すごいものをもらってしまった。
匂いを嗅げば、たちどころに持ち主に惑わされてしまうという香水……をしみこませた端切れが、いまポケットの中にある。
これを譲ってくれた友人は、ワノ国まで行って謎の侍から買ってきたらしい──私が片思いしているので、お裾分けしてくれたのだ。
ドキドキしながら早朝にスイートシティに足を運んだ私は、お掃除のかたわら、なんどもポケットの中にあるその感触を確かめた。
私の片思いは決して報われないから、これくらいの遊び感覚は許されるだろうか。
「ナマエよ」
スイートシティの城の門前で、箒で懸命に落ち葉を掃いていると、すぐそばで急に声が聞こえてきた。驚愕しながら振り向くと、真後ろにダイフクさんが立っていた。こわっ!近っ!
「な、な、なんですか!?」
心臓に悪い人だな、と思いつつ二歩ほど後ずさりして適切な距離を保った。
しかしダイフクさんは、「避けんな」といいながらにじり寄ってくる。こわすぎて箒で思わず身構えてしまう。
「いつも以上に不気味なんで近寄らないもらえますか?」
「おまえそんなにハッキリ言うなよ。それよか、なんかいい匂いさせてるなぁ?」
「え?」
「これは甘〜い血の匂いか。どっかで一戦してきたんじゃねーだろうな?」
「してきたように見えますか?自分の匂いなんじゃないですか?」
「ん?そうか?そう言われたらそんな気も……」
ダイフクさんが自分の袖の匂いを嗅いでいる隙に、私は後ずさって逃亡した。あれ以上近づいてこられたら死ぬと思ったから。まとめた落ち葉はダイフクさんがいなくなってから、改めて回収しよう。
「オイ。そこのメスガキィ」
城の陰から、にゅっと手が伸びてきて、頭を掴まれた。
「!?」
片手でずるずると城の陰に引きずり込まれる。頭皮が抜けるかと思った。暗がりの中で目を見開くと、剃刀のような細い双眸に睨まれていた。
「く、く、く、クラッカーさん!?」
「おまえ、女のくせにいい匂いの汗かいてんじゃねーか……!」
クラッカーさんは鼻先を私の髪に埋め、深呼吸している。
恐怖のあまり絶叫もできず硬直していると「クラッカー」と、ひょいとオーブンさんが顔を出した。神様かと思った。
「な……!?何してるんだおまえ……。ナマエ、早くこっちにこい」
城の陰でまさかこんなことになっているとは思わなかったらしく、オーブンさんは目を見開いた後、ひょいと私を助け出してくれた。
「邪魔すんな兄貴。そのガキ、なんかたまらねぇ匂いさせてるんだ。もっと味わって味わって、味わいつくさないと気ィがすまねェ。こっちへ寄こせ、それとも……兄貴も一緒にどうだ?」
クラッカーさんの呪いのような言葉は、距離を保ったあとでも十分わたしを恐れさせた。
オーブンさんは真顔で「文句があるならこいつのいないところでしろ」と言い、私の手を引いて歩き出した。
「待てって兄貴ィ!助けたふりして独り占めする気だろうが!」
後ろからどぎつい呪詛をぶちまけつつも、さすがに追いかけては来ないことにほっとする。
門前で立ち止まって、オーブンさんは掴んでいた手を放してくれた。
「ありがとうございました。死ぬところでした……」
本当に死ぬかと思った…。
「大丈夫か?死ななくてよかったな。なんであんなことになったか、わかるか?」
仕方なく、事の仔細を説明する。オーブンさんは黙って聞いていたが、聞き終わると「香水ィ?本当なのかそれは」と怪訝な表情を見せた。
「本当ですよ。これです、嗅いでみます?」
香水の染みた懐紙を、ポケットから取り出す。オーブンさんは思いっきり懐紙に顔を近づけすぎて、「臭い!!なんだこれは!!」と悶絶した。
「え?臭いですか?いい匂いですよ?」
「俺はな……鼻が利くんだ。それは悪臭しかしない。獣の腐臭だ。捨てたほうがいい、香水なんかとは違うぞ」
鼻を抑えながらオーブンさんは仏頂面で立ち去って行った。助けてくれたのに臭い思いをさせて、申し訳なかった。でも、私からすれば桃のようないい匂いなのだけど……。
血だの汗だの獣だの、皆言いたい放題だな。それでは、意中のあの人も臭がったりするのだろうか。
杉や檜の枯れ枝を交差上に組み、落ち葉をうずたかく積み上げる。さつま芋を入れ、城内のキッチンから借りた元火で点火する。
筒で息を送りつづけると、火が炎に膨れ上がり、落ち葉を飲みこんでいく。黒い煙が、樹木ごしの空に上っていく。
うっすらと陽が傾きはじめてきた。冬であることに加え、山手は日照時間が短い。かじかんだ手を炎に充てていると、誰かが正門をくぐって帰ってきた。ペロスペローさんだ。
「おかえりなさい」
「やぁ。精が出るなァ、ペロリン♪落ち葉の処理かい?」
「焼き芋も仕込んでるんですよ。おひとついかがですか?」
