カタクリさん。
３将星、シャーロット・カタクリさん。

その名前を脳内で、ひっそりと呟いてみて、その響きに思わずうっとりと瞳を細める。

ストールに隠されたその唇は、いつも固く結ばれて、けれどふと笑ったその顔が、普段の威厳のある顔からは想像もつかないくらい酷く優しくて。

伏せられた瞳から覗く睫毛の根元と押し上げられた頬骨を見るたびに、私はまるでお酒にでも酔ったかのように顔がほてってしまうのだ。

なんて素敵な人だろう。
初めて会った時から、私はカタクリさんのことが好きだった。

「ナマエ」

──だからこそ。
…………、私は彼の事が苦手だ。

彼は何の戦力も持たない私のことを、あまり良く思っていないみたいだった。
彼以外にも、私がカタクリさんと接触を持つことに嫌悪を抱いている人は勿論、他にもいるだろうけれど、彼はそれをはっきりとした態度で見せつけてくる。

きっと、私と同じくらいに、彼はカタクリさんのことを尊敬しているのだと思う。
なんとなく、私に対する不躾な態度からそれが感じられて、私はそれにもやもやとした釈然としない気持ちを抱いていた。

「……ナマエ」

……けれども。
彼は私のことをあまり良く思っていないに違いないのに。

──ナマエ。

彼は「兄貴」と呼ぶ声と、同じその無機質な熱を持たない淡々とした声で、私のことを下の名前で呼ぶ。

彼の側近も、同じ幹部の人間も、皆、私のことを名前で呼ばないのに。その事実に、私は首を傾げる傍らで、それを指摘するべきか否かの判断に迫られる。そしてそのたびに、何とも言えない気持ちに陥る。

……。
……だって「カタクリさん」は、私のことを名前で呼んでくれないのに。どうして彼は、クラッカーさんは……、私のことを名前で呼ぶんだろうって。

気恥ずかしい事ながら、カタクリさんとは時々二人きりで食事をすることがある。
それは私からのお誘いだったり、カタクリさんからのお誘いだったり、ほんとうにどちらからともなくといったものだったのだけれど。

私から誘えば真摯に応対してくれるし、かといってこちらから誘われてばかりはカタクリさんの性に合わないのか、私を気遣うように誘い返してくれたり、はたまた何の突拍子もなしにいいお店を知ったと紹介がてら誘ってくれることもあった。

どんな形であれ、カタクリさんと二人きりなのだから、私は誘う時は勿論だけれど、いつだってどきどきしっぱなしだった。
誘われたときは、その倍……

だから今日も、突然だったけれど、嬉しくて仕方が無かった。仕事中に訪れた、電伝虫の着信を告げる無異質なプルプル音。

“「良かったら夕飯でも。一緒に行かないか」”

──そんな短い会話を思わず、脳内保護してしまうくらいには、私は彼に溺れているのだ。

……でも。

そんな私だって、ただ浮立っていたわけじゃない。
カタクリさんが任務で忙しいことは、十分に理解していた。少しでもカタクリさんとお話出来る時間を増やしたくて、絶対に待ち合わせに遅れてくるなんてことは無かったし、カタクリさんが遅れてきても、それは仕方のないことだと割り切っていた。

未熟な私がどれだけ頑張ったって、そこに足を踏み入れられる訳じゃないから。

『海賊』という世界を、丸ごと理解することは、きっと一生出来ないのだろうけれど、カタクリさんを理解することなら、きっと──。

尽くしているという気概は、これっぽっちも無かったけれど、ただ静観するには、一方的にカタクリさんから色々なものを「貰ってしまっている」と私自身が感じている以上、そうやって小さなことでお返ししていっている“つもり”になることくらいしか、今の私には出来なかったから。

だからこうやって、カタクリさんが度々私を連れて行ってくれることが嬉しかった。
そんな小さなお返しでも、カタクリさんはいつだって「気を遣うな」と、あの優しい微笑みを見せてくれるから。

夜のスイートシティは、ネオン街と呼ぶにふさわしいほどにキラキラとその身を光らせて、通り過ぎていく人達の個性も相まっていつも以上に活気あふれていた。

「ちょっと早く着きすぎちゃったかな……」

カタクリさんとの待ち合わせは、いつもスイートシティの城の前だった。
この時間帯の城前は人通りは少ないし、待ち合わせには絶好の場所だった。

待ち合わせは、夜の八時だったけれど、時計の針はまだ七時を迎えた辺りで──常でさえ三十分前行動ではあるものの、それにしても今回ばかりは気が逸り過ぎてしまったかも知れない。

