クラッカーさんは背が高い。
並んで立ったときは、だいぶ見上げなければならないので、高いヒールの靴を履いたときはちょっとだけ、その顔に近づくことができて、嬉しくなる。

キスをするときは彼が大きく体をこごめるのだけれど、それは予告なく雰囲気も作られず唐突なので、私はいつも驚いて、口を固く閉じて目もぎゅっと瞑ってしまう。
だから高いヒールを履いているときは、たまには自分からしてみようかな、と考えてしまって。実行したことはないけれども。
想像しながら、彼の隣を付いていくのが、ただただ嬉しかった。

「ナマエ」
「?」

今日、唇が触れたのも突然だった。
さっきまでダイフクさんの話をしていたのに、私は口を開けて大笑いしていたというのに、躊躇ないいたずらな瞳が、さっと私の目の前に現れて。くちびるでくちびるを掠めていった。

「──だからな、俺がそれは横領だろって言ってやったんだ。ダイフク兄さんもちょっとは懲りただろう」
「あ、は、はい。そうですね」
「ま、兄さんは悪いやつじゃねんだがな」
「へへへ……そうですね」

いきなりキスされたことに戸惑って、前髪を何度も触る私と、まったくキスしたことなど意にも介さず、のびのびとしているクラッカーさん。

いつもこうなるのに、どうしても、クラッカーさんのように普通に振る舞うことができない。
彼が何事もなかったようにしていられるのは、彼が大人だからなのか、いろんな経験をしてきているからなのか、ずっと訝しく思っていた。
だが、いまではなんとなくわかる。


風もない、夜のスイートシティのキラキラした光を、塔の上から手すりにつかまって眺めている。食事のあとなので、体がぬくい。

少し夜風に当たろうと、わざわざ城まで戻ってやってきたが、あいにくと風はそよとも吹かず、地上からがやがやとした賑わいが響いてくるだけだ。煤けた壁や灰色の様相は夜のとばりに包まれて、大きく掲げられた看板のライトなどに圧倒されている。

私は、ここが好きだな、と思った。
一度、壊滅しかけた島なのに、いまでは、スイートシティ独特の音や空気を伝えながら、落ち着いている。

それとも、クラッカーさんとふたりでいるという贅沢があるからかもしれない。苦笑いして、高いヒールのパンプスのつま先に目をやる。

ふたりきりでいる、というのは、ほんとに少しだけの限られた時間だ。
私とクラッカーさんはいつも仕事の打ち合わせと称して食事に行き、お酒を飲んで、帰るということを繰り返してきた。
麦わらの船長に投げ飛ばされて、街を破壊した張本人が、島を再生しろと、ペロスペローさんから指示をされた際に、私がクラッカーさんの助手としてお手伝の任務を受けた。

彼が私にキスするのは、通りがかった誰もいない路地や、薄暗いバーや、ふとした瞬間、だった。

考えてみれば、こうして、ふたりきりの空間にやってくるのは初めてのことだ。
それに、もうすぐ、仕事も終わってしまうし。
スイートシティの再生も来週には、終わりそうだと目途が立ってしまった。こうして、幹部の面々に突然“ナマエを今日も貸してくれ。ちょっと訊きたいことがある”と呼び出してくれることもなくなるのだ。

もしかすると、今回の任務が終わったら、私たちがふたりきりで会うのも無くなってしまうのではないだろうか。

私の目線の先にある位置に、クラッカーさんのシャープな顎がある。不健康そうな肌色と、実は細い毛質の髪の毛、それからさっき触れた、黙っていればきれいなくちびるを見ていると、クラッカーさんの瞳が私を見ていた。

「…もうすぐ、元のスイートシティですね」

とっさに出した言葉がそれだった。
彼は、微かに笑ったようだった。すこし顎を引いて、すぐに月を見上げた。

「そうだな。再来週からは露店なんかもちゃんと再開できるだろう、来月のあたまには間に合いそうだ」
「初めはあんなにトラブルばかりだったのに。山を越えたら順調でしたね」
「ああ。どうなるかと思ったが、お蔭で助かったよ」
「……」

錆びて塗料の捲れたかさかさの手すりを撫でながら、私はくちびるを噛む。

ここが元に戻ったら、私たち、こうして会えなくなるんですか……とは、訊けない。とても口にすることはできない。

キスまでしておいて妙な話だ。
恋愛のことを話したら、彼との関係が変わってしまう気がするだなんて。
でも、こわいのはもちろんだけれども、彼が、私なんか好きじゃないことはとっくに知っている。

