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「カタクリさん カタクリさん カタクリさーん!!」
「聞こえている」

「安心しろ」とカタクリさんは言うけれども、
これが安心していられようか。

「ギャーア!!カタクリさーん!!!」
「うるさい奴だ」

ウボアーと呻きながら寄ってくるゾンビを躊躇なく倒していくカタクリさん。そんなカタクリさん自身も怖いけれども、少なくとも今は私を守ってくれているので彼の足にぴったりとくっ付いて離れることができない。
カタクリさんにくっ付かざるを得ないだなんて…嬉しい限りだ、とは死んでも言わない。

「今日はまずまずというところだな」
「………、もう居なくなった?」
「お前はどこまで弱虫なんだ、そんなだと嫁の貰い手もないぞ」
「カタクリさんのところにはお嫁に行かないから大丈夫」
「そうか?心配で逆に貰ってやりてェところだ」

両手で頭を覆ってかがんでいたけれども、ゾンビの呻き声が聞こえなくなったことに安心してようやく一歩カタクリさんと距離を取る。
カタクリさんが何かしょうもない冗談を言った気がするけれど、聞こえなかったことにしよう。

灰色の顔色をしたゾンビの死骸を避けて通り、廃墟と化した街並みを改めて見渡してみる。
倒れた建物、チカチカと空しく点滅する街灯、もうもうと立ち上る砂塵、なにか燃えるような臭いがまだこの状況を信じられないでいる私の感覚に情報として飛び込んでくる。

冷静に考えてみれば、膝からがっくりと力が抜けてしまいそうで私は震える手でカタクリさんの足にもつれかかる。
こんなに強い人が私の傍にいてくれると言うだけで、なんと有難いことだろう。

「おい弱虫、重てェな、ひとりで歩けないのか」
「あ、ごめんなさい」

ぱっと手を引っ込めるとカタクリさんは眉間に深く皺を寄せて私を眺めた。
「ふん」と何か言いかけようとしたけれども途中で気が変わったらしい。何も言わずに私の前をすたすたと歩きはじめる。
……、なんだろう。まあいいけど。

「拳銃をちゃんと持っておけ」
「うん、」
「弾の込め方は分かるか?引いただけだとゾンビは死なん」
「ん、」
「脇を締めて顎を引いて狙いを定めないとダメだ」
「うん、わかった。」
「本当に分かったのか、この娘は…」

カタクリさんが突然思いついたように私の拳銃を取って廃墟となったビルの看板に一発撃つ。バァン、とすごい音がして辺りに響き渡った。

「せっかくの二丁拳銃だ、せめて片方だけでも使いこなせ」
「ん」
「お前…!弾を入れてねェじゃねーか、何をやってるんだ死ぬぞ」
「入れ方わかんない、」
「たく…どんな脳みそをしてやがる、自殺願望でもあるのか」

貸してみろ、と言うので弾の箱を渡したら慣れた手つきで弾を入れ始めてくれる。その長い指の動きを見ていたら疲労感がどっしりと体に圧し掛かってきた。
意識は半分ひらひらと違う方向に漂っている。
ここはゾンビがたくさんいて、カタクリさんがいなければ私なんかとっくに餌食になっていて。いくらこの人が助けに来てくれたからといっても、気を引き締めなければならない。
あの建物の窓から襲い掛かってくるかもしれない。こうしてぼんやりしている今も、私は恰好の的になっているかもしれない。

けれども、もう半分の意識は、
まだ、地面にへたり込んでいて自分が何をすべきなのか、どういう心積もりでいればいいのかわからなくて、ぼうっとしているのだ。

ときどき振り返って、
現在と過去の街並みを比べたりする。

プリンや、ブリュレは大丈夫だろうかと、友人を心配する。島の外はどうなっているのだろうと考えもする。そうして、また、ぼうっと宙を眺めはじめる。

「…私、カタクリさんがいなかったら死んでたね」
「まあとっくにゾンビの仲間になって俺が成仏させていただろうな」
「カタクリさん、ありがとう」
「…」
「ありがとうカタクリさんって言ったの」
「…別に気にするな」

