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カタクリさんだった。入って来るなり私を一瞥いちべつして「ああ、来ていたのか」と呟く。

一週間前にも会ったけれど、すこしやつれたなぁ……。その疲れた様子が痛ましく思えて胸がきゅっと狭くなる。カタクリさんは隙のない動作で歩いて来てペロスペローさんの隣の幹部席ではなくダイフクさんの向かい側のソファーにゆっくり座った。

「どうだったんだ」というペロスペローさんの問いにカタクリさんは曖昧に首を振る。たぶん仕事の話だろう。新しく紅茶を用意しようとしたが、カタクリさんは「紅茶をくれないか。いや、それでいいんだ」と、冷めたカップを受け取った。

ちらちらと窓ごしに鳥のさえずりが聞こえてくる。すっかり春だなぁ……なんてまどろみながら耳を澄ましているとカタクリさんが「そういえば、」と口火を切った。

「ナマエに春が来たのか?」
「……はい?」
「イイ人が、出来たんだろう」

 ………。
 ……!?

「……」
「……」

 え……、えええ!?

驚愕で発作のように胸を蝕んだ。びっくりしすぎて、硬直しながらカタクリさんをまじまじと眺める。

彼は紅茶を飲みほして、微かにまなじりを下げた。助けを求めてペロスペローさんとダイフクさんを見るが二人とも知らん顔をして目を逸らした。むしろそれはありがたい反応ではあるのだけれど。

「扉ごしに聞こえたが……違うのか?」
「……」
「……」
「……ち、ちが……います」
「そうか。」

消え入りそうな声で答える私にカタクリさんは目を細める。紫色の英国風なティーカップがテーブルに置かれる仕草は、やはりペロスペローさんと似ているように感じられた。

ダイフクさんは白々しく欠伸をしているし、ペロスペローさんは急に書類を手に取り声に出して読みはじめる始末。しかも私の声はとても上ずっている。これではどう言い繕おうと嘘であると見破られてしまう。気まずいし、好きな人に嘘をつくのが単純につらい、

「……ああ、」

と、カタクリさんが出し抜けに言う。

「トラファルガーか?先月会っただろう、」
「……」

って誰だっけ、最近その名前をプリンから聞いた気がするけど……あの赤いツンツン頭の、ガチャガチャした人?って、そうじゃなくてっ!

「あいつは確かに男前だな」

カタクリさんはストールの上からでも分かるくらい僅かに口角を上げて微笑して目を細めた。

私のこと何とも思っていない目。私の気持ちに微塵も気づかない目。それでもいいけど、でもやっぱり……すこしつらい。


「違います」

静かに答える私をカタクリさんは、少し驚いたような眼差しで眺めた。多分、急にテンションダウンしたからだと思う。自分でもぴりぴりとしてしまっている気がする。気のせいであってほしい。

「……カタクリ、私語は後にしろ、今回のお茶会のことなんだがなペロリン♪」

ペロスペローさんが助け船を出してくれたのでそこでこの話は打ち切られて助かった。私は彼らに新しく紅茶を淹れに行くために席を立つ。

……動揺してはいけない、感情的になるなんて最低だ。次は笑って受け流せるようにしておかなければ……。





*****


給湯室でお湯が沸くのを待っていた。

「ナマエ、」

人気の無い通路から突然、ダイフクさんが顔を見せた。

「わっ…!ダイフクさん、びっくりさせないでくださいよ!」

気配なさすぎでしょ、心臓止まるかと思った。

「俺のはもういい、このまま帰るしな」
「そうなんですか?……わかりました」
「……」
「……?」

ダイフクさんが黙っているというだけでかなり怖いのにしかもまじまじと私を見つめてくる。もう慣れたけど、知り合ったばかりなら悲鳴を上げそうだ。

ダイフクさんは珍しく、神妙に「あのなァ」と言う。

「カタクリのことだが……」
「!……」
「あれは……」
「……な、なんでしょうか……、」
「お前のこと惚れてるかもしれねーなァ」

 え。

「えっ、?」
「……」

 えぇーーーーーーー!!!!!