「いや、遠慮しておこう。ナマエちゃんが食べなさいペロリン♪」
ペロスペローさんはやわらかく笑う。いままでも何度か、別の島で買って来たお茶やお菓子を勧めたことがあったが、彼はいつも遠慮した。私だけではない、他の部下に遊郭や食事に誘われても、微笑んで断る姿が印象的だった。その優しい表情が見たくて、いらないとわかっていても勧めたくなる。
「……それよりナマエちゃん。なにか、いい匂いがしないかい?ペロリン♪」
「え?」
焼き芋に気を取られて、香水のことなどすっかり忘れてしまっていた。私は、ああ、と手を打ち、実は……とポケットに手を入れた。
「もしかしたら、この……」
「これは、あのキャンディの匂い……」
「え?」
「ナマエちゃんも私の島に行ってきたのかい?」
「いえ、行ってませんけど?」
「隠さなくてもいいんだよォ、ペロリン♪私の作るキャンディは格別だからな。ナマエちゃんさえよければだが、俺のおすすめは島に降りてすぐ手前にある洋菓子店の……」
こんなに喋るペロスペローさんは初めて見た。すごく美味しそうにキャンディーの説明をしてくれたので、本当にお腹が空いてきてしまった。焼き芋よりキャンディーが舐めたい、と思ったところで、「話していたら舐めたくなってきたな。戻って来たばかりだが、島に戻るよペロリン♪」と、颯爽と階段を下って行ってしまった。
えー。私も行きたかったな。
とはいえ、一応きょうは好きな人に香水を嗅がせるという自己課題がある。ここで食欲に負けてしまってはいけない。食い気より色気を出していかなければ。
「よし……!」
焼き芋が焼けたら、それを差し入れとして持っていこう。紅茶もいるな、紅茶も用意しなければ。
焚火のそばにいたものだから、顔が煤けている気がする。
ハンカチを外の水道で濡らして、顔を拭って、ついでに薄く、くちびるに色付きリップも塗った。
……でもなんだか似合ってなくて拭いた。
城に入って、紅茶の支度をして渡り廊下を歩いていると、なにやら不穏な空気を感じる。
そっと窓ごしに中庭を伺うと、……クラッカーさんが「どこだ〜〜〜〜メスガキ、姿を見せろ〜〜〜〜」と言いながらウロウロしている。そのそばで、スムージーさんが煙管を吸いながら、軽く引いた感じでクラッカーさんを眺めていた。
あまりに異様な光景に叫びそうになった。だめ。くちびるをぐっと噛み、堪えた自分を褒めたたえたい。きっと地獄ってこういう光景なんだろうな。冷汗がだくだくと背筋を濡らしている。
紅茶と焼き芋の載った盆を持ったまま、すすすと後退った。逃げなきゃ。見つかったら死ぬ。目が合っただけで死ぬ自信がある。
幸い、床はピカピカに磨かれて、滑り歩くぶんには音を立てない。
クラッカーさんとスムージーさんのいる方角ばかり注意していたので、背後がどうなっているのかわかっていなかった。
そうっと伸びてきた手に捕まったのは、一瞬のことだった。
気が付く前に、引っ張られて扉は閉められた。私は、すぐ隣の部屋の中にいた。
振り返るとそこには、……カタクリさんが立っていた。なぜかキレそうな顔をして私を睨んでいる。
「またおまえか。面倒ごとを増やすガキだな。クビにしてほしいのか」
「……え!?なんでそんなご立腹なんですか!?」
「おまえのせいで仕事が増えて敵わなん。些細なことは見逃してきてやったが、いい加減……」
「ごめんなさい!わたし、何しました!?」
「俺の邪魔を狙うことに関しておまえは天才だ」
チッと舌打ちをして彼は目を逸らした。隙のない動作で窓の方に近づき、耳をそばだてている。
クラッカーさんの声がまだ聞こえる。カタクリさんにも睨まれたし、もう色々頭が爆発しそうだった。
怒りっぽい背中に、何も言えずいじけたくなる。こんなはずじゃなかったのにな。邪魔なんてしたくなかったし、やれと言われたらなんでもやる気概もある。でもクビにだけはしないでほしい。
「ワノ国に行かせた女は何者だ」
「え?」
「その女、知人なんだろう、今朝交流があったようだが」
「……えっ、あっ、な、なんで……」
「おまえの知ったことじゃねェ。質問にだけ答えろ」
「……。彼女は友だちです。いい子です。ビッグマム海賊団に警戒されるような子ではありません」
「香水とやらを買って来させたらしいな。商売人もいい迷惑だ」
「……」
「その香水のせいでクラッカーはあんなことになっているのか」
「……はい」
カタクリさんはもうなにも言わず、ふたたび外の様子を伺っている。スムージーさんの声が聞こえるが、内容まではわからない。カタクリさんにはわかるらしく、眉間を寄せて恐ろしい形相をしている。
しばらく、所在なく立ち尽くしていた。
