「好きな女、いるぜ」

パンパンと手を叩いてビスケットを出して、それを口に運びながら、クラッカーさんはそう言った。

生まれたときからシャーロット家と称えられ、大人になったら3将星と崇められ、その名声は日を追うごとに大きく熱狂的になっていく。
それでも本人は、今日までずっと、矯正されずマイペースなままで、周囲の期待に軽々と応え、涼しい顔をしている。きっとこれからもそうなのだろう。

そんなクラッカーさんが、
好きな子がいる、と言う。

「万国のひと?クラッカーさん、もうすぐ遠征だよね?外で会えるひと?」
「いんや、年下」
「え、年下?どこで知り合ったの?」
「……はて、覚えてねーなぁ」
「なにそれ?あ、わかった、ウタでしょ?」
「ハッハッハ」

手を叩くとビスケットが出て来るなんて、本当におとぎ話の世界みたい。なんだか、ビスケットが飛び出すスピードと同じようなリズミカルなテンポで話もはぐらかされている気がする。

「ナマエは浮いた話ねーのかよ」
「私は…ない。忙しくてそれどころじゃないし」
「ふーん、」

クラッカーさん、笑ってるのかな、と思いきや、まったくの無表情で、遠いところを見つめていた。

実のところ、
浮いた話というのが、ないわけではなかった。

好きなひとがいて、つい先日、その想いが実になったのだ。けれど、相手は忙しい身で、なんだかうまくいってなかったし、思い出すと泣きそうだから、そんなことを恋仲の相手の兄弟である、クラッカーさんに話すつもりはなかったのだ。

だから、うそをついた。

それで、クラッカーさんの横顔にぎくりとした。なんとなく、うそをついたのがバレている気がしたから。










2年ほど経過して、そのうそを暴くことになった。

麦わら海賊団の船長に敗北したクラッカーさんが、長い間遠征に行っていて、ようやく戻って来たとの知らせが入ったのは、今朝のこと。

失恋して、部屋で丸くなっている私のところに、そのクラッカーさんが訪ねてきたのだ。
玄関の扉を開けると、クラッカーさんの肩越しの景色に、いつのまにか日が暮れたことを知った。

春の終わりの雨が、窓硝子に水玉模様を描いていたが、やがて雨脚は強まり、透明な薄い水の壁となっていた。風が、ばさばさと吹いて、屋根を叩く雨音が、とんとんとん、だの、タタタタタ、だのと、小うるさく鳴り響いていた。

「……“彼氏”か。」

クラッカーさんは断りなく部屋に上がってくる。電気を付けられたくないな、ひどい顔をしているから、という私の思いが通じたのか、彼は、電気のスイッチに手を伸ばして、しかし、押さなかった。

「……わかる?」
「そんくらいしか思いつかねーだろ」
「うん……」
「別れたのか?」
「うん」
「ずっと、付き合ってたんだろ」
「うん、まあね」

クラッカーさんは、電気を付けない代わりに、窓のカーテンをしゃっと開け放った。水が、いくつもぽたぽたと軒先から落ちている。のたうったような筋をつくって、窓硝子に落ちていく雫もあった。遠く、街の光がちらちらと瞬いている。

雨雲に隠れて、とっぷりと闇が濃いけれど、ずっとこの環境でまばたきをしていたから、夜目が利いている。

クラッカーさんは、見えているのか見えていないのかわからない。窓の外を、遠い目で眺めている。あのときの横顔を思い出して、私は、あ、と思った。

「……きょうはどうしたの?なんか用?」
「近くに寄っただけだ。プリンが、顔見せに行けってよ」
「そっか、近いもんね、船だとすぐだよね」
「だろ」
「クラッカーさん、また背ぇ伸びたねぇ……」
「ナマエは縮んだよーに見える」

眉間のあたりを歪めて、クラッカーさんは苦笑いする。
出会ったときからすでに、一族のなかでも背は高かったけど、更に高く感じたのは、久しぶりの再会だったからなのだろうか。

