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「そういえば先日」

カタクリさんが出し抜けに言う。

「あのあと、もう一軒寄ったんだろう」

本日の幹部会を終えて、カタクリさんがペロスペローさんの席で世界経済新聞を眺めながら言う。その姿が、“先日”の朝の光景と重なって途端に気まずくなった。

「楽しかったか」

先日。
あの日のことを思い浮かべて、私は体を硬くする。言われるまでもなく、そのことはずっと頭の中で蘇っていて、不思議なくらい囚われていた。

「なんだ、カタクリ。ナマエとそういう仲なのかよ」

ソファに座っていたダイフクさんが、頭だけグイっと反らせて、カタクリさんに投げかける。ダイフクさんの目の前に新しい紅茶を置いて、私もダイフクさんの向かい側に腰を下ろした。

「お前ら、ちゃっかりしてんな」
「……飯くらい行く。深い意味はねェ」
「メシくらいねぇ……熱っつ!ナマエ、熱湯入れたなこの野郎」
「あ、ごめんなさい!ぼーっとしてました」
「わざとだろうがよ。……さてと、俺はお邪魔みたいだから島に戻るぜ」
「はい、ご苦労様でした」

ダイフクさんは気だるげに部屋を出て行った。
新聞を机の脇に寄せて、カタクリさんが新たに届いたであろう手配書を手に取った。少し黙って何枚かの手配書を読みふけっていたが、納得がいったのか顔を上げて、私を一瞥した。

カタクリさんは、私がクラッカーさんとあんなことになったとは、露とも知らぬだろうし、微塵も疑いはしまい。
ちくりと胸を刺す痛みは、罪悪感というものだ。カタクリさんに対して罪の意識を感じる理由などまるでない、けれど。
カタクリさんにだけは、知られたくない。

「はい。楽しかったですよ」
「そうか。馬があってよかった」

カタクリさんは、目を細めて微かに笑う。

「また近々、三人で行くか」
「はい……」
「そういえばそろそろクラッカーが来る頃なんだがな……」

柱時計をちらと見て、カタクリさんが言う。
私は来賓用のソファから立ち上がった。

「そうなんですか?私そろそろ行かなくちゃ。クラッカーさんに宜しくお伝えください」
「なんだ。もう行くのか」
「はい。今日ちょっと外せない用事があって」
「そうか、気をつけて帰れ」
「はい。ではまた」

ぺこりとお辞儀してから、幹部室を出て、使用人の方々に会釈しながら城を出る。すこしわざとらしかったかと思ったが、クラッカーさんが来るとわかっている場所でぐずぐずしていられなかった。
会わずに済むならそれに越したことはない。


あのあと。
ホテルを出てから、彼は私をここまで送ってくれた。

“また連絡する”と言い添えた横顔はもう、いつもの無機質なクラッカーさんに戻っていたけれど、城の前で離された私の手を握った指が、前の関係と一線を画していた。

クラッカーさんか。
会ってどういう顔をすればいいのかわからない。だってどういう人なのかよく知らないし。

(でもあの人は私のことをよく知っているみたいだった)

胸がざわざわする。
会いたくないし、あんなこと忘れてしまいたいけれど、いつまでもこうしているわけには行かないということも理解している。


その晩、電伝虫が鳴った。

「はい。ナマエです」
『俺だ』

電話の向こうで、外の音がしている。
ガヤガヤと人の声も聞こえてくる。
周りからジロジロと見られながら、堂々と歩いている彼の姿を思い描いた。

「クラッカーさん」
『いま大丈夫だったか』
「……どうしたんですか?」
『会いてえなァーって』

喉の奥から絞り出された、彼の乾いた声が、私の体の中に入ってくる。私はそれまで、自室で映像電伝虫でウタのライブを見ながら、爪の手入れをしていた。そうしながら、そろそろ彼からの連絡が来るのではないかと、無意識に着信を待っていたのだ。

「……」

どう答えればいいのかわからず口をつぐむと、クラッカーさんも黙っていた。
この人は、よく沈黙する。沈黙において流れる気まずい空気に、彼は頓着しない。きっと慣れきっているのだ。それともそんなことに落ち着かなくなる私が子どもなのか。