焼き芋も、紅茶も、もう冷めきってしまっている。
早く帰って、お風呂に入りたい。お湯をかぶれば、今朝ドキドキしてここに来たこととか、カタクリさんがどんな顔をするだろうと期待していた愚かな自分を洗い流せるかもしれない。
しかしそれらは暫く自分を惨めにさせるだろう。
こんなこと、するんじゃなかったな。
こんな人を好きになるんじゃなかった。悲しくなるだけだ。
やがて、クラッカーさんとスムージーさんは立ち去ったらしく、なにも声は聞こえなくなった。窓際から離れ、こちらを振り向いたカタクリさんは、もう怒った顔はしていなかった。いつもの、無機質な表情に戻っている。
「今日は帰れ。まだクラッカーがうろついているかもしれねェ。門の下まで送ってやろう」
「いえ、結構です。ほとぼりが冷めるまでここにいますから。カタクリさんはどうぞ職務を全うなさってください」
「……おまえ、俺の指示が聞こえなかったのか」
「カタクリさんこそ私なんかにお気を遣わず。どうせお邪魔しかできませんから、これ以上お手間を取っていただく必要はありません」
「……」
カタクリさんがぴりっとした空気を放っていることがわかる。まるで匂いのように、その空気を吸えばたちどころに萎縮させられる気迫が。目を合わせなくても、彼が私を睨んでいることがわかるし、言葉にしなくても、彼が私を目障りな小娘だと疎ましく思っていることもわかった。
私が香水をぷんぷん匂わそうが、焼き芋を差し入れようが、なんの意味もないってことも。
「なるほど」
と、彼はヒヤリと呟いた。
「たしかに、馨しい香りがするな。皆を魅了してやまないだろう──そうやって憎まれ口を叩いていてもな」
「……」
「なあ……教えろ。それほど男を誑かしてどうするつもりなんだ」
ひた、と黒い革靴が一歩近づいてくる。その隠された口元には、まるで幻のように、淡い笑みが浮かんでいる気がした。
ひたりと、また一歩。迫りくる陰に対し、私は、後退ることもできず、硬直して魅入られていた。瞳には妖しい艶があり、肌には端正な造形を讃える陰影が刻まれていた。
「え?え、え、え……」
え?ち、ち、近い……どんどん近い。
さっきより近い。ものすごく近い。
この人がなぜ、私に接近しているのか、その意図がわからない。もしかしたら、彼は触れるだけで人を消してしまうことができるとか。あるいは、生き血を啜ろうとしているのかも。もっと現実的に考えれば、くびり殺そうというのだろうか。
いずれにせよ、自分は動くことができなかった。捕食されるのを黙って待っていた。
知らない熱感と、ぴりりと肌を刺す視線と、甘いドーナツに似た匂いがする。卒倒しそうな感覚だった。
まだ触れてもいないのに、確かな質感が私を追いつめてくる。
カタクリさんがしゃがんだと同時に、両手がぬうと伸びて、両肩を掴まれる。その反動で頭がぐらりと揺れた。
「それとも、誰か狙った男がいるのか」
耳元で囁いた声が、全身を総毛立たせた。
もう、口から心臓が出そうだった。彼がなにもせずとも、私は簡単に死ぬ気がする。
「……焼き芋の匂いに過ぎないがな」
ふふ、とばかにするように笑って、カタクリさんは両手を放して立ち上がった。
ずるりと自分の両肩が脱力する。熱い大きな手の感触が、まだ締め付けてはいるけれど。
顔を上げると、カタクリさんはもう背を向けていた。
「本当にそんなものでクラッカーがやられたのか」
「……」
「香水とやらが実在するのかは知らんが、焚火で匂いが消えてしまっている。いまは焼き芋と、おまえの匂いしかしない」
「……」
「……」
私が押し黙っている様子を、彼は黙って眺めていた。もう、からかう気はないらしい。とにかく、この邪魔で、厄介事ばかり持ち込む小娘をとっとと帰らせようという念頭しかないのだろう。それくらい無機質で無感動な目だった。
「黙りこくってどうした」
「あ、いえ、……なんでもありません」
「……」
「香水の匂いが消えて、残念だなって……」
たしかに、香水の匂いは一切しない。かわりに、この幹部室よりも遥かに小さな密室に、カタクリさんの匂いが存在感と共に満ち満ちていて、頭がぼうっとする。
鼻腔から吸い込んで、ふたたび鼻腔から吐き出すと、ほのかな苦味と甘やかな余韻を残す匂いだった。大人の男の匂いだ。私にはない匂い。彼の放散する空気に当てられて、心臓がドクンドクンと脈打っている。肩を掴まれた手掌と指先の感触が、いまも強く、熱く焼き付いている。
「そんなものよりも、紅のひとつでも付けたらどうだ」
「え……お化粧ですか?」
「ここに来る前、熱心に塗っていただろう。何故落とした」
「……!!見てたんですか!?」
「あぁ。見ていた」
物陰で口紅を付けていたことを!?