カチャン、と音を立てて長い指が最後の一発分を込める。くるりと拳銃を手の中で翻して私にグリップ部分を向けて差し出した。

「いいな?躊躇するな、相手は人間じゃない、ゾンビだ」
「うん」
「…心配だ、お前は本当に死んでしまいそうだからな」
「……ん」
「まぁ、ペロス兄がいるなら大丈夫か」
「カタクリさんは?」
「ん?」
「カタクリさんは一緒にこれないの?」

私がグリップを握って二秒ほど間をおいてから、カタクリさんが拳銃から手を離した。しっかり握った手にずっしりした重みがかかる。

「俺はまだこの中にいる」

ゲートの外には行かない、と彼は当たり前に言った。

「なんで?一緒に行こうよ、外でさ、ご飯食べてゆっくりしようよ」
「大人の世界には色々あるんだ、お前と違ってな」
「いつ出てくるの?」
「なんだ?待っていてくれるのか」
「うん」

しっかり肯いて見せるとカタクリさんは眉をひそめて少し笑って、すぐに無表情になった。

「気にしなくていい…ナマエはペロス兄たちに安全なところに連れて行ってもらえ」
「でも…」
「ゲートの外もいつゾンビが出て来るかわからねェ」
「いいよ、拳銃があるから。カタクリさんのこと待ってる、私のことを助けに来てくれたから」

だから、
カタクリさんが安全なとこにきたところを見守りたい、と妙な使命感に駆られている。

拳銃二丁をばっと構えて恰好つけて見せると、カタクリさんは微かに笑った。
風が不意に舞い込んだことでカタクリさんの首に巻かれたストールの毛先がさらっと揺れて、
あ…、なんだかこのひと、
もう会えないのかなぁと思った。

なぜだかわからないけれど。
不敵な笑みがどことなく寂しそうに見えたし、
まるで気のせいなのかも、しれない。

見たこともないほど疲れた顔をしたカタクリさんは、それでも、隙を崩さない。
そうして今まで見た中で一番、綺麗なひとだな、と思った。

「ナマエ…」

カタクリさんが三叉槍を肩に当てるよう持ち替えて、空いた手で私の顔に指を近づけて…そして、やっぱり触らなかった。
持ち上げた手を引っ込める彼のその顔に浮かんだのは、苦笑いだった。

「もっと色々とやっておいたらよかったな」
「え…、」
「お前のことをもっと可愛がっていたらよかったなと、」
「なに言ってんの、急に」

はは、と笑って、
シャレになんないからと言って、カタクリさんの高いところにある顔を見上げる。
カタクリさんはいつもの表情を崩さずに、そうだな、と眉を少し寄せた。

「過ぎた話だ…そこのゲートを開ける、少し待っていろ」
「カタクリさん、帰って来るでしょ?」

どうして、そんな顔をしているのだろう。
どうして、今になってそんなことを言うのだろう。まるでもう会えないみたいに。

「ああ、いくらでも帰ってくる」
「ほんと?」
「ああ」
「ならいいんだけど…やっぱりさ他の人に任せとこうよ、無茶したらだめだよ」
「本当に能天気な奴だな」

珍しく静かに笑った彼が、赤い色の瞳を瞬かせる。美しい顔に刻まれた疲労の影が痛々しい。高すぎる鼻筋の向こうにある瞳。いつもよりも白い頬、けれども硬く結ばれてるであろう口元だけはいつもと変わらない。

なぜこうも気にかかるのだろう、と私は思った。カタクリさん、どうしていつも、二人きりになったとたんに付き離そうとするのだろう。

今もそうだ。
まるで、私がもっと一緒にいたいと思い始めた瞬間を見計らっているかのようなほど、切ないタイミングで。

「ナマエ、元気でいろよ」

ガチャン、と重い錠を開けて後は押すだけで簡単にゲートは開く。
カタクリさんは屈んで開錠していた体を起こして、すくっと立ち上がる。背の高い彼の影が途端に私を頭上から覆う。

「カタクリさんもね」

いつのまにか、私は自分の唇が強張って、微かに震えていることに気付いた。叫びだしたい衝動に駆られる。


カタクリさん、

その端正な顔立ちに浮かべられた、いつもよりもずっと怖い笑顔が、もう見えなくなってしまいそうで。もう会えないのではないかと思ってしまって。

カタクリさん。


「わがまま言わずにペロス兄たちの言うことちゃんと聞くんだぞ」
「…カタクリさん、やっぱり一緒に来れないの?」
「なにを言ってる、いつもは近寄るだけで逃げる奴が。」
「……」
「寂しがりやだな」
「…ふざけないでよ、いま、心配してんだから!」
「ナマエに心配してもらう必要はない」