「夜も遅いので、少しなら……」
『よかった。お前の家まで向かう。プリンの屋敷のそばなんだろう?』
「はい。饅頭屋の裏手です」
『わかった。じゃあまたあとでな』

二十分ほどして、クラッカーさんがやってきた。部屋にあげようか迷いあぐねたが、しかし今回は酔っていないので滅多なことにはならないだろう。

彼は視線を動かさずまっすぐにリビングに来て、ソファに座った。辺りを見渡すことなく、部屋の様子を探ることなく、じっとしているのが印象的だった。

「すみません、なんにもなくて。紅茶でいいですか?」
「ああ……」

電話のときは、恐ることなどないと勇気が漲っていたけれど、キッチンに立ち、横目でクラッカーさんを伺いながら彼のために紅茶を用意していると、不意に不安になってくる。

クラッカーさんは寸分の隙もなかった。いつもの恰好をきっちり決め込んで、髪を整えた端正な顔立ち。彼特有の雰囲気に、普通ではない近寄りがたさを感じる。

そんな人が私の家のソファに座っているなんて、変な話だ。彼は鋲を打った王様の椅子にでも座っているべきだった。

「どうぞ」

申し訳程度にコースターを用意して、スイートシティから拝借した(勝手に持ってきた)紅茶を出す。彼はチラともそれを見ず、まっすぐ背筋を伸ばして、前方を向いたまま暗い顔をしていた。数秒を置いて、赤みがかった目と黒い瞳のコントラストがはっきりしたその眼差しを、ゆっくり私に向ける。どきりとした。

「久しぶりだな」
「はい。ほんとに……」
「……」

ころりと、彼の喉仏が動くのが見えた。

「後悔してるのか」
「……」

なにが、
なんて訊くまでもない。私は何も言えず黙り込んだ。

「あれから避けてるだろう」
「……」
「カタクリの兄貴が心配していた。具合でも悪いんじゃねぇかと」

カタクリさんの名前が出てきて、私は息を飲んだ。クラッカーさんは無機質な眼差しを私に向けたまま、微かに眉根を寄せる。

「やっぱりな。兄貴が好きなのか」
「……」

違う、と言いたかったけれど、
声が胸の下で突っかかって出てこない。
一度深呼吸してから、首を横に振った。

カタクリさんを好きなんてそんなわけない。
そういう目で見るのは失礼に思えるほど世話になっているのに。
……昔は好きだったけれど。
尊敬の上塗りでかき消したのだ。

「お前のような女が、兄貴の傍にいるのは都合が悪い」

クラッカーさんの言葉に、私は顔を上げる。
電灯を上から浴びた彼は、人形のようだった。
高い鼻梁の影が、薄い唇に達している。黒い影の下で瞬きするその瞳は、やはり無表情だった。

「だから俺が面倒を見ようと思ったんだがな。兄貴の代わりに……」

クラッカーさんの鼻腔から、ふう、とため息が漏れた。

「カタクリさんの代わりに……?」

私が呆然としているのを見てとったらしい。
こめかみに怒りとも困惑ともつかない感情が湧いてくる。もしこれが戦いの予兆なら、形勢はクラッカーさんに傾いている。私は混乱していた。

「ああ。娼婦ならともあれ、庶民の、しかも妹の恩恵を受けているお前が本部をうろつくのは困る。もし戦争となったら、兄貴はお前を身を挺して守るだろうからな」
「……」
「もちろんそれだけが理由じゃねぇが……」

それだけは独り言のようにつぶやいて、彼は目を伏せた。

「だから俺が代わりに、と思ってな。お前は兄貴にとっても、妹の上客でもあるなら、俺が代わりに買う。幸い女はいくらあっても不都合じゃねェ」

何を言っているのか、わからない。
ただこの人はカタクリさんとは全く違う人種なのだと思った。ペロスペローさんとも、ダイフクさんやオーブンさんとも……私の知っている優しい人たちとは全然違う。
私は、こんな人と寝てしまったのだ。

青ざめて、赤くなる私を、クラッカーさんは真面目に見つめている。その姿はこんなときでも洗練されている。まるで、人間の情というものがないような人だ。冷酷で、声も冷たくて、微笑を浮かべて。……こんなことを言うなんて。

「じゃあクラッカーさんは、私をカタクリさんから引き離すためだけに、私に優しくしてくれたんですか?あんなに、一緒にお酒飲んで……あんなに親切にしてくれたのは……」
「………」

つぎに見たら、彼はとても穏やかな顔をしていた。静けさを思わせる深い眼差しが、私ではなくて、別のところに向けられている気がする。

はじめからこの人は、私のことなんか見ていなかった。思い起こせば、いつもこんな目をしていたではないか。

「そうだな」

かすれたクラッカーさんの声を認識したとき、私の胸は張り裂けそうになった。

苦しくて、息が詰まる。
水もなしにパンを飲み込んだみたいに、大きな塊が喉につっかえている。

あの夜、夢なのか現実なのか定かではない、私に伸し掛る重みと熱さと──“好きだ”という声を──私は愚かにも信じていた。
それが心の拠り所になっていたことをいまになって思い知る。