なんで!?カタクリさんあの場にいたのか。私が思っている以上に、スイートシティ内のあちこちを見張っているんだなぁ。
ということは、鏡の前で笑ったり表情の練習をしていたところも見られていたのだろうか……、
恥ずかしすぎる。
また馬鹿にして笑ってくれたらいいのに、カタクリさんは興味ない顔でさっさと扉を開けて通路に出ていくし。
「何をしている、はやく来い」
「あ……はい……」
紅茶と焼き芋の載った盆を手に、部屋を後にする。通路に出ると、冬の匂いがした。もうカタクリさんの匂いは、空気中に分散されて、感じられなくなっていた。
「送ってくださるんですか?」
「あぁ。下に迎えを手配してやる。そこまで送る」
「ありがとうございます、……キッチンに寄っても構いませんか?これ、片付けたくて」
「……芋と紅茶の差し入れか」
「はい……」
腕を組みながらじろじろと全身を見られている。彼が笑ったのか、怒ったのか、どちらの反応を示したかはストールの上からは見えなかった。すぐに背を向けて、すたすたと歩き始めちゃったし。でも、その仏頂面が、一瞬変わる瞬間だけは垣間見たのだ。
「……誰の気を引きたいんだかな」
そっと、ぼやくような声。
誰の気を引きたいかだなんて、そんなこと、言えるわけがない。
冷たくて、意地悪で、無表情で、それなのに、それだけじゃなくて。
カタクリさんです、
だなんて、とても言えない。
それから一言もカタクリさんは喋らなかった。私も口を閉ざして大人しく付いていった。
正門を下りると、迎えの部下が立っている。カタクリさんが彼らにチップのベリーを渡して、私が中に入るのを黙って見ていた。狭い椅子に座って、振り返る。
何か言いたいけれど、何も言えない。
はらはらと雨のように落葉する中、遠ざかって見えなくなるまで、彼は見送ってくれた。
*****
「どうだった?上手くいったかしら?」
香水を分けてくれた友だちが家に来て、わくわくしながら首尾を知りたがっている。彼女に申し訳ない結果になってしまった。事の仔細を説明し、半泣きでお菓子を摘まむ。
成功か失敗かで言えば間違いなく後者だ。
なんか、キレられたりしたし、変な人に襲われかけたし。
………でも、カタクリさんとあんなに喋ったのは初めてだった。あんなに近づいたことも、肩を掴まれただけだけど、触られたことも──見送ってくれたことも。
それらは、なにか得難いものとして、体に刻まれている。
「匂いが消えてしまっていたからでしょう?明日ももう一度持っていってごらんなさいよ。今度は朝いちばんに仕掛けるのよ」
「うん、……」
膝を抱えながら、カタクリさんの言葉を何度も反芻して、ため息をついたり、あれはどういう意味だったんだろうと思ったり。
気を引きたい相手、バレてるんだろうな、でもバレてないのかな、……私はバレてほしいのかな。
考えがまとまらない。カタクリさんの声や匂いや手の感触は鮮明なのに。
ひとまず明日は、薄く、大人っぽく、口紅を塗ってみようか。それで、今度こそ静々と、紅茶とお芋を差し入れよう。
そしたらカタクリさんは、どんな顔をするだろう。
怒った顔、無表情、小ばかにした呆れ顔。
わからないけれど、いずれにせよ、これからも私は勝手に振り回されるんだろうな。
……ドーナツに似た、ほろ苦い大人の香りを思い出すたびに、くらくらする余韻を感じる。
カタクリさんの色香に惑わされたまま、ゆるむ唇を噛みしめた。