肩に掛けていた三叉槍の枝の先端部分を地面に立ててカタクリさんが私の肩を叩く。それが服の上で彼の手袋をした手で、皮膚と皮膚が接触していないにもかかわらず、私は、とても切なくなった。

人恋しい、
心が痩せ細った感じがした。
そうだ。彼の言うとおり、
私は寂しがっているのだろう。

このまま一緒にゲートを出て、安全なところでお互いの顔を見ながらお茶でもできれば…どんなにいいだろう、そうしてそのまま一緒に安全で、のどかな場所に逃げることができれば…。

しかし、それは何一つとして叶わない。
カタクリさんは、このような状況下で、真っ先に危険の中心に飛び込んで行ってしまうひとで、私は戦うすべを持たないし、安全でのどかな場所なんて存在しないのかもしれないし。

助けられて、何もできず、
足手まといになって、ペロスペローさんに保護してもらって、そして……このまま、
会えなくなったら、どうしよう。

私になにができるのだろう。
なにひとつないかもしれないけど、考えたらなにかあるのではないか。
それでもやっぱり、なにもないのだろうけど。

「ナマエ。ナマエはたまに優しくなるんだな」

真剣な顔でカタクリさんが笑う。
明らかに疲れた顔をしているのにカタクリさんはいつものカタクリさんだった。
疲労感が彼の精神に影響を及ぼすことはなかった。それなのに、どうしてこんなに、寂しくなるのか。

「さては、俺に惚れているのか」
「……、いっつも茶化すんだね」
「図星か」
「バカ!もういい、ずっとこっちにいちゃえばいいよ!」
「そうだな…それもいい、こっちには面白いもんがたくさんある」

上半身を伸ばして、カタクリさんが言う。
曇った空の下で不健康な肌がさらに青白く見えて、同じ血の通った人間とは思えなかった。

「…やっぱりだめだよ!一緒に行こうよ、カタクリさん!」

胸が震えて、
感情に任せて口を開いたら、思ったよりも弱々しい掠れた声が出た。

「それは無理だ」

低い声に顔を上げる。
瞳を見るのがこわかった。
赤い瞳が、私にはとてもこわかった。
いつもと同じなのに、なにかが違うから。

「なんで?」
「やらなきゃならねェ事が多すぎる」
「……行かないで、」

喉の奥で声が引っかかって、うまく言えないし、舌もまわらない。それでも思っていることを伝えるのは、とても勇気が必要なことだった。

「聞こえねェ」
「行かないで、お願い」

カタクリさんは意地悪。
必死の形相をした私はさぞかし面白いだろう、と思うと腹が立つけれども、素直に伝えたら聞き入れてくれるのではないかと淡い期待を抱いてしまう。そんなわけないのに。

「お前にそう言われただけで満腹だ」

さっき引っ込めた指が伸びて、
私の頬に、今度こそ触れた。

ひやりとするやわらかい革の感触。
つうっと滑って手のひらが頬をすっぽりと覆い、長い指が私の眉尻を微かに持ち上げる。

いつもなら、“お前”って言われたら腹が立つのに。心に響かない。
カタクリさんの言葉も、手の感触も、きっと、深く覚えておくことはできない。

しばらくして、いまこの状況を振り返ってみて思い出すのは、カタクリさんのこの顔なのかなぁ、と私は思った。

どうして、いまになって、そんなふうに笑うのだろう。いつもどおりの、カタクリさんの顔。
でも、彼の後ろには非日常な鉄のゲートがあって、そこを押して出て行ったら私とカタクリさんはもう会えなくなるのだと、はっきり示している。

「カタクリさん…」
「いいな?ペロス兄と合流するのを一番に考えろ、当面は避難していたら生きていられる。そこからのことはわからん…が、まぁなんとかなる」
「カタクリさん、」
「だが…お前はあまり運がなさそうだ、どこか別の島にでも身を寄せていた方だいいかもしれねェな」
「…カタクリさん…」
「まあそのへんはペロス兄たちがうまいことやってくれるだろう」
「カタクリさん」
「それからな、ゾンビ騒ぎで良からぬ事をしでかす人でなしが横行している、くれぐれも騙されないように身を引き締めろ」