クラッカーさんが、私を好きなはずがなかった。恥ずかしくて消えてしまいたい。

あの夜の出来事を、なぜこんなことになってしまったのだろうと思ったけれど、後悔なんて、していなかったのに。

ひゅうと口から空気がかすれる音がした。
もうすこしで泣き出してしまいそうだった。

「帰ってください。クラッカーさんのお世話にはなりません」
「それじゃあ困るんだよ。あんたのことで、兄貴の気を煩わせたくねぇしな」
「それは私とカタクリさんの問題です。クラッカーさんに関係ありません」
「……あの晩のことを、カタクリの兄貴に知られたくはないだろう?」

クラッカーさんは呻くように言う。

「兄貴に教えてやろうか。お前がどんなにいい女だったか」

弾かれたように私は駆け寄って、クラッカーさんの頬に手を振り上げた。皮膚の張り詰めた横っ面を引っぱたくつもりが、長袖の裾でかすめたに過ぎなかった。

痛くも痒くもなかっただろう。
私の手首を掴んでねじり上げ、クラッカーさんはクククと低音で笑う。

それは嘲笑だった。
ずっと笑っているのではないかと思うくらい彼は笑っていた。私を片手で締め上げながら笑っているのだ。けれどゆっくりと声を収めて、やがて、静かになった。

わけがわからなくて、気が狂いそうだ。
ねじられたままの腕が痛い。

「痛い、離して!……大っ嫌い!」

我ながら情けない声だ。
泣きべそをかきそうな私を、高いところにある双眸が見下ろす。こんな状況でも、揃った短い睫毛の影や、切り込んだような目蓋の薄い皮膚が、作り物のように端正だった。眉間のあたりに下りた翳りが、彼の視線に威圧感を添えている。

「お前は不法入国者で、運良く兄貴たちの庇護があるからこそ、こうしてまっとうに万国でも生きていられるがな」

薄い唇のむこうで、白い綺麗な歯と、舌が覗いている。その唇が、「そうでなければ今頃は……」と囁いて笑うのが見えた。

「何が言いたいんですか?」
「俺が守ってやるって言ってるんだよ。なぜ俺じゃあいけないんだ?強くて、金もある。同じだろうが」
「カタクリさんはそんなことしません。見守ってくれているけど、あの人は私を受け入れてくれたんです。お金をくれるような人は、私には必要ありません」

ねじり上げている手が緩んだのを感じ、私は力任せに振りほどいた。クラッカーさんは静かに私を見下ろしている。腕の付け根がじんじんしている。

「帰ってください。あなたなんかを少しでも信じていた私が馬鹿でした。二度と会いたくもありません」

かなり感情的な物言いになってしまいみっともないが、止められない。怒りで全身が赤く染まっているのに、頭の中の肝心なところは冴えわたり、クラッカーさんの一挙一動をつぶさに観察している。
……少しでも信じていた私が馬鹿だった。
……少しでも惹かれていたなんて許せない。

「……ナマエ」

いつのまにか、涙が、堰を切って溢れ出した。
顔をくしゃくしゃにしてクラッカーさんを睨む私を、まばたきの少ない瞳で彼は見つめる。

「夜遅くに邪魔したな。……望み通り、もう行くから泣くな」

眉を寄せて、無表情な顔にわずかに変化を加えて、彼は言う。その表情は形容し難いが、まるで傷ついたような、困ったような、そういう感じがした。

数秒間だけ、私の反応を待っていたけれど、私が黙り込んでいるのを見て、彼はそっと立ち上がり、一歩踏み込んだ。
私になにかするのではないかとびくりとしたが、彼はそのまま私を通り過ぎて、玄関まで歩いて行ってドアノブに手をかける。

「……──かった」

電気のつかない暗い玄関に、その物憂げな声が、小さく落ちていく。

「え?……」

うまく聞き取れなくて、顔を上げる。
彼の横顔は闇の中に半分溶け込んでいて、口元しか見えない。

もう一言、なにか口の中に含ませていたようだったが、唇を噛んで飲み込まれた。口角に引き結ばれた影が刻まれる。
彼はそれ以上何も言わず、扉を押し開けて、出て行った。

クラッカーさんの最後にこぼした言葉を反芻する。

 ……──わるかった

「……なんなの、あの人……」

こわい。
たったひとつの謝罪ですべて許せてしまいそうで、途方に暮れる。


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