「こんな間抜けは初めて見た」

正面から聞こえる暗闇の中で、カタクリさんの声と、オーブンさんと思われる喉の奥で笑うような声が、医者の器具を片づける音と衣擦れの音と共に聞こえてくる。

「大事はないですが、明日の朝にもう一度往診に連れて来てください、それまで包帯を取らないように」

丁寧に巻かれた包帯の下にある私の両目が何度もぴくぴくと引き攣った。

「はい…先生、ありがとうございました」

自分の声が思ったより弱々しくて、気分まで落ち込んでくる。
島に在中している担当医の白衣が翻るのは想像できるが、いま、オーブンさんとカタクリさんが何をしているのか、どんな顔をしているのか私にはわからない。

「今夜は目が遣えないので階段などには近寄らないほうがいいでしょう、なるべくじっと座っていること」
「はい。」
「身の回りを世話をしてくれる人はいますか?」
「えっと……、」

私は口籠る。
入院なんて大げさなことは嫌だが、私は生憎一人暮らしだ。

返答しかねていると、オーブンさんが「俺もカタクリもいるし大丈夫だ」と言う声が聞こえた。

「では、心配ありませんね」

「めんどうを起こしやがって」と、カタクリさんが不機嫌そうに呟く傍らで、オーブンさんが「ブリュレを呼んで来よう、女同士でいれば楽だろう」と言う。

「そうですか、それは安心ですね」

と、先生の声。これで話は纏まった。
先生に頭を下げていると、カタクリさんに「そっちは壁だ」と言われて気まずくなる。

「だが…催涙スプレーを自分に浴びせるとは」
「ナマエらしいな」
「間抜けだ」
「まあ鈍臭くないとは言えないな」
「馬鹿に凶器を持たせたら何をしでかすか分からん」
「危うく俺たちが浴びせられていたかもしれなかったな」

「………面目ないです」と私が縮こまって言う。眼球をがっつり洗浄されたが、まだ包帯の下の両目はうずうずと痛むし涙っぽい。明日、先生に包帯を解かれたとき、きっと目やにだらけなのだろうと思うと気が重い。

それにしても…
オーブンさんが笑ってくれているから救いはあるものの、カタクリさんがさっきからトゲトゲしていて申し訳がない。
きっと、すごく思っている以上に迷惑なのに違いなかった。私のせいで今夜はこの島に足止めを食うことになったのだから。

「あの、カタクリさん」

と、思い切って声を絞り出すと、オーブンさんの声が返ってきた。

「カタクリなら今出かけて行った、どうしたんだ?」
「え、あ、ううん…そうですか。」

何の音も気配もなく、いつの間に…と驚いたが内心ちょっと安心もしていた。
そっか、カタクリさん…私のせいでここに留まる、なんてことをしない人でよかった。罪悪感から解放されることができる。
溜め息をついて肩の力を抜くと、オーブンさんが毛布をそっと体に掛けてくれた。

「すこし眠っておくといい、ブリュレにここへ来るよう連絡しておいた。もう少ししたら来れるそうだ」
「あ、はい。オーブンさん、ごめんなさい。ブリュレにまで迷惑かけて…」
「気にすることはねぇ、何か食べるものを買ってくる」

オーブンさんが口元だけの男性らしい柔和な微笑を浮かべる姿が見えるような気がした。

「はい、ありがとうございます」
「十分ほどかかるが、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「そうか。なにかあったらこれを、電伝虫を置いておくからボタンを押せば俺に繋がる」

オーブンさんに電伝虫を握らされる。
私はもう一度お礼を言い、きっと優しい顔をしているであろうオーブンさんにお辞儀した。

「それじゃ、行ってくる」
「はい、お気をつけて…」

こつ、こつ、こつ、
カチャ、
パタン。

扉の閉まった向こうで、さらに小さな足音が遠ざかっていき、やがてなにも聞こえなくなった。私は溜め息をついてそっと体を横たえる。

硬い革張りのソファはひんやりしていて、幾分か熱を持った顔に心地よい。オーブンさんの掛けてくれた毛布に包まって包帯の下の目を少し開けてみると、ずきっと刺すような痛みがして、慌ててもう一度目を閉じた。
たぶん、腫れている感じはしないので時間が経てば自然と治癒されるだろう。

武器の整備なんて面白そうだなあ、と好奇心から顔を出して、こうやって馬鹿を見たわけだが…同じ轍は二度と踏まないのが私だ。もう二度とやらないし、催涙スプレーなんて絶対に触ったりしない。

(……あ、やばい、ちょっとトイレ行きたいかも……)

あまり考えないようにしつつ、多分あと三十分ほどもしたら尿意が確かなものになっていそうだ。ブリュレ、それまでに顔出してくれるといいなぁ…。

……………。

ため息が出る。
目が見えないというのは思った以上に不便だ。
たった一日のことで、しかも私には幸い、オーブンさんやブリュレという世話をしてくれる人がいるから、じっと座っていればいいだけのことなのに、物理的にというだけではなく心理的にも、ものすごく疲労を感じる。

いま何時なのかわからないし、自分の髪がどんなに乱れていて、どんな服を着ているかもあまりよくわかっていない。こういうときは、眠ってやり過ごすに限る。昨夜、遅くまで本を読んでいてよかった。眠気が呼びこまずとも自ずと私に入ってくる。

うとうとして、顎がカクンと落ちるたびに目を開けそうになるのを繰り返していると、ずっと奥で鉄扉がギィ、と開く音が聞こえた。

………こつ、こつ、こつ、
カチャ、
パタン。

誰かが入ってくる音。
カサカサと、ビニール袋のこすれる音がして、私は横たわったまま痛む目をすこし開ける。

包帯越しに黒が滲んで透ける。さっきは照明で白っぽかった視界が、今はただの暗闇しか見えなかった。ということは、いまは電気がついていないのだ。

オーブンさんに違いない。
人が戻ってきたことに安心して、けれども眠くて体を起こすのがつらくて、じっとしたまま「おかえりなさい」と私が言うと、カサッとビニール袋をテーブルに置く音がした。