“飯食いに行こうか”と誘ってくれることも、暗がりでさっとキスすることも、彼にとっては、たとえば私の名前を呼んだり、笑いかけるのと同じことなのだ。私が若い女だから、それが彼の女性への対応の仕方だから、だから彼は私にそうする。

決して私個人に恋愛感情があるからではない。
その予感は、初めて一緒に食事に行ったときからしていた。彼は私に優しいけど、でも、その優しさはひどい。優しくしたい気分だから優しくしてくれているのだ。私だから、優しくしてくれるわけではない。


「クラッカーさんは……」

目を瞬かせて、私の手の熱の伝った手すりを握りしめる。

「クラッカーさんは──」

思ったままのことを口にしそうになって慌てて言いよどむ。

“クラッカーさんは仕事が終わってからも会ってくれますか?”なんて、鬱陶しいこと言えない。
結果も聞きたくない。
なのに、口に出そうになるだなんて。
本当は、まだ期待している証拠だ。

なんて言い繕えばいいのか戸惑う私の顔を、クラッカーさんの影が覆う。
彼の頭越しに鈍い月が見える。あの光が、彼の影を私に掛けているのだ。心地よい影の中に。

一瞬、顔が近づいてくるのではないかと予感したが、しかし、彼はそうしなかった。
すこし身を乗り出して、くるりと体を翻して手すりに背を預けただけだった。

「今日はいい日だ」

暑さもちょうどいいし、ナマエといるしな……と続けて言う彼が、へんに歪んだ独特の笑顔を浮かべる。

「工事も終わる目途がついたしな」

彼のかたわらで、ぼんやりと、巻き舌みたいに抑揚のある声を聞いていたら、意識が一瞬遠くへ行き、そして帰ってきた。

塔の上に二人で佇んでいる。
クラッカーさんは言わば、取引先の長で、私たちは工事(再生)が終われば会う口実も無くなってしまう……
意味のないキス、残されもしない一瞬だけの唇の薄皮の感触。付き合ってもいないのに。いいや、付き合っていないからこそ、こんなキスをしてくるのだ。

甘い雰囲気もなく、まるで手や肘が一瞬ぶつかってしまったかのような、そんな、なんでもない、謝るほどでもない、その唇を、私は思い浮かべる。
隣にその本人がいるのに、彼の彫りの深い横顔は、きっといまの私には遠すぎる。
こんなに高いヒールを履いていても。

「クラッカーさんは、任務が終わって、やっぱり嬉しいですよね」

塔の下から見えるピンク色や青色を彩る雑踏、行きかう人々を見下ろして、私は言った。
ついに言った、と思った。胸がどきどきと高鳴ってくる。
頭の中で繰り返しつぶやいていた言葉が、実際に舌の上を滑り出ていった。体が冷たくなる感じと、ふわふわとその言葉、自分の声が余韻となってあたりを漂っているような感覚を同時に味わう。
きっと後になって後悔するのだろうとわかっていながらも。

「クラッカーさんは、スイートシティが元に戻ったら、……」

私と会ってたことなんて、全部きれいに忘れちゃうのだろう。
私なんかにはとても手におえないひとだし、何を考えているか全然わからないし、いつも突然呼び出すし。私の気持なんか、ちっともわかってくれないし。

私は普通の恋愛がしたいだけ。
とても、大きな海賊団の3将星なんて肩書きを持つ彼と、理想の関係が結べるはずがない。
会わなくなったら、一緒に食事するようになって二か月のこの期間を、私は、特別な出来事だったのだと処理していくのだろう。

彼の唇の感触も、よく覗き込んだ彼の瞳が微かに桃色っぽいことも、全部、また別の、もっと美しい、実際にはなかった出来事で上書きされて、ときどき思い出していくのだろう。
だから、彼がこのまま私を忘れていっても、なにも、元の生活に戻っていくだけで、後には楽しかった思い出が私にだけ残されるだけで。

いまならまだ無傷でいられる。
そのほうがいいのだと頭では考えている。
いまは彼の好意を感じ取れず悲しい気持ちを味わっているが、長い目で見ればこのまま会わなくなったほうがいい。海賊の、しかも大臣、3将星のひと、なんて。
私の人生とは対極にいるひと。
それに、私の希望どおり、彼がわたし個人を愛してくれたら、
くちびる以外の彼の体が私に触れてしまったら、きっと私は、
死んでしまう気がした。