相変わらずの恰好に、クラッカーさんの筋肉の質量が伝わってくる。
逞しいその姿が、私とは大違いで、まぶしかった。暗闇の中でも。

「大丈夫か?」

低く響いたその声、思いやるように静かだけど、ためらいがない。
私は、小さく肯いた。

アンティークのチェアに、クラッカーさんは腰を下ろす。椅子の脇に掛けた手が、大きくて、すごいなぁって。

クラッカーさんなら、きっと私のようなあやまちは犯さない。私のような悩みは抱かない。もし失恋しても正面から受け入れて淡々と感情の処理をするだろう。そもそも、失恋なんて無縁なのだ。この国のスーパースターなのにマイペースなんて、そんなの、きっとみんな夢中になる。姿も、とてもきれいだし。
ほんとうに、私とは大違いだ。

「クラッカーさんの彼女って、幸せだろうね……」
「……んん?」
「クラッカーさんて、軽そうだけど優しいし、すごく大切にしてあげそうだもん」
「軽そうは余計だろ」
「ごめん」

小さく笑ったつもりが、掠れたため息にしかならなかった。

私は、大好きな人を失ってしまった。
あの人はもう私を見ないし、私のいない方角にまっすぐ進んでいく。私がこうして床に座りこんでいるあいだに、あの人の中で私は思い出になっていく。
ふたりの人生が交差することはもうない。

それぞれ、他人同士になった。
島内で鉢合わせることがあっても、きっと今後は他人行儀に会釈するだけなのだろう。あんなに抱きしめあって、体温も、匂いも覚えているのに、この体にしみついているというのに、世界で一番遠くなってしまったのだ。

あのとき、追い掛ければよかったのかな。
疑ったりしなければよかった。
もっと素直に気持ちを伝えていれば。

ずっと一緒にいたかった。
感情をぶつけて罵りあったこともあった。
幸せなだけの関係ではなかったけれど、それでもよかった。
もっと、ずっとずっと一緒にいたかった。

煩悶しているあいだに、私はうつむいていて、私のとなりにクラッカーさんが腰を下ろしていた。

ふたりで、部屋の隅っこの床に座りこんで、かたや落ち込み、もうひとりは天井を眺めている。なんだろう、この状況、と思えるくらいには自分は元気なのだなと認識する。クラッカーさんはいつの間に私の隣に来たのだろう。雨による湿気のせいか、ほのかなビスケットの匂いと熱い肌の気配がする。

悲しみや後悔は、まるで幽霊のように片時も休みなく寄り添っている。私の思考に取りついて、私を泣かせようとしたり、自己嫌悪に陥らせたりしてくる。

だけど、クラッカーさんはそうではなかった。
なんだか、隣にいてくれると、ひどく落ち着くような作用をもたらした。彼が、私を心配してくれているのが、とても伝わってきた。黙って、並んで座っているだけなのに。

「……訊いてもいいか」

低くなめらかな声が、そっと響いてくる。
私は鼻をすすりながら顔を上げた。

「……なに?」
「そいつ、………どんなやつだった?」

クラッカーさんは、床に置いていた新聞で顔を扇いでいる。ぱたぱたと空気が揺れて、クラッカーさんのマントの襟から、ビスケットではない、なにか、いい匂いがした。

「優しかったよ。すごい大切にしてくれた」
「そうか」
「そういえばクラッカーさんは?まえに好きな子いるって言ってたよね、どうなったの?」
「どーだろうな」

クラッカーさんは、ゆっくり私に視線を向ける。雨粒に宿った光が、クラッカーさんの桃色の瞳を照らしている。長い睫毛、微かに細められたまなこ。

いつも口角をあげているクラッカーさんが、ただ無表情で私を見たというだけで、さわ、と肌を撫でた気がした。

「……ごめん」
「あ?…なにがだ?」
「クラッカーさん、もう友達って感じじゃないし、訊いちゃ悪かったかなって」
「あー、んー……まあ、ダチじゃねーけど、いや、ダチなのか……」
「え?」
「本当にわからねーのか?」