火照る頬を冷ますために、手のひらで扇げば、幾許か涼しくなった気持ちになる。

毎度のことながら時間を潰そうにも、もしカタクリさんが来てしまったら──そんな事を考えてしまったら、迂闊に場所を移動出来なかった。

電伝虫で何処其処に居ます、と伝えても良かったけれど、やっぱり折角待ち合わせをしているのだから、という変なこだわりが私にはあって、そうこうしている内にいつも中途半端な時間になってしまう。

とはいえ、何をするでもなく、時間は過ぎて行くもので。
適当に辺りを見渡しては時計を見て、を繰り返していればいつの間にか待ち合わせ時間がすぐそこまで迫っていたことに気付く。

もうそろそろ、カタクリさんから連絡があるだろうか、そんな事を思っていれば、今まさにといった具合に、カタクリさんの電伝虫から着信があった。どきどきしながらボタンを押せば、彼はこう告げた。

『すまない。仕事が押して予定の時間に間に合いそうにない』
「あ、そうですか…お疲れ様です」
『もし待ち合わせ場所に来てしまっているようなら悪いが、この時間、女にどこかで時間を潰してもらうわけにもいかない』
「……」
『おまえさえ良ければ、また約束の日程を改めさせてほしい』

と、彼らしい丁寧な謝罪の言葉を言われてしまったものだから

「わかりました。じゃあまた、カタクリさんのお時間が出来たら、その時はご飯でもご馳走してくださいね」

──瞬時に、それらしい控えめな言葉を選んで、意識せずとも暖かくなる心臓に微笑しながら返答する。

言って、刹那──
“すまない”の言葉を告げられ、電伝虫が切れた。
これからどうしようかと考える。

言わなかったけれど、待ち合わせ場所には既にこうして到着してしまっていた。

……カタクリさんと会える、そう思ったら逸る気持ちを抑えきれなくて、予定よりも大分早くついてしまった訳だけれど、例え断られても、それでも。待ち合わせ時間よりも前に連絡をくれるあたり、カタクリさんの優しさが窺えて私はまた彼のことが好きになる。




「“ナマエ”」

──電伝虫を見つめながら、そんな事を考えていたその時、聞き慣れたあの無機質な声が私の意識を根こそぎ奪っていく。

見なくとも分かる。この声は「彼」だ。
スイートシティの喧騒なんて無かったみたいに、マントの擦れる音、革靴の側面が軋む独特の音がやけに敏感な私の耳を掠めて、思わず振り返る事を躊躇ってしまう。

けれど、こうしている間にもきっと彼は私がどんな顔をしてそちらを向くか、あの三日月ような不器用な笑みで見つめているのだろう──そう考えたら、一刻も早くその表情を崩してやりたくて、私は呻る心臓を抑えつけながら振りむいた。

「……、クラッカーさん…………」
「……こんなところで会うとは、奇遇だな」

……振りかえった先、予想していた人物が、きっと浮かべていたであろう笑みはどこへやら、無表情のまま思っても居ないことを抑揚もつけずに淡々と放って寄こした。

「そう、ですね……。クラッカーさん、お仕事は？」

突然の邂逅に少しだけ吃喉元を誤魔化すように、特に話すこともないだろうと適当に言葉を続ければ、クラッカーさんはその仏頂面を崩すことなく私を真っすぐ睨みつける。

「今日はカタクリの兄貴との約束があったんだってな」
「……」
「でもまぁ……その様子だと兄貴は缶詰か。あんたも気の毒だな、約束を先送りにされて」

──その言葉は、私の言葉に対する返答では無かった。

クラッカーさんは、私を相も変わらず睨みながら、その口の端を少しだけ撓らせて私の言葉を待っているようだった。

……本当に、何がしたいのか、何が言いたいのかよく分からない人だ。
そんなクラッカーさんの言葉に、

「そうですね」

──本当に、それだけ。
ただそれだけを短く投げ捨てれば、クラッカーさんは何が気に食わなかったのか、眉間をきゅっと歪ませて、一変してつまらなそうな顔をしてみせる。

「そういう態度だから、断られるんじゃねぇのか」

肩を僅かに揺らして、小さく放たれた呟きは、私の視線を彼へと集めた。

「どういう意味ですか」

我ながら、反抗的な言い方になってしまったと思う。
けれどもクラッカーさんは、そんな私を歯牙にもかけずに一つ鼻で笑うと、マントの端をくしゃりと撫でつけて、私に少しだけ顔を近づけた。

