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「ナマエは、カタクリの兄貴と……」

そこで唇を閉ざして、クラッカーさんは私を見る。紫がかった桃色の、清潔な瞳。

彼の質問の意味を理解して、私はうつむく。
グラスを取る手が微かに震えたのは、クラッカーさんの容貌にドキリとしたせいなのを否めない。

「私とカタクリさんは……」
「……」
「……お友だちです」
「…オトモダチねぇ」

先に否定して、グラスを傾ける。
さっきまでカタクリさんは、私のとなりでお酒を飲みながら、丁寧なフォークさばきでドーナツを食べていた。(この国の人たちって、表では手を使わないよな…)
凛とした表情、行儀のよい微笑、クラッカーさんや私と談笑しながら……そんな姿を思い浮かべる。

クラッカーさんは静かに「そうかよ」と言った。

「ペロスペローさんは、私を彼女だと思ってるみたいなんですけどね」
「俺もそうかと思っていたがな」
「全然そんな雰囲気じゃなかったでしょ?」
「まあな。だがお前が兄貴にとって、大切な存在だってことは間違いねぇだろうな」

ふさふさしたラナンキュラスの花瓶ごしに、私はクラッカーさんを見た。クラッカーさんは目を伏せて、ナプキンで指を拭っている。案外、几帳面なんだよなあ、この人。

カタクリさんの大切な存在。
そう言われて、カタクリさんの周りにいる何人かの顔が脳裏をよぎった。カタクリさんには大切な人がたくさんいる。長男のペロスペローさんとか、ダイフクさん、オーブンさん、ブリュレとか、ママとか……その中に私自身も入っているようにクラッカーさんが見えたなら、すごく嬉しいような、照れ臭いような気持ちになった。

「教えろ」
「はい?」
「なぜお前のような庶民の女が、兄貴と?」
「ああ……それは」

プリンに救われた事からはじまり、
幹部の人たちと繋いでもらったことや、それにより、カタクリさんと自然と顔見知りになった経緯を、私はぺらぺら喋った。そのためには、あまり人に話したことのない部分も話さなければならなかったが、舌はよく回った。
……お酒のせいだ。
……お酒を飲みすぎてしまった。

「なるほどな」
「聞いてました?」
「ああ。なんでお前がスイートシティに居座ってんのかもなんとなく理解した」

クラッカーさんは静かに肯き、遠い目をしている。

「よくわかった。」
「いえ……」

くら、として、私は目を閉じた。
目を開けて、何度かまばたきを繰り返す。

「酔ったか?歩けんのか?」
「…………はい」
「すこし休んでから行こう」

立ち上がるときよろけて、私の頭はクラッカーさんの肩にぶつかった。
その肩は硬くて、岩のようだった。……熱くて、それに、重くて、……


ふしぎな夢を見た。
クラッカーさんの肩を借りて、裏手の通路を歩いている。ぐるぐると渦巻く視界。場面が飛び飛びになる。ビスケットの香ばしい匂いと、いちごジャムの甘いの香り。

私をベッドに載せて、
クラッカーさんは私にのしかかる。


“好きだ”


低い声でささやいた唇が私の顎にそうっと触れた。それは苦しくて痛みを伴うけれど、心地よくて──


「目が覚めたか」

目を開けると私はベッドに寝ていた。

「よく眠っていたな。シャワーを浴びてこいよ」
「……」

顔を触ると、べたっと脂浮きした感触がした。
目の周りはごわごわしている。化粧をしたまま眠ったらしい。ベッドから下りると、自分がバスローブを着ていることに気が付いた。

クラッカーさんはソファに座って、世界経済新聞を開いている。クラッカーさんサイズのバスローブを羽織ったその素肌は、薄く水分を纏っている。髪もまだ湿っているのを見ると、彼もシャワーを浴びたところらしい。

改めて見ると、凄い筋肉質だな、と場違いなことを考えてから、私はとぼとぼと浴室に入った。アメニティのブランド名をみると、たいそう立派なホテルなのだろう。

自然光のような柔らかい光に全身が目覚めていく。顔を洗いながら、そういえばゆうべお酒を飲んだお店がホテル街だったことを思い出す。そのまま、部屋を取って、それで……なんという失態だろう。

どんな顔をしてクラッカーさんを見ればいいのかわからない。それにこんなこと、カタクリさんに知られたくない。
重いため息を吐いて、熱いお湯を頭から浴びた。浴室から出るに出れない気分。

髪を乾かして鏡ごしに化粧を擦り込ませながら、だんだん冷静になることができた。
なぜかバスローブを着ていたけれど……とはいえ、何もなかったのかもしれない。同じ部屋に泊まっただけのこと。酔っていたとはいえ、そこまで私も無防備ではないだろう。
とにかく確認しなければ。

意を決して浴室を出ると、クラッカーさんがマントを羽織ている姿が見えた。すこし焼けている重厚な胸筋と腹筋が、開いたマントの間から屈強な姿を覗かせていて、そのまま振り返る。
絹のような朝陽を浴びて、頑なな唇にやわらかさを浮かべた。

「二日酔いは……大丈夫そうだ」

よかったな、って。

手の甲の筋張った皮膚で、私の頬をつと撫でる。呆然としながら彼を見上げると、無機質ないつもの無表情が、光の具合か笑っているように見えた。見たこともない顔だ。

この人、いつも仏頂面だし……女の人にはどうなるんだろうと、思ったことがある……優しい顔もできるのだ。
私が見ることになるとは思わなかったけど。

腕が伸びてきて、そうっと石鹸の香りに抱き寄せられる。冷や汗がにじみ出る。
ああこれは確認するまでもない、と考えていた。