「そうだな」

と彼は短く言った。

「嬉しいと言うか、肩の荷が下りるって言う感じだな。なんか今回は面倒なことだらけで……疲れたしな」
「ふふ。そうなんですか。でも、現場監督されてるの楽しそうでしたよ?」
「ん?ナマエも現場に来てたのか?」
「はい。何度かペロスペローさんとかと、一緒に偵察に。」
「声掛けてくれたらよかったじゃねーか」
「そんなとんでもない。お邪魔ですもん」
「邪魔なんかじゃないだろ、ナマエならいつでも大歓迎だ」

けらけら笑う彼の、こわい表情を、私はそっと見上げる。

さっきは間があったのに、いま、手すりに背を預ける彼と、手すりに向かっている私の距離はほとんどない。いつのまにこんなに縮まっていたのだろう。でも、顔はあんなに遠い。
実際高いヒールを履いているいまでも、背を伸ばしただけであの唇に私の唇は届かなさそうだ。クラッカーさんが首を傾げてくれれば難なくキスできるだろうけど。
ウェッジソールの厚底なら、もっと近づくのかなあ……。

「さーて」と彼が間延びした声を出した。

「どっか飲みにでも行くか」
「あ、はい」

ふたりきりの時間はもう終わりだ。
いまから、いつもどおり、お店でお酒を飲んで、船の前で別れて、私は家に帰るし、クラッカーさんもビスケット島にある自宅に帰っていく。

また明日朝起きて、幹部室に行って、仕事をして。もしかしたら、またクラッカーさんから電伝虫で連絡があるかもしれないし、なければ、適当にお弁当でも買って帰って、ひとりで食べる。お風呂に入って、そして、眠る。

そうして何日か繰り返して、
そしたら、スイートシティの再生も終わってしまって、二度と会わなくなる。


(二度と会えなくなる、)


想像すると、心に冷水をかけられたようだ。
クラッカーさんと道端で鉢合わせすることがあったとしても、彼は、私と一ヶ月も会わなくなれば私のことなど忘れてしまって、私の顔を見ても、なにも思い出さなくなるのではないか。
ふたりでいることが、私にとってどんなに特別でも、彼にとってはただの暇つぶし、退屈しのぎでしかないだろう。
もういっそほんとにキスしちゃおうかな、と私は思う。

こんなに近くにいるのだから。
首に腕を回して、無理やり力任せに、くちびるを押し付けてみようか。
そうすれば、少しは、クラッカーさんも私のことを覚えててくれるかもしれない。

「なんだァー?やらしい顔してるぞ」
「え、そそそんなことないですよ」
「なぁに考えてたんだ?教えろよ」
「なんにも考えてないですってー」

そんなことを言われるなんて、ほんとにやらしい顔でもしてたのかと心配になる。
クラッカーさんは軽薄な笑みを浮かべて、ゆっくり手すりから体を離して歩き出した。まだ行きたくない、と思っている私を置いて。

だめだな、とても、キスなんてできない。
首に腕を回したりなんてできない。
考えただけで足が竦みそうになるのに我ながらうんざりして、ずり落ちたバッグの紐を肩にかけなおす。中に入っている鏡のことを考える。化粧直しがしたい。きっと、べたべたに崩れている。

「行くぞー、ナマエ」
「はい。」

塔を降りて、門を出て、少し先の橋のところで立ち止まったクラッカーさんが振り返って私を待ってくれる。
月明かりと街の照明を背後から浴びて、彼の背の高い姿が、夜空の色と同じ影に包まれている。疲労で青白くやつれた頬と、右目を覆う傷のライン、羽織ったマントと革のパンツの左半身だけが、鈍い白の輪郭を浮かび上がらせている。

そちらに向かって歩き出すと、履き慣れないパンプスで押しつぶされる指が、ずきずきと痛みだした。小さな血豆が、両足に出来ているのだ。立ってるときはうまく誤魔化していたけれど。

クラッカーさんが、いつ私を呼び出してもいいように、ここ数日毎日履いていたけれど、明日からは履き慣れたぺたんこのフラットシューズにしよう、と思った。

どうせ、私からキスしたり、気持ちを伝えたり、また会いたいだなんて言えないし。
言う覚悟もない。海賊のひとり、とわかりきっていて、とても言えない。
これから数日したらもう二度と会えなくなるけれども、数か月引きずって、そうして、きっと忘れられるだろう。