──カタクリさん。


ふ、とカタクリさんが笑った。

「泣き虫……」

と一言だけつぶやいて。

いつのまにか私の目には涙が溜まっていて、
眉間にもすごく力が入っていた。まばたきをしたら、双眸から大粒の滴がぽとんぽとんと落ちた。

「カタクリさん……」
「もう行け」
「わたし……」
「愛の告白か?…敵わねぇな、」
「………わたし、」
「ナマエ」

ナマエ、と呼んだカタクリさんの顔を見上げたら、やっぱり、そこにはいつもの彼がいた。

カタクリさん。
出会ったときから、いつも同じ。
何も変わらない、超人で、家族想い
いつも気高く、冷静で強く、
完璧な人間。

でも、
いつもどこかに行ってしまう。

だから大嫌いだった。
こっちがその気になったら、必ず姿を消すから。

こっちが忘れかけたら、
またふらっと姿を見せるから。

「……、大嫌い」
「…… ああ、知っている」

でももう、今度こそ姿を見せない。
本気になってしまったのに。

カタクリさんに肩を抱かれ、そのままゲートのほうへ促される。腕の感触。嗅ぎ慣れない火薬の匂いは硝煙というべきだろうか。それから、カタクリさんの微かな甘いの匂いも、すうっと大きく吸い込んだ敏感な嗅覚に届いてくる。でも、体温は感じられなかった。

カタクリさん。
一緒に出て行ってくれたら、
どんなに、どんなに、どんなにいいだろう。

寸でのところで私は嗚咽しそうだった。
喉はひくひくと強張り、胸がつまって、
顔はくしゃくしゃで、泣いている。
ひっ、ひっ、と息を殺している。

「………、っ、いか…っない、で」
「なにを言っているのかわからん」

涙で滲む視界にもカタクリさんが笑っているのがわかる。
まばたきをして、涙を落とすと視界は明瞭になったが、どんどんあふれてくる熱い涙が、いつまでたっても次に控えている。

行かないでよ。
でも行ってしまう。わかってる。
躊躇ない。このひとに躊躇なんてない。

そ、っと肩を押されて私の体はゲートの外に飛び出した。
振り返るとシャーロット家の門番が二名、信じられない顔で私を見つめている。
その背後にはいつもの風景の日常が広がっているように思われた。
実際にはこの隔離のことも含めて、不穏な気配に満ちているのであろうが、実際にゾンビの中をくぐってきた後では、なにもかもが活気にみち賑やかに感じられる。はっとして、ふたたびゲートに目をやる。

カタクリさんが、私を見ていた。
彼はずっと私を見ていたのだ、

安全地帯に戻ってきたことに驚いて、
すっかり泣き止んで、きょろきょろと様子を伺い平和を感じている私の一連の心情の変化を、ずっと見ていた。


「元気でな」

カタクリさんの声がギィ、と軋むゲートの閉まる音にまぎれて、小さく聞こえた気がした。カタクリさんは最後までやっぱり、カタクリさんらしく気高く、そして美しく見えた。

「カタクリさん!」


──ガチャン。


ゲートはすっかり閉ざされた。
私が呆然としていると後ろから更に門番や戦闘員たちが集まってきて私を取り囲んだ。

「生存者か!?」
「噛まれていないようだな」
「念のためチェックを」

体を揺さぶられているが、なんだか頭に情報が入ってこない。
反応できない。眩暈がするし、吐き気もある。

カタクリさん。
最後までやっぱりカタクリさんだった。
なにを考えているのかなんて、一度もわかったことがないけど、

でも、

私をゾンビの群れから見つけ出してくれたときだけは、笑っていなかった。


 “ナマエ!どこも噛まれていないか!?”


カタクリさんの眉根を寄せた顔。
長い睫毛の、赤い瞳。真一文字に引き結ばれた唇。

あの顔が本心なら、わたし、
やっぱり、言えばよかった。

好きですって。
無事に帰ってきてくださいって。

でも言えなかった。
本当の別れになるみたいで、こわかったから。

(言っておけばよかった)

本当の別れでも、
しておけば、よかった。