そして、
こつ、こつ、こつ。
と足音がこちらにやってくる。

ギシ、と私の横たわるソファの背もたれに手を掛ける音、そして、私の顔を覗き込む気配がした。

(………あ)

外の匂いが、した。
顔の前に誰かの体温、浅い呼吸の気配がする。

顔を背けずじっとしていると、ぎしっとソファが音を立てて。唇に柔らかく唇が触れた。鼻先が私の鼻筋に当たる。私の肩を抱き起し唇に唇を寄せたまま、溜め息を吐いた。

相手の手が、私の肋骨に触れる。
そのままするりと背中に回され、大きな掌で上半身をしっかりと支えられて、私は安心してそれに体重をかける。

心地よい、しっとりしたキス。
彼の唇が私の唇を何度も優しく挟むので、私も同じことをやり返した。

私からの反応に昂ったのか、背中を支えていた腕がぎゅっと私の体を締め付ける。
あたたかい腕の中で、目が痛むのも忘れて口付けが音もなく交わされる。

ぎりぎりのところで、遠慮がちになって舌を入れない、そんな探るような感触。
心が幸福で満たされていくのを感じながら、接吻する唇の隙間から熱い吐息が漏れる。

そして、感極まって無意識の中で
遠い場所に居る想い人の名前をつぶやいた


―――「ルフィ…、」


一瞬間をおいて、唇がさっと私から離れた。
私を抱きしめる腕も力を失くして、ひんやりとした外気の中に私の体を離した。
ぎし、と音がして相手がソファから下りたのも振動と共に伝わってくる。

いったい、どうしたのだろう?
なぜ急にキスをやめたのだろう?

なんだかすごく嫌な予感がして、心臓がばくばくと騒ぎはじめる。
張り詰めた空気の中、無言の“彼”が大変狼狽しているのが、なんだか目に見えるような気がした…はっと息をのむ、微かな聴覚をくすぐる音がしたから。

「…すまない、」

一言。
低い声がそう告げたのが聞こえた。
――すまない。
その声…ひどく聞き覚えのある声。

まさか、そんな……と顔が強張るが、
いま、私のまえで何がどうなっているのか全くわからない。
だが、たぶん“彼”は黙って私を見ているのだろう。私が狼狽しているのを見て、思うところがあるのだろう。

オーブンさんではないその声…。
すまないという謝罪の意味。

がたんと音がした。
“彼”が、一歩後ずさりしてテーブルにぶつかったらしかった。こつん、と踵を翻す音。

かつかつかつ、ガチャ。
バタン。
かつかつかつかつかつ………

少々早歩きで、その音が部屋を出て行った。
やがて何も聞こえなくなり、完全に静寂があたりを覆ったことを知る。掌にじわりと冷たい汗が流れるし、すっかり気が動転して、けれども立ち上がって部屋をうろつきまわることもできなくて。

じっと座っていたら、背中を掻きまわす感触と、強く吸い込まなければわからないほどささやかなドーナツのような甘い匂いが、また私を抱きしめる。

ずれ落ちた毛布を手繰り寄せて、頭からそれを覆うとしたが横と縦が反対でどこが角っこかもわからなくて何度かやり直して。

あたりはしんと静まり返っているのに、自分の心臓がどくどくと脈打っていて、その音が私の敏感になりがちな耳を占領している。

―― “すまない、”

カタクリさん……だ、と私は思った。
カタクリさんに違いなかった。
カタクリさんにキスされたのだ、わたしは。

今も生々しく体中を包んだ腕の感触、指が骨を探るように背中をすべり熱に浮かされたようなキスをしたその相手がカタクリさんだったのだ。

どうして、と私は思った。
どうしてカタクリさんが私にキスをしたのか、途中でやめたのはなぜだったのか、どうして、まるで、カタクリさんが傷ついたみたいに去っていったのか。
あの謝罪はどういう意味だったのか。

だって、わかるわけない、目が見えないんだから。私はカタクリさんのくちびるの感触も知らないし。ましてやカタクリさんがあんなに情熱的で、でもためらいがちにキスする人だったなんて知らなかった。

目が痛いな、と思った。
目が痛くて、見えなくて不便だからこんなことになってしまったのだ。

カタクリさんじゃなければよかったのに。
あのキスをしたひとが、カタクリさん以外だったら誰でもよかった。
カタクリさんじゃなければ、こんなに胸が痛むことはなかった。
第三者に私の、ルフィへの気持を知られてしまったことに、ただ落ち込んでいればいいだけだったのに。

それに。こんなにくちびるが、肩や背中が、
カタクリさんの触れていったところが痛むこともなかった。

“すまない”という声を受け入れた耳も。
彼の吐息を吸い込んだ胸も。痛い。

カタクリさん…ルフィの名を呼ばれて、どう思っただろう。
もし彼がとても傷ついた顔をしていて、もし私がそれを見ることができていたら、そのときはきっと、この痛みがこんなものでは済まなかっただろう、と私は思った。

カタクリさんの唇、鼻筋、瞳、頬、肩、シルエット、歩くときのくせ。
見えなくてもこんなに覚えているのに、彼がどんな顔でわたしにキスしたのか、どんな顔で謝ったのか、ちっとも想像することができない。

どうしてキスしたのか、
謝ったのか、去っていったのか。
教えてほしいけど、知ったらもっとこの痛みが深手を負ってしまう。





いつだって
上手くいかないのはわたし