彼が動くと同時に風に流れた、ビスケットのような香りが、僅かに鼻をくすぐる。

「……いや。ただナマエは兄貴の事を何も知らねぇんだな、とな」
「……」
「それでよくそうやって構えていられるもんだ……ふとそう思っただけだ」

──クラッカーさんは、いつも“こう”だ。
私の気にかけていることばかり。
私の気に障ることばかり言い放って、そのくせ、いつもどこかつまらなそうなのだ。

人の事を馬鹿にしているくせに。
それでも楽しくなさそうに顔を顰めて、その無骨な手だっていつも手持無沙汰で。クラッカーさんの顔だちは、どちらかといえば無口なイメージが感じ取れる。

綺麗な一重がぱちりと音を立てて瞬くときなんか、よりそのイメージが濃厚になって向き合う私すら口を結んでしまいそうになる。

けれどもその実は、よく回る舌だと思う。
こと、人を貶すときなんか、特に。

だって、……クラッカーさんにその気がなくとも。彼の持つ、なんたるかはそれを許さない。
きっと向き合った時すでに、こちらは負けた気持ちになってしまうのだ。

「でも……。クラッカーさんの知っていることは、きっと私が知らなくてもいいことです」

だから。
……だから、こそ。

クラッカーさんには負けちゃいけないと思う。
カタクリさんを尊敬する気持ちも、何もかも。

両の指をお腹の前で交差させながらうつむきがちに、けれどもはっきりとそう告げれば、クラッカーさんのため息のような吐息が一つ。次いで、

「そうだな」

──と。
先程の私のように小さく、何も感じさせない声が投げ放たれた。

（あ、また、つまらなそうな顔）

クラッカーさんの言葉に視線を送り返せば、彼は自然な手つきで揉み上げに中指を引っかけて、そのまま余った長さの足りない髪の毛を耳の後ろへ流していく。その動作の最中、暗がりな瞳は少しだけ逸らされたかと思えば、またこちらへ戻ってくる。

……このつまらなそうな顔は、自覚があるのだろうか。
脳裏でうっすらと考えてみて、もしかして、と私は思った。

「クラッカーさん、いま、凄くつまらなそう」

もしかして。

自分が酷く子供染みた顔をしていることに気が付いてないんじゃないかって。

「……つまらない？どうしてそう思う？」
「唇。一文字に引き結ばれて、窮屈そう。カタクリさんの話を、してるのに」
「……」

きゅっと結ばれた唇。
人中がなだらかになるくらいの小さな歪み。
ほんのすこしだけ突き出された唇は、クラッカーさんの機嫌の悪さを表しているようで、私は気になっていた。

私と会話をするときは、いつもそう。
目を合わせるときは無表情に等しいそれなのに、口を紡げば途端に目尻が上がってしまう。

クラッカーさんはきっと楽しくないんだ。
そんなこと、分かりきっていたのに。
何度見ても慣れないものだ。人間として生きている内は、いつまでも慣れないと思う。面と向かってつまらない顔をされるのは。

「クラッカーさん。私がカタクリさんとこうして会うのが気に食わないなら、私に言っても無駄です。それこそ、クラッカーさんの方がカタクリさんに詳しいというなら尚更」
「……ナマエ」
「クラッカーさんがカタクリさんのことを尊敬していらっしゃるのは、私も分かります。だからこそ私が邪魔なのも分かります。でも、なら、私には関わらない方が良いと思うんです」
「…………お前は何か勘違いをしてるようだな」
「……え？」
「俺はさっきの今まで一度も、お前と兄貴の話をした覚えはねぇぞ」
「……だって、さっき、確かに、」
「さっきも今も、俺はお前の話しかしてねぇ」

ざわざわと、スイートシティを包む喧騒が途端に大きくなった気がして、私はクラッカーさんから視線を移して、辺りを見渡したけれど、町の中でも一際辺鄙な場所。人通りどころか、私たち以外の人影すら見えなくて。私は小首を傾げたまま、クラッカーさんの右肩のマントの襟を見た。

襟から視線を上げて行けば、押し殺したようなか細い笑い声が耳を掠めて、それにつられるように視線が引き上げられていく。

引き上げた先に映り込んだ、クラッカーさんの顔が、容赦なく私の心臓を貫いていく。

──笑ってる。
それも、酷く、楽しそうに。

普段の会話だけでは分からなかったクラッカーさんの綺麗な歯並びが、惜しげもなく外気にさらされて、つやりと光るその歯にライトが反射する。口元も、その二つの瞳も、三日月の形をかたどって、そこに存在していた。

