ナマエは誰に対しても笑いかけるし、とにかく優しい。
顔を近づけてからかってきたりはするけれど、俺の体に触れてくることはない。
急に好きだよ、なんてこわいことを言って見せるけど、それも彼女なりのスキンシップなのだ。ナマエは、この万国の住人に対しては、全部そうで、もちろん俺にもそうで他意など全然なくて。

コイツのことを好きになったらきっと不幸になる、と俺は思っていた。
ナマエが優しくて、怒りっぽくて、危なくて、本当の“兄”のようにからかって笑いかけてくるとき、俺はなんだか泣きたい気持ちになった。

そのたびに、カタクリの兄貴とは違うけれど、自分でも未来を予知できたからである。
きっと一生忘れられなくて、一生憧れていて、だけど、一生痛いままだろうって。







『クラッカーさん。なんだ、酔ってるのかァ』

ワノ国停泊中の夜、急に電伝虫が鳴り、出ると、ナマエは開口一番にそう言った。彼女の声の後ろから、外のガヤガヤとうるさい雑音や、通行人が彼女に対して声を掛けたのであろう「そこの娘さんっ」という声などが、いっぺんに聞こえてきた。

ワノ国の花の都を、呑気なツラして歩いている彼女の姿を思い浮かべながら、障子の窓辺に移動して、手に持っていた電伝虫を窓縁に置く。部屋に備え付けられている和柄の鏡に映った俺、たしかに少し酔っぱらってるみたいだ。

「酔ってねぇ、風呂に入っていた」
『へぇ、じゃあもう宿かぁ』

宿、という発音に、いやにワノ国風なアクセントをつけながら、彼女が言う。

「ああ。ナマエはどうしてた?」
『私はねぇ、いまクラッカーさんの宿の近くにいるんだよね。夜桜がどうだーとか言ってたでしょ?』

俺は、驚いて目を見開いた。
昨日、俺の宿の近くで桜のライトアップが……と話したことを、彼女は覚えていたのだ。そのとき彼女は──へぇ、それはいいね、なら…行くかも──としれっと言ってたけれど、まさか本当に来るとは思わなかった。
だが、考えてみればナマエが社交辞令を口にする人ではないってことくらい、わかりきっていたことではないか。

「そうなのか?じゃあ…俺も出るか?」
『決まり!宿の近くまで迎えに行くね。あと十五分くらいで着くと思う』
「わかった、じゃあのちほど」
『うん!』

電話の切れる音を聞いて、電伝虫を持って、深呼吸をひとつ。
一度脱ぎ去っていた着物を再度羽織り、ばたばたと支度を済ませていると、あっという間に十五分経っていた。
その瞬間、電伝虫が鳴る。ナマエからのだった。出ると「ついた!」の三文字を言って、その通った声が、彼女の来訪を伝えてくれている。

宿を出ると、はたしてそのとおり、彼女は立っていた。
小さな身体と頭の影。夜道にたたずむその姿に、俺は、わかっていたはずなのに驚いてしまう。

まさかナマエが、ほんとうに、俺の宿まで来るとは。思ってもみなかった。この瞬間、実際にこの光景を目にするまでは。
なにかのまぼろしじゃないかってな。

近づいていくと、夜風にのって、ふわりと着物の袖をくすぐった。彼女はうつむき、身をゆらせていた。彼女の白い顔と、くちびるの血色とを、ぼうっと照らしていた。

「急に付き合わせちゃったね」

と、彼女はゆっくり言う。
その声を聞き、月みたいに真ん丸い瞳に一瞥されたとき、これがまぼろしではないことを知った。

俺は、なんだか、自分が突然情けなくなってきた。俺と彼女が対等な関係でないことを、まざまざと思い知ったからである。……これは彼女の気まぐれなんだから。

俺は、なにも考えず、付き合いのよい“兄”を、ただ演じていればよいのだ。ひとりであれこれ考えて、期待したり、やきもきしたりするのは、相手がナマエでは、疲れてしまうだけなのだ。他の女が相手ならば、期待も失望も、生活のうるおいになるだろう。経験にもなろう。だが、ナマエではいけない。彼女の思考回路なんて、俺に読めるわけはないし。