私が、まばたきをしているのを、クラッカーさんは黙って見つめていた。
その暗く聡い瞳は、一瞬逡巡して、私から離れていった。

「……クラッカーさん」
「あー……腹減ったなぁ。」
「え。あ、お腹?夕飯まだ?」
「や、兄貴たちと食ってきた。でも腹は減る」
「さすがスイート3将星」

いつもどおり、クラッカーさんは表情をやわらげている。
さっき一瞬、たしかに、ひどく鋭かったけれど。おかげで自分が落ち込んでいたこと、束の間忘れてしまうほどに。

クラッカーさんは元々ミステリアスな人だけど、表情一つでがらりと空気まで変えてしまう。出会ったころからムードメーカーだったのだ。

「なにか作ろうか?」
「きょうは遠慮しとく、さすがにな」
「そう?気遣わなくていいのに」
「じゃあ、つぎに期待しとく」
「うん、いいよ。ホットケーキくらいしか作れないけど」
「はっ?ウソだろ?」
「アハハ。」
「ホットケーキ、フツーに嬉しいけどな」

クラッカーさんの声、ふっと笑って、ふわっと耳に残っていく。心地いい、きれいな声。
それを聴いていたら、ここまで気を遣わせてちゃいけないなぁ、とゆっくりと思った。

クラッカーさんが帰れば、私はきっとまたぐずぐず落ち込んでしまうだろう。付き合っていた彼は、もう二度と私のもとには戻らない。その事実を受け入れ、飲みこみ、過去のことだと流せるようになるには、時間が必要だ。

だけどもう自分を責めたり、いじけたりしない。………多分。
少なくともクラッカーさんが隣にいてくれるうちは、そう思った。
















「おねーさん、お茶しないか?」

スイートシティの城を出て、夜の暗やみの中を横切ろうとしたとき、うしろから声を掛けられた。振り返ると、クラッカーさんが立っていた。いたずらっぽく笑った口元から、白い呼気が洩れた。

「……クラッカーさんじゃん。ちょっとびっくりした」
「きれいなおねーさんだと思ったら、ナマエだっただけだ」
「えぇ?なにそれ」
「ってのは冗談だが、ここで待ってたら会えるかなと思ってな」
「もう……連絡くれればいいじゃん」
「急に思い立った。ナマエ、お茶しようぜ」
「うん、じゃーいつものカフェでいい?」
「いいな。そりゃ最高だ」
「大げさだなぁ」
「ふっ。」

クラッカーさんは笑っている。
わたしも笑っている。

失恋してから、半年がたった。
時間薬というけれど、効果はてきめんで、私はもうすっきりとしていた。
思い出すと胸が痛むけれど、未練ではなく、昔の自分が可哀相になるから。

あのときは、もう一生恋愛はできないと思ったけど、だんだんコントロールが利くようになり、光を見ては眩しいと思い、夜はよく眠り、欲しい服を買ったりするようになった。

失恋をする以前の人間に戻ったのではない。
感情は、以前よりも瑞々しく敏感になった。

心の傷が完全にふさがったわけではない。
それは機微となり、その翳りが、共感力や表現力などに長じていくのだろう。
あんなに悲しかったけれど、立ち直ったいまとなってはいい経験になったと思う。
“元カレ”に幸せになってほしいと心から思えるのは、きっと自分がいま幸せだからなのだ。

クラッカーさんは、あれ以来、ときおり様子を見に来てくれるようになった。
こんなふうに、なんだかすこし寂しい気がするとき、ふらっと現れる。

ふしぎなほどぴったりと、会いたいときに来てくれる。出会った頃から、空気や状況をよく読む人だった。飄々としているから、読んでいることを匂わさないけれど。

会って、ご飯を食べたり、ただぶらぶら散歩したり、ピアノを弾いてくれと頼まれたり──そして弾き終わると、彼は決まってウトウトしていて。その寝顔だけは、幼くて、いつまでも眺めていたくなった。

「そんな薄着で寒くないの。風邪ひくよ?」
「なんとかは風邪ひかねーっていうだろ。大丈夫だ」
「……ほら、これ巻いて」

巻いていたマフラーを取って、彼の首に巻く。
クラッカーさんは嬉しそうに目を細める。

「ああ、サンキュウ。」

そう肯いて、長い指が、私の手を握った。

「……あったけぇな。」

クラッカーさんの掠れた囁きが、白く浮かんで消えていく。
繋いだ手も、クラッカーさんの存在感も、自分の頬も胸も、ぜんぶあたたかい。

今夜こそちゃんと、自分の気持ちを伝えよう。

クラッカーさんのぬくもりが嬉しくて、そっと幸せを噛みしめていた。





今日から記念日