（子供みたい……）

先ほどとは、また違った意味でそう思った。
そうして、ややあってから、私は先ほどのクラッカーさんのつまらなそうな顔を思い出して、気付かれぬように身震いした。

もしかして、もしかして……と。
クラッカーさんは、つまらないからあんな仏頂面で居たんじゃないの？

私の一挙一動を見て、面白くて面白くてたまらなかったのを誤魔化すために、あんな顔を作っていたの？
……そう思ったら、無意識のうちに顔を顰めてしまう。

「俺から言わせてもらえばナマエ。あんたの方が随分とつまんねぇ顔をしている」

笑い声を堪えるようにして口元を押さえたクラッカーさんが、こちらを見遣った。

「兄貴はそういうあんたの顔も知ってるのか？」
「……カタクリさんは、関係ないじゃないですか」

自分の顔を見ることは出来ないのだから、私が今どんな顔をしているのかはクラッカーさんにしか分からない。そういう意味を込めて言葉を返せば、クラッカーさんがおざなりに考えるそぶりを見せた後、笑って言葉を投げて寄こす。

「お前がそんな調子じゃ、ナマエが兄貴の事を知らないだけでなく、兄貴もお前のことをきっとよく分かってないんだろうな」
「……そうかもしれないですけど、でも、それでも。カタクリさんはクラッカーさんよりも私のことを知っています。今はそれだけで十分です」
「……ハッ」

クラッカーさんの控えめな笑い声は、私を少しだけ不安にさせた。時折微かに香るビスケットの匂いも、光る白い歯も。

「俺が、あんたのことを好きだって言ったら？」

──心臓に悪い嘘。
クラッカーさんは相変わらず楽しそうに口元を歪めて、私の顔を見ている。

カタクリさんの話なら私が無視することも出来ないと知って、調子の良い事を言ってからかったんだと分かり、けれども、私はこのもやもやとした気持ちを晴らす方法を見つけ得ぬままクラッカーさんに向き直ってしまう。

（なんなの……この人、ほんとうに）

聞き間違いなら、それで良かった。
でも、クラッカーさんは私をはっきりと瞳に映している。

「好きだと言ったら……って事は、別に好きって事じゃないんですよね」
「どう捉えるかは、ナマエに任せるよ」
「それじゃあ……どうでもいいです。私、クラッカーさんには興味が無いので」

感じる唇の震えを抑えつけて、突っぱねるみたいに返した言葉は、クラッカーさんの肩を透かしていってしまった気がした。

その証拠に、クラッカーさんは僅かに瞳を細めて私を見つめる。その視線を浴びながら、何も掴めぬまま、ひたすら空を切るだけだった私の手のひらが脳裏に浮かんでは消えていく。

「ナマエ」

名前を呼ばれると同時に、乱雑に引っ張られた手のひら。重力に逆らうことも出来ずつんのめりになる私の身体を、クラッカーさんの片手が支えたと同時に、先ほど頭の中では何も掴むことの出来なかった手のひらに、熱が加わって初めて、手を握られたのだと気が付いた。

「……なんのつもりですか？」
「兄貴とは……。……もう手を繋いだのか？」

体勢を整えて片手の支えからは脱出したものの、思ったよりも強く握られている手のひらを、振りほどくことが出来ない。

じんわりと汗ばんでいく両の手に眉を寄せながら、クラッカーさんをキッと睨みつけた。

「クラッカーさんには、関係の無いことです」

そう、突き返せば、あっさりと解放された手に、

「……さっきから一体、なんのつもりですか」

思ったよりも大きな声が出てしまったのだけれど。それすらくっ、と零すように笑ったかと思えば、一変して表情を変えたクラッカーさんが私を見下した。

──ほら、またあの“つまらなそう”な顔。

その顔を不躾に見上げていれば、視線がかち合って直後、まるで今までのことなんて何も無かったかのように彼の口から平然と放たれた誘いに、言葉を失う。

……まさか、
私が頷くとでも思っているの？この人は。

「そうだな……ナマエ。どうせあんたも暇だろう」
「……」
「俺じゃあ兄貴の代わりにはなれねぇが、夕飯くらいならご馳走するぞ」


　“俺が、あんたのことを好きだって言ったら？”


……ありえない。
その気なんて、無いくせに。