考えれば考えるだけ、疑惑の中に取り残されて、苦悩し、溺れてしまうだけに違いない。フラットな気持ちでいなければ。

ドキドキしてもいいけれど、
見返りを求めてはいけない。
これは、完全に片想い。



「ナマエ、花見なんてする柄かぁ?」
「えー!するよ、行事と自然は大切にする主義だもん」
「宴会が好きなだけじゃないのか?」
「お?それだったら、いまから宴会だーって言ったら、付き合ってくれるの?」
「えっ、それはちょっとな……」
「冗談だよ!たまには静かに、クラッカーさんみたいな人となんか綺麗なもの、見たいなって思ってさー」

ナマエはくちびるに薄笑いを浮かべてそう言う。

クラッカーさんみたいな人──俺みたいな人。
俺みたいな人って、どういう人なんだろうか。
そして彼女には、俺みたいな人がいっぱいいるんだろうなぁ……と、ふと考えて、かぶりを振るう。きっと、他の兄弟のことを言っているのだろうと、思った。

小路は紺色の暗闇に包まれていた。
白い月の明かりが、つやのある夜空を照りかえしている。
宿の近くを歩いているうちは、提灯の光、音声や、風呂の気配などが、しとしとと伝わってきていた。だが、それもいまは過去のものとなった。ナマエとふたり、ひとけのない夜道を歩いている。

「けっこうひとけのない道だねぇ」
「そうだな、昼間はすごい人なんだけどな」
「ふーん。ライトアップって言ったら、もっと人が集まってそうなもんだけどね」
「こっちからは裏手だ、またいで大通りからいくと、混雑してるかと思うがな」

ナマエは、聞いているのかいないのかよくわからない、どこか疲れた横顔で、まえを見据えていた。

彼女が黙りこむと、俺の意識も、すうっと薄れて、ただそばにいることに満たされているような、平和な安らぎを感じることができた。ナマエの沈黙には、そのような作用があった。彼女はいまなにを考えているのだろうなんて、全然考えなかった。沈黙の中に深い憩いがあることに、俺は感謝していた。

兄弟や妹らと、笑っている彼女、ウタのライブを観て喜んでいる彼女、自由奔放で大胆な彼女、それらを俺は見てきているけれども、沈黙を守るときの横顔が、一番、彼女の本質が見えるときなのではないか、と思う。

そうしてそこに居合わせていることを、嬉しく思う。

出会ったばかりのころは、彼女のこうした一面は、全然みることができなかった。だから、胸が苦しい、けれども、しあわせに思う。

やがて、東の方角に、紫に霞む桜の一房が、漆喰塗の塀からはみ出ているのが見えてきた。
直線を描いた光が、夜空に向かって淡く弱々しく伸びている。その光を吸って、桜は、本来の色よりも濃く、紫の雲みたいに、夜空の中に浮いていた。それがあまりに湿っぽく、あでやかなので、まるで大輪の花のように、強い芳香をもっているのではないかと錯覚させるが、匂いといえば、ナマエの髪の匂いがそよ、と香っただけだった。

ナマエは、「おお!見えて来たぁ!」といって、おそろしいほどに口角を吊り上げた。

「これよこれ。これが見たくなったの〜」
「ナマエのお気に召してよかった」
「くぅ〜たまらない!お酒とお団子の匂いまでしてくる〜、あの奥はお祭り騒ぎかなぁ?」
「…まあ、そうだろうな」

