3/3
着替えを済ませ部屋を出れば、扉のすぐ横の壁に、背を預けながら夜空を見上げるお兄様と目が合った。彼は、私に気付くとこちらに向き直る。
「準備は済んだみたいだね、ペロリン」
「はい」
「では、こちらに。下に迎えを待たせている」
先導されるまま、階段を下りると、そこには迎えの馬車のような物が横付けされていた。それに戸惑う私をしり目に、まるでエスコートするかのように、手なれた動作で私に目配せをする。
乗れ、という事だろう。
少しびくびくしながら足を通すと、優しく鼻腔を刺激したキャンディのような爽やかな香りに紛れて、背後からくすりと控えめな笑い声が聞こえた気がした。
「やっぱり慣れないかな?こういうのは」
「……こんなの……初めて乗りましたし、なんだか気が引けちゃいます」
素直に思いを告げれば、今度ははっきりと聞こえた吐息混じりの笑い声に思わずお兄様を見遣るも、私に次いでそれに乗り込もうとその大きな身を小さく屈めた彼の顔は窺えなかった。
そのまま彼は腰を下ろし、使用人であろう男性に目配せをすると馬車を発進させ、ゆっくりと背もたれに体重を預けると思いだしたようにまたふ、と笑った。
「どうかしましたか?」
それが少しだけ恥ずかしく感じられて、耐えきれず問うと、お兄様は少しだけ愉快そうに目を丸めて、柔らかなその声で
「いや、なんてことはないのだが」
と、笑みを誤魔化すように一つ咳払いをすると、外に視線を移す。
「ナマエさんのような方とお話するのは、久々だったのでね」
「……?」
「なんというか。少し不躾かもしれないが、新鮮だったんだよペロリン」
景色を眺めていたお兄様の瞳が、私を映す。
「……もしかして、貶してます?」
「あっ……いや。そういう意味では」
からかうように言ったつもりが、力いっぱい視線を泳がせて慌てふためくお兄様が面白くて、なんだか意外だな、と思う。
カタクリさんにはこういうからかいは通じないから、普通の男性はこんな感じかなあ? と想像して、相手がビッグマム海賊団の幹部だったことを思い出して口ごもる。
「はは、ごめんなさい。ちゃんと分かってます」
「……っ……参ってしまうね…ペロリン」
「でも。こんな格好でこんな立派な馬車に乗ったの、もしかしなくても私が初めてですよね?」
いつものよりも品のある服を選んだつもりだけど、こういうのに乗る女性はきっと、ドレスだとか、そういう類のセクシーなものを身につけているんだろう。そう思い、口にしたのだけれど。
「というよりも、これに女性を乗せたこと自体、今まで無かったのでね」
思っていた答えの、遥か斜め上を飛び越えて行く返答に、反射的に背筋が伸びる。
「これは私専用なんだよ、ペロリン」
「……いいんですか?」
「こちらこそ。ナマエさんの馬車デビューがカタクリのでは無くて、申し訳ないくらいだよ」
私を見る彼の瞳が、微かに細められた気がして、それに合わせるように私も微笑む。
お兄様も、カタクリさんのことを思い出しているのだろうか。私を見る瞳が、時折、こうして優しげに憂うときがある。
カタクリさんの馬車は、カタクリさんみたいにスマートなデザインなのかな、と頭の片隅に浮かべてていれば、お兄様はややあって、くすり、と笑うと「ナマエさん」と、私の名前を控えめに漏らす。
「……あの、先ほども思ったのだが」
「……はい?」
「カタクリのことを、カタクリさん、と呼んでいるのかい?ペロリン」
「あー……。やっぱり、おかしいですかね?カタクリさんにも、もの凄い嫌な顔されたんですけど」
「いや?いいと思うよ。私はね、ペロリン」
「…そうですかね……」
「我々のことをそんな風に親しみを込めて呼ぶ者がいないからね、この万国には」
「そうなんですか?」
「ああ。カタクリもそんな態度でも拒否はしなかったのだろう?なんだかんだで気に入っていたのかも知れないね、ペロリン」
それにしても、カタクリさんか。今度私も呼んでみよう。
なんて、いたずらを思いついた子供のように、無邪気に笑うお兄様を見ていると、そう呼ばれて驚くカタクリさんの顔が見えてくるようだった。
「あ……。そろそろ着くよ、ペロリン」
心地のいい沈黙のあと。
不意に再び、外に視線を移したお兄様が私に投げかける。