「な、な、なんでですかっ!!?」
「なんでーって言われても……勘だ、」
「……」

なんだ……勘かぁ。
と、思いつつも心臓が急速に脈を打っている。

ダイフクさんのインスピレーションに望みを掛けるなんてどうかと思うけれど。でも、なんとなくダイフクさんが言うならそんな気がしないでもないこともないかもしれない。

「アイツの性格でトラファルガーかなんて言うかァ?」
「し、知りませんよ、」
「よっぽど関心があるってことじゃねェかと思うんだがなあ……」

ダイフクさんはシンクの淵に手をついて、暗い顔をして見せた。わざとだ、わざとそんな顔をしているのだ。本気か冗談かわからなくなる。

「たしかに、カタクリさんは思慮深くて優しくて寛大で聡明な人なのであんな話題は避けそうですけど……」
「密かにノロケるなボケが、耳が痒くなる。 だけどな……俺の言いたいことわかるよな?」
「う……で、でも…そんな……」

そんなこと期待してしまってあとで痛い目見るのは嫌だし……。

「気ィ張れ!」
「痛った…!」
「フニャフニャしてたら上手くいくもんもいかねェぞ」

ダイフクさんはそう笑って私の背中をバシン!と叩いた。瞳が爛々していて、ヒョウとかチーターみたいな何かの肉食獣みたいだ。猫みたいに親しみやすいときもあればいいのに。

「うまくいったら教えろ、死ぬほど大福奢ってやるよ」
「……ありがとうございます、」

絶対言いませんけど。
でも、ダイフクさんの優しさなんだろうなぁ…なんてことを考えながら彼が去っていく背中を見送った。

嵐のような瞬間だった。
お湯がしゅんしゅんと沸いている。

いったんカップに注いでお湯を冷ましてから、紅茶に適した温度になるのを待っていると今度はコツンコツンと足音が通路に響いてくるのが聞こえた。


「ナマエ」
「……カタクリさん」

顔を見せたのは……カタクリさんだった。突然体にスイッチが入ったみたいに肌がぴんと緊張するのがわかる。こういうとき、ああ私はこの人に恋してるんだと改めて気がつく。

彼は給湯室に入ってきてシンクの淵に軽く腰を預けると胸の前で腕組みをして目を伏せる。

「もうすぐお持ちしますから」
「ああ」
「ペロスペローさんは?」
「別件で離席している、俺は息抜きに」
「ここでですか?狭いですよ?」
「ああ、ここでいい」

二人でなんとなくしんみりしたみたいにお湯の湯気を眺めていた。そばにいるカタクリさんがいつもよりもほんの少し近くに感じるのは給湯室が手狭だからだろう。

だが、カタクリさんが入ってきただけで空気が変わったみたいに思えるのは気のせいではなくて、例えば紅茶の葉の匂い、湯気の熱気、シンクそばの水の動いている気配などが、さっきよりもずっと強くなっている。

そばにいるカタクリさんの存在感はもっと。
すごく意識してしまう。


「ナマエ」

カタクリさんは、穏やかに低い声を洩らした。名前を呼ばれたというより、溜め息をこぼしたようにも聞こえた。

「さっきは悪かった」
「え……?」
「変なことを言ったな、別に茶化すつもりはなかった」
「……いえ」

全然、大丈夫です……と、消え入るような声でそう答えたあと恥ずかしさがふつふつと沸いてくる。

「ダイフク……か?」
「え!?」
「ナマエの、その相手は」
「いえ!そ、そんなわけないじゃないですか……!」
「そうか……」
「あ、いえダイフクさんは良い人ですけど、」

カタクリさんが私の返しに笑ってるんじゃないかと思ったけれど、案外真顔だった。

湯気の熱気を吸い込むとふわりとカタクリさんの甘い香りがした。ストールの下に閉ざされた意志の強そうな口元を見上げてから私は視線を落とす。

(――カタクリさんです)