やっぱり、それが目当てだったか。
肩をすくめたい気持ちが半分、そしてやっぱり、ナマエはそうでなくっちゃな、という気持ちが半分。

このまま夜桜をみたら、相手がいれば酒があって、そのあとはきっとたらふく食いもんを食って、気づいたらカタクリ兄さんたちに介抱されて……そんなことを想定できる。

突然ナマエは、急ぐでもなく、立ち止まった。
「?」と思いながら、彼女の横顔を見下ろして凍りついた。ナマエのやつ、めちゃくちゃに、ニヤニヤしていやがる。目をらんらんとさせて、くんかくんかと匂いを嗅ぎながら歩き始める。獲物は傍にある、団子屋だろう……もはや飢えた肉食獣だ。もちろん獲物は俺ではない。みたらし団子が、彼女の狙いなのだ。

「ナマエ。顔が、やべぇぞ」
「えっ!?そう?顔に出てた?いやぁ〜テンション上がっちゃう匂い」
「通報される顔だったからな?」
「うっさいなー!今日は桜を堪能したい気分だから安心して」
「そうなのか?」
「うん。言ったじゃん、静かにクラッカーさんと花見する気分だーって」

ちら、と彼女を見下ろすと、ご機嫌に微笑する彼女の、それは綺麗な横顔がある。白い横顔ごしに広がった、燃えるような夜桜が、ナマエの持つオーラみたいだ。

俺は、きゅっと締めつけられるような苦しさを感じる。苦しくて、じわ〜っと熱くて、ほのかに痛くて、でも、それが気持ちいい。痛いのが気持ちいいなんて生まれてはじめてだ。

この苦しさが一生つづくなら、一生片想いのままならば、それはそれでしあわせだろう。すくなくともナマエがそばにいない虚無の毎日よりは、ずっと。

「なんか、いい匂いがしてるね」
「タコ焼き屋が来てるみたいだな」
「違うよ!どんなデリカシーしてんの!?」
「はァ?」
「クラッカーさんの匂いに決まってるじゃん」
「へ?おれ?」
「お風呂上りなんでしょ?桜に匂いがついてたら、こんな感じなんだろうなぁー」

ぬっと顔が近づいてきた……と思ったら、腹のあたりに鼻を突っ込まれて、ぎょっと叫びそうになる。
俺が赤くなって慌てていると、ナマエはからかうようにニシシと笑った。

「じゃあ、行こ」
「……ああ」

そっと俺の着物の袖を、ナマエがきゅっと掴んで身を寄せてくる。不思議に思って、視線を下ろすと、じろりと横目で睨まれた。

「転んだら危ないからっ!」

掴んだ袖を、ぶんぶんと振り回しながら。

俺が面を食らいつつも、そっとその手に自身の手を伸ばして重ねると……彼女が歩き始めたので、俺も歩幅を狭めて歩いた。

転んだら危ないから……ということは、手を繋いでもいいということだろうか。
伸ばして重ねていた手を、彼女の手首に這わせて──自分の掌と彼女の掌を絡ませる。

ナマエはもう夜桜のことに夢中で、手の所在など気にしていなさそうだ。道行く人々がライトアップされた景観を楽しんでいる。ナマエの淡い紫色の着物のひんやりざらざらした感触、その下にある彼女の体温。

桜吹雪が舞って、俺は急いで目を閉じた。
目を開けると、そこにある、ナマエのまじめな瞳。ひらひら舞い落ちる、ちいさな桜模様。

「どうしたの?」

と、思いのほか優しい声を掛けられる。

「なにー?クラッカーさん、黙りこくっちゃって」

……ナマエ、くちびるに桜がついてやがる。
でも、なんだか、とっても似合っているから、もったいない気がして、まだ伝える気になれない。

「……いや?べつに」
「変なクラッカーさぁーん」

ナマエがふっと笑った。
桜のいたずらが可笑しくて、取ってあげるのも楽しみで。俺も笑った。痛いけれど、

しあわせな片想いだと、
うれしくて笑った。





無意識のゼロセンチ