その視線を追って外を見れば、スイートシティ内のホールケーキ城前で、無意識のうちに背中の筋肉が強張って間接をこきりと押し上げる。
「ナマエさん。積る話もあるだろう、私は外で待っているから、何かあったり、話が終わったら呼んでくれ、ペロリン」
「分かりました」
お兄様が運転手と一言二言会話を交わすと、ゆっくりと停止した馬車に、目的地に到着したことを教えられる。
ここにカタクリさんが居るのか、と思うと、なんだか変な気持ちになった。
初めて会った時の印象が強すぎるせいかも知れないけれど、なんとなくカタクリさんと怪我人というのは、結びつかなかった。
私の中で、カタクリさんは強くて格好いいというイメージがあったから、怪我するところは想像出来なかったのかもしれない。
馬車を降りて、お兄様の先導のもと、緊張をほどほどに城内へ足を進めると、城の独特な匂いが鼻を掠めて、思わず開いていた手のひらに力がこもる。
カタクリさんの部屋は隔離されたところにあるらしい。歩みを進めるたびに、人気の少なくなる廊下をきょろきょろと見渡していると、まるでホテルのような外観のフロアへとたどり着く。
「少し前まで、私もここで治療していたんだよペロリン」
お兄様がこちらを振り向いて、感慨深いような声色でつぶやく。
「そうなんですか?」
「ああ。そのときもこうやって家族がお見舞いに来てくれていたみたいだったが、」
言葉は不自然にそこで途切れたのだけれど。
私より一歩分前を歩くその横顔の──何かを思い出すような苦しげな表情をするお兄様を見ていたら、きっとそれがカタクリにもさんに関係していることだと、容易に想像することが出来て、私は言葉を続けるのを躊躇った。
「……ここだよ、ペロリン」
上品な絨毯で覆われたフロアの大きなエレベーターを乗り継いだ先、大きな扉の部屋の数歩前でお兄様が立ち止まり、こちらに視線を寄こした。
こちらを見るお兄様越しに、ちらちらと落ち着かない視線を彷徨わせていれば、部屋の扉横に備え付けてあるハイテーブルに置かれたボックスガラスの中のプレートに「カタクリ様」、と名前が刻まれているのが見えて、私はきゅっと心臓が鷲掴みにされた気分に陥る。
「それじゃあ私はこれで。ここに来るまでに通った一つ前の大きなホールに居るから、何かあったらそこに」
「……分かりました。ありがとうございます」
「……いや。では、また後ほどペロリン」
お兄様の後姿をお辞儀しながら見送って、その姿が見えなくなったのを確認するとカタクリさんの部屋へと向き直る。
一人になったせいか、急に辺りが静かに感じられて、自分の心臓がいつもより早く鼓動しているのが分かった。
一丁前に、怖いのだろうか。
きっと、カタクリさんのほうが、怖い思いをしたに違いないのに。
プレートの中の文字をもう一度だけ見て心の中で呟きながら、目の前のクリーム色のドアをノックする。
コン、コン。
控えめな音が耳を遊んで、消える。
中からの反応は無かった。
一度深呼吸をしてから、金色に光る冷たいノブを掴んで、ゆっくりと回す。
音もなく開かれた扉の先は思ったよりも明るかった。優しげな色の間接照明を浴びながら、後ろ手でドアを閉める。
目的の人物は探さなくてもそこに居た。
当たり前のことだけど、やっぱり違和感を感じずにはいられなかった。
本当に大怪我をしたのかと言うくらい綺麗な顔をしたカタクリさんが、すうすうと小さな寝息を立てて、大きなベッドに横になっている。
ピッ、ピッ、と機会音が鳴る部屋で、私はそんなカタクリさんを見つめながら、部屋の中にある立派なソファに腰を下ろすと、鞄から取り出した、カタクリさんの電伝虫をベッドサイドテーブルの上に置いて、点滴のため掛け布団から出されているカタクリさんの右手を握る。
こんなときだというのに、眉を顰めて寝ているカタクリさんを見て、私は夢の出来ごとを思い出していた。
あの時はもっと悲しそうで、もっと痛々しそうで、見ていられなかった。けれどそれは、カタクリさんが必死に頑張ってた証拠で、私はそれを少しでも癒してあげることが出来ていたのだろうか。そんな事を思って。
カタクリさんは私に会いに来たと言ったけれど。私がカタクリさんに会いに行ったんじゃないかって。