みすみす自分から大怪我しそうな恋に飛び込んでいくことなんて、できっこない。

「足が痛いのか?」
「え、あ、ちょっと。履き慣れなくって……」
「そうか……」

クラッカーさんのところまで辿りつく。
私は元気に笑顔を浮かべて、「大丈夫です」と言う。

「痛いっていうか、ちょっと変な感じがするだけで。歩けますから」
「酒の前に靴、買ってやるよ」
「えっ!?いいえぇ、そんなとんでもない……靴なら結構持ってるんです、私。だから大丈夫ですよ」
「でもな…ナマエが持ってる靴って、背が低いやつばかりだろ?高くなるやつその靴だけじゃないのか?」

え……
なんで知ってるんだろう……?

びっくりしてクラッカーさんの顔をじろじろ見る私に、クラッカーさんは、なんだかおかしいくらいに真面目な声で続けて言う。

「わかるんだよ、俺は。女をみたらそのクローゼットの中の様子がなんとなく見えるんだ」
「えっ……そ、そうなんですか……正直ドン引きです……」
「いいよ、照れなくても!好きなもん買ってやる。ハイヒールのやつな、足が痛くならねーやつじっくり選ぼうぜ」

クラッカーさん、ハイヒールお好きなんですか?と訊こうとしたとき、彼の顔が、やや斜めの角度から近づいた。
くちびるが、私のくちびるに触れる。
そして、音もなく去っていった。
顔を離したそこに、彼の満足げな表情が、影に覆われた暗闇の中に見えるような気がした。

「ハイヒールじゃないとなぁ、俺も首が痛いんだ」
「……首?」

くちびるに触れた彼の、さらっとした、やや乾燥したやわらかな口付けの感触。
いつもは、余韻も残さないほど一瞬のものが、今回のそれは、一呼吸分はあった……私の唇には、彼の優しく清潔なキスのぬくもりが、まだ、刻まれている。

「こうやって、かがんだときに」

彼の頭の影が、私の頭上から覆いかぶさってくる。さっきと同じ感触、質感、温度が、くちびるに触れた。頬にあたる彼の鼻や顎の感触。くすぐったい、柔らかな毛質の整った睫毛。
急いで閉じた目を開けると、まだ、顔が近くにあった。胸に爪を立てる、端正なクラッカーさんの顔が。

「見た目は高すぎねぇ靴のほうが好きなんだがな。庶民っぽくて」
「……はぁ……そうなんですか。結局どっち履けばいいんですか?」
「もうどっちでもいい!とりあえず靴を買って、酒飲みに行こうぜ」
「はい。……じゃ、お言葉に甘えて、靴買ってください」
「おぉ!素直だな、合格だ」

私のお願いに上機嫌な彼と、ふたりで橋を渡る。ちら、とクラッカーさんを見ると、彼は、静かな横顔をしていた。いま、このひとは何を考えているのだろう、と私は思った。きっと、私なんか関係ないことを考えているのだろう。小さく吐いたはずの溜め息が、広大な夜空に木霊する。

クラッカーさんが薄暗い通りを抜け、ぶらぶらと明るい街の中を歩き出す。
その背中をゆっくり追いながら、賑やかな夜のスイートシティの風景を、その中にさえ特別目立つクラッカーさんの後姿を、私は、嬉しい気持ちで見つめる。

あぁ、だめだ。
いつのまに、こんなに好きになってしまって、ほんとにどうしよう。

「あの店にしようか。どんな靴にする?」

彼の、独特な歩き方と対照的なぴんとまっすぐ伸びた背中を追いかけて、私が言う。

「うんとハイヒールの靴、買ってください。背が高くなるやつ」
「いい覚悟だ」

にやりと笑うクラッカーさんに、私もぎこちなく頬笑み返す。


(やっぱり、
しばらくはハイヒールで出勤しようかな?)


せっかく買ってもらえることになったのだし。
それを履いて、クラッカーさんに私からキスすることができたら、いいな。

お店の前で私を待つクラッカーさんのもとへ急ぎながら、耳に触れる呼吸を、クラッカーさんの微かな甘い匂いを思い浮かべて、息を止める。

あれが彼の単なる気まぐれだったとしてもいい。抱きしめてくれたら、何もかも捨てて、あの背中に腕を回すことができるだろう。


「ナマエ、早く来いよ」

抱き寄せて、キスしてくれたら。
それだけで、ぜんぶ忘れて飛び込んでいける。





触れ合える距離