんは――カタクリさんが死んだと、私があんなに落ち込んでいたのを見ていたのに――隠しつづけていたんですよ!?」
「……」
「……」

……。

これでは、もはや、カタクリさんのことが好きだと自分で暴いているようなものだ。

とても恥ずかしいし、カタクリさんも居た堪れない気持ちになっているだろう。だが、ふしぎな満足感があるのも事実だった。この数ヵ月、ずっと後悔していたから。だがいまは、伝えることができる。カタクリさんは生きているのだ。たとえ、もう会えなくなってしまっても。

「ごめんなさい。こんな話を聞かされても、困らせてしまうだけですよね」
「いや、そうでもない。だが──」
「わたし――カタクリさんが生きていてくれたことが、本当に嬉しいんです」
「……」
「ここにきて最初は、カタクリさんが生きてるって、まだ信じられなかったんです。風邪を引いていたから判断力が鈍っていたということもありますけど……。でも……」
「……」
「いまはやっと信じられます。カタクリさんが生きてるって。ペロスペローさんの無事を確認して、やっと、憑き物が落ちたように、すうっと理解できたような気がします。本当に、無事でよかった」

自分の気持ちを言葉にしたら、体がふっと軽くなったように思えた。
ああ、私は、このひとが好きだ。

この数日で、その想いはもっと強くなった。
カタクリさんの存在をそばに感じ、その苦しみを間近に見たからかもしれない。
苦しまないでほしい、幸せになってほしいという願いが、愛着形成に繋がったのだ。

だが、私が願わずとも、カタクリさんは強い人だから、自分の力で回復できるだろう。生きてさえいれば、時間が苦しみを包んでくれるに違いないのだから。

「……」

カタクリさんは、目をやや大きく見開いて、私を見つめていた。
ゆっくりうつむき、そっと顔を背けた。

「そんなふうに言ってもらうと、困るな」
「あ……ごめんなさい」
「いや……構わないが」
「……」
「…………ありがたいと思う」

カタクリさんが、吐息混じりに低くささやいた横顔を、私は、黙って見つめていた。
言葉のいらない、やすらかな沈黙が、あたりを包みこんでいた。

掛け時計が、もうすぐ深夜0時を指してしまう。
この生活が終わろうとしている。
でも、もう大丈夫……たとえ二度と、会えなくなったとしても。

生きていて、
こんなに感謝する人がいる。

それがひとつの道しるべとなり、
わたしを支えつづけてくれるだろうから。





拝啓、きみへ。

追伸、好きです。