「カタクリさん。また落としてましたよ」
顔を上げて発したその一声が。
情けないくらい震えた声で、自分でも笑えた。
「私の部屋に来た時に、落としたんだと思います」
夢の中の出来ごとだった。
現実のような、出来ごとだった。
電子音と呼吸音しか聞こえない空間に、私の声はやけに響いた。カタクリさんの手のひらから伝わる体温を感じながら、つよく、つよく、その手のひらを握りしめる。
──返答は、ないけれど。
「今日、私のところにお兄様が来て、その電伝虫をカタクリさんに返してやって欲しいって言われたから来ました」
「……」
「どうして私のところにカタクリさんの電伝虫があったのか凄く不思議がってましたよ?」
「……」
「もしかしたら、恋人かも、って思われちゃったかもしれないですね。どうしましょうか、カタクリさん嫌がりそうだなあ……って思いましたけど、当たってます?」
カタクリさんが私のことをどう思っているだろうか、とかは考えたことが無かったなあと今更思う。
けれど、カタクリさんは恋人関係とか、そういうのには何となく疎そうなイメージがあったから。
だって、最初に出会った時に、見知らぬ女性に高価なバッグなんかを送ろうとしたくらいだから。そういうことに慣れているのかな、とも思ったけれど、慣れているのはきっと相手との関係をイーブンにする行動だけで、あれは女性だから気を使ってやった行動ではないんじゃないかなと思う。
そういう意味で、カタクリさんは誰にでも対等だった。私はカタクリさんのそういう所が好きだった。度が過ぎた時は少しだけ迷惑だったけど、そこも含めてカタクリさんの魅力だとわかっていたから。
「話したいこといっぱいあったんですけど、カタクリさんのいつもの顔見てたら忘れちゃいました、思いだしたらまた話しますね」
ピッ、ピッ、という音が相も変わらず私の言葉を遮るように、カタクリさんとの隔たりを作るかのように、一定のリズムを刻み続ける。
それを聞いていたら、今何を話せばいいのかも、何もかも考えられなくなって、無意識のうちに、カタクリさんの大きな手を握る手に力が入る。
この部屋に入る前に、カタクリさんの前ではもう絶対泣かないって決めたのに。気を緩めたら、溢れだしそうになる自分の涙腺の弱さが恨めしくて仕方なかった。
せり上がる感情を誤魔化すように、続けられるだけ吐き出した言葉も、次第に止んで、再び呼吸と電子音しか聞こえなくなった空間に、私はいまどんな顔をすればいいのかが分からなくなっていた。
そうして俯くように動かした視線の先、カタクリさんと同じストールが巻かれたそれが、視界の端にちらついて、私はカタクリさんの顔とそれを交互に比べ見ると、サイドテーブルに置いておいた電伝虫を右手で掴んで、カタクリさんの手のひらに握らせる。
「カタクリさん、あのね、」
あの約束は、今思えば私の単なるわがままだったのかも知れない。あの時も今も、カタクリさんからの返事は無い。
「これ。壊れてませんでしたよ。電波も入るし、普通に動きます」
──だから今日、ここに来れたんですよ。
そう付けたしながら、その冷たい感触を確かめるようにカタクリさんの手のひらごと両手で包む。
「何度でも届けるって言ったの、覚えてます?」
私がそう告げた時のカタクリさんの悲しげな、それでいてどこか嬉しそうだった顔は今でも鮮明に思い出せる。
何の根拠もないけれど、何故だかあの時は出来るような気がした。やらなければいけないとも、思った。
私が届けなかったら、カタクリさんもきっと、どこかに行ってしまうって、それは多分間違いじゃない。
今日だって。
カタクリさんは、きっと待ってた。
私がなんてことないみたいに、またこうして届けに来るのを。何の根拠もないくせに。
──だからこれだけは、
ちゃんと言わなきゃいけないと、分かっていた。
言ったら泣いてしまいそうで、それでいてどうしようもなく押しつけがましくて、私だけが必死みたいで、恥ずかしくて堪らなかったけど。
今言わなかったら、
私はきっとカタクリさんに、二度と会えないだろうって。
「……見つけましたよ。カタクリさん。私、見つけた」
どっちを、だなんて