心の中で呟いた答えに、さりげなく気づいてほしい。でもその途端に顔を見れなくなりそうでこわい。

「この界隈の野郎じゃねーんならいいんだ」
「……」
「いや、ダイフクなら心配ないんだが……」
「……」
「他の者だと少し、気になる……変な目に遭わせたくない」
「大丈夫ですよ、変な人なんかじゃないです」
「そうか」
「とても、素敵な方なので」

それで優しくて思慮深くて寛大で聡明で、
それで、とても鈍い人です。とても。


お湯が良いころ合いまで冷めたので私はそれをティーポットに注いだ。紅茶の香りがカタクリさんの気配のあいだに立ち上る。作業することがあるのは幸いだ、少なくともその間は心を落ち着かせることができるから。

「人の心配ばかりしてないで、カタクリさんこそどうなんですか?」
「どう、?」

こぽぽぽぽとティーカップに紅茶を注ぐ。カタクリさんは自分の分を受け取って、それを一口飲んだ。

「カタクリさんこそいい人いないんですか?」

こぽぽぽぽ。
優しい湯気に目を細める。

紅茶の香りの最後に、鼻腔を通る甘みにほっとする。こんな質問をしているときでさえも。

「ああ……」

彼は少し曖昧に肯いた。
そしてすこし俯いて、言った。

「まあ……気になる相手なら」

 ―――。

「そうなんですか、うまくいけばいいですね」
「さっき気が付いたばかりなんだがな」

カタクリさんは微かに眉間に皺を寄せた。視線がゆっくり、私に向けられる。

「……へ?」

こぽぽぽぽ、とお湯を注ぎながら私はカタクリさんに見惚れていた。優しい扇状の下睫毛と、まなじりの皺がきれいだと思った。

カタクリさんは目を潜めて私を見つめている。すこししてカタクリさんはカップに視線を落とした。

「溢れている」
「え。」
「おい……!やけどするぞ」
「アッ、つ……!!」

カップに溢れた紅茶が指先を濡らして、咄嗟に手をひっこめた。カタクリさんが事態を先読みして、注意を促してくれたと言うのに……間に合わなかった。

お湯も幾分冷ましたあとだったので、火傷になるほど熱かったわけではないが。カタクリさんは蛇口をひねってシンクに豪快に水を放ち私の手をぐいっと掴んだ。

「!……」

掴んだ手の指を冷やしてくれている。指先に、まだ春の始めの気温に冷やされた水道水が掛かっている。じんじんするほどに冷たい。

「……」
「……」
「しばらくこうしていろ」
「はい……」

体温がじわと上がっているのに。掴まれた手のひらと頬は熱いのに指先だけ冷えていって変な感じがする。


「あの……ありがとうございます、」

手を掴まれている、それだけのことなのに体の中枢を握られてしまったみたいにカタクリさんでいっぱいになってしまう。嬉しいのだけど、でも、混乱する。

おずおずとお礼を言って手を引っ込めようとすると、びくともしなかった。ジャーっ、と水が流れつづけている。

カタクリさんの手……あったかいな。いつもはグローブを付けているので分からなかったけれど。ごつごつしてるのに傷やささくれがなくてきれい。安心するような手の温度。だけど、あったかいのにゾクゾクしている。

ドキドキする波が引いていくのを待っていると水道の音の向こうでカタクリさんが小さく息を吸う音が聞こえた。

「さっき言っていた事だが……」
「……なんでしたっけ?」
「おまえだ」
「え?」

それきりカタクリさんは黙りこんだ。硬く閉ざした唇の横顔が、いつもと変わらぬ凛とした表情のまま私の指を見つめている。

 ……?

何のことを言っているのかよくわからず、やり過ごそうかと考えていたとき。不意にカタクリさんの言葉を思い出す。



まあ……気になる相手なら



「……」
「……」



なんでーって言われても……勘だ



合わせてダイフクさんの声も脳裏をよぎる。



お前のこと惚れてるかもしれねーなァ



「あの、カタクリさん――、」

背けられていた顔がゆっくりとこちらに向けられる。燃えるような真赤な瞳と目があったとき視線がドクン、と胸に噴き立った。



―――おまえだ


熱い……。
このまま私が沸騰してしまいそう……





ダイフクさんの言うとおり