言わなくてもカタクリさんならきっと分かってくれる。私の考えてることなんて幼稚で、カタクリさんには全部筒抜けだろうから。
カタクリさんの手のひらを包む両の手が震える。
瞼でせき止められた涙が、今にも零れ落ちそうなくらいに溜まって、私の視界を遮る。
下を向いたら流れてしまいそうだった。
涙を我慢したせいで、鼻水が喉を通って気持ちが悪い。でも、何もかも我慢して、ただひたすらに祈る。
カタクリさんも、
私との約束を守ってくれるって。
その時、包んでいた手のひらの中で、ぴくりと何かが動いたのを感じて、思わず静止する。
いきなりのことに涙も引っ込んで、私はブリキのように錆び付いた首をゆっくりとカタクリさんの顔へ向ける。
──目は、開いていない。
相変わらず一定のリズムを刻む電子機械を確認して、勘違いかと、肺に溜まった酸素を吐きだそうとして、私の耳を撫でた声に張り詰めていた緊張が千切れるのが分かった。
「……見つかってしまった、みたいだな……」
水分の足りないような掠れた声が、私に投げかけられる。
嘘。だって。
カタクリさん。目閉じて、寝てて。
全然起きそうになくて。
怖くて。嬉しくて。
カタクリさんの顔が見れない。
私が握っていた手のひらが、自分の力で開かれようとしているのを感じて、そっと電伝虫を抜きあげてその手を開放しながら、漸く確認するようにカタクリさんの方を見れば、苦しげに眉を寄せて、不躾にこちらを見遣るカタクリさんの視線とかち合って、塞き止めていたはずの涙が無情にも流れていくのを、私は止めることが出来なかった。
「……また、俺のために泣くのか」
「だって……カタクリさん、死んじゃったのかって、わたし、」
そんなことあるはずないと分かっていた。
けれど、心のどこかではもしかしてと思ってしまうのを抑えきれなかった。
カタクリさんは強くて格好良くて、少しずるくて、でも、いつだってそのまま消えてしまいそうな儚さを持っているような人だったから。
「……すまない、でも、」
本当に死んだのかと思った。
いや……死んでもいいと思ったんだ。
あのまま、死ねたら幸せになれるんじゃねぇかって──でもその時、おまえが夢に出てきたんだ。ナマエ。
途切れ途切れにカタクリさんが話す言葉に、あの夢の話が出てきて驚いた。
じゃあ私たちは、本当に夢の中で会っていたという事なのだろうか。
疑問が前に出て首を傾げてしまっていたのか、カタクリさんはフッと意地悪く笑うと、言葉を続ける。
「今、こうして会えているほうが夢みたいだ。
……なんて、くさいか」
首から下は布団に隠れているせいで見えないけれど、きっと怪我で思うように動かせないのだろう、もぞもぞと首だけをこちらに向け直したカタクリさんが、照れくさそうに言うものだから、頬を伝う涙を乱暴にぬぐって、笑って返す。
「ううん。私もそう思ってました」
「……まあ、そうだと思って言ってみたんだがな」
「……カタクリさん」
会えなくなる前の、いつものカタクリさんのような軽口に、止まりかけていたはずの涙がまた押し寄せてくる。
泣いたり笑ったり忙しい私を、カタクリさんは楽しそうに見つめると
「寝るのが惜しいような、惜しくないような…こんな気持ちは初めてだ」
と、どこか遠くを見るようにぽつりと漏らすから、私は相手が怪我人だったことを思い出して、慌ててそんなカタクリさんを布団に押さえつける。
「お兄様も来ているので、カタクリさんが起きたって報告してきますね」
「ペロス兄が……?」
「はい。ここに連れて来てくれたんです」
「なんとなくは察していたが……そうか。
じゃあ、」
「はい。勝手に聞いちゃいました」
なんてことのないように言えば、僅かに開かれた瞳に、カタクリさんの心の内が映されているみたいで、私はだらしなく笑うと
「でも、カタクリさんから直接色々聞きたかったから、少ししか聞いてませんよ?」
さっきのお返しにと、胸を張ってえばるように言って見せたけれど。
カタクリさんには全くダメージにならなかったらしく、少し丸められた瞳はただ楽しそうに細められて、鼻から抜けた吐息と共に一蹴されてしまった。
「……そうか。全く、おまえも変な奴だ」
やれやれと視線を逸らすカタクリさんの顔が、酷く綺麗で楽しげだったから、つられて私も笑った。