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がやがやと音が聞こえる。
漏れる艶やかな嬌声やら
夜のコムギ島の街並みと人たちの怒声。
水の音、暗闇ですすり泣く声。それらは一緒くたになって、地の底から湧いてくるようだ。

私は膝に頬を付けて座りこんだまま長いことじっとしていた。
万国のはずれにある、私の住んでいた故郷の島が一夜にしてゾンビ島と化したので、この身の置き所のない部外者である私たちは一同が寄り添ってこのコムギ島で体を休めていた。
疲れ果て、言葉も失った私たちにコムギ島の活性はますます別の世界の出来事のように見えた。

ふと、私は顔を上げて立ち上がった。
先ほどまでは誰かが話したり泣いたりしている気配がしたが、いまは避難民の上に穏やかな静寂が広がっている。
そっと暗闇を抜け扉を開けて外に出た。

華やかなピンク色の照明、ミニドレスを着た若い女性が行き来しコムギ島の住人たちが立ちながらパンを食べて談笑している。カタクリさんの部下が足早に通りすぎていくのが見えた。

この場所は、きっとゾンビが侵入してきてもしばらくはこうなのだろうと私は思った。何ひとつ変わらず働く人たちに、意志や感情を毅然とした職務への忠実さで封じ込めている、そんな気高さを感じた。

……わたしはだめだ。
もう、なにがなんだか、よくわかっていない。
ふらふらと突き当りの一番大きな建物に向かって歩いていくと、地響きのような騒音はより激しさを増した。扉の向こうでカタクリさんの部下たちがバタバタと走り回っていた。

「ナマエさん、カタクリ様にご用ですか」

ひとりにそう声を掛けられて肯くと、奥をたどった先にある部屋に案内された。
なんとなくカタクリさんのそばにいたい、と思っただけで積極的に会おうとは思っていなかっただけに、こうスムーズにいくとなんとなく戸惑ってしまう。

扉をノックすると、「入れ」というカタクリさんの声が聞こえてきた。
私が扉を開けると部下がやって来たと思っていたらしく、彼は意外そうに少し目を大きくさせた。

「ナマエか…」

そこは二十畳ほどある密室で、ソファとテーブルが設えてあるが、それ以外になにもなく何の意図で使用されているのかいまいちよくわからない。彼はソファに座りながら隣に来るよう促した。

「眠れないのか」
「はい、なんとなくふらふら来てしまいました」
「そうか。俺もいま休憩を取っているところだ、ゆっくりしていけ」

彼の足元、すぐ手の伸ばせるところに三叉槍が立てかけられている。隣に腰を下ろすと他人の体温と微かなドーナツの匂いを感じ取った。

「生存者たちは、何か困っている者はいないか」
「みなさん、いまはお休みになっていますよ」
「そうか…」

彼は小さく息をついて肯いた。
彼こそ眠れなさそうな顔をしていた。頬は若干やつれ、涙袋の下にくまがくっきりと刻まれた顔。だが瞳には強靭な意識を感じさせる。彼が気を張っていて、すぐにでも戦いに行ける状態であることが見て取れた。

「生存者の世話を引き受けてくれて助かった、お陰でトラブルもなく夜を明かせそうだ」

なめらかな聞き心地のよい声が、すとんと体の中に落ちてくる。

「お礼なんて、そんな…カタクリさんこそ助けてくださって、ありがとうございます」

優しい人だな。
そう思った。
その優しさは男性的な力強いものだ。
彼はその強さで私たちを助けてくれた。そして体を張って闘ってくれている。

優しい人はたくさんいるけれど、カタクリさんの優しさは、彼のように強さと理性を兼ね備えていなければできないものだ。

カタクリさんは優しいんですね、
そう言おうとしたら、彼が先に「ナマエは優しいんだな」と目を細めた。

「え?」
「他人の世話ばかりしていたからひとりになると…かえって気が休まらないだろう」
「……」
「お人好しというのか、なんというか…」

そう言って彼は唇を閉ざした。
その誉め言葉が思いがけないものだったからなのか、カタクリさんが普段どおりに優しく目を細めたからなのか、自分でもどういう仕組みなのかわからないけれど…目頭がじんじんと熱を持っていることに気が付いた。

なんだか、泣きそうだった。
なぜだろう、胸がいっぱいで。

「………」

黙り込む私が訝しかったのか、カタクリさんがこちらを一瞥する。
あ、やばい…。

いつのまにかじわりと滲んで、まばたきすると落涙しそうだった。
カタクリさんが見ているし、体が熱いし、頭の中がぴりぴりと痺れているし。
あ……。

ぽとりと熱い涙が膝に散った。
一滴で済むかと思いきや、涙が後に控えていて、次から次へと新しい滴が零れてくる。
俯いているため、カタクリさんがどんな顔をしているのかは見えない。だが彼が微かに驚きを滲ませているのではないか、と、早く泣き止まねばと焦る頭のどこかで考えていた。

「す……すみません、なんか……」

小さく鼻をすすると、大仰な恥ずかしい音が響き渡る。
これは、“目にゴミが入って……”というレベルの涙ではないし、どう言い訳したものだか見当もつかない。
客観的に見て己が号泣していることを悟り、内心ため息をついた。

どうして、心は冷静なのに体は別々の反応を示すのだろう。…どうして、思った通りの反応をすることができないのだろう……。

元気に笑っている姿を見せるべきだ。
カタクリさんは疲れている。こんなことで心配させたくない。
いまさら言い訳をしたところで、よけい心もとない印象を与えるだけだろう。元気に笑って見せなくちゃ。

お願いだから泣き止んで、
そう強く念じたとき、俯いた頭上で低くなめらかな声が「ナマエ」と囁いた。

「!」

強い力でぐいっと肩を包み込まれた。
目を白黒させながら私は、身動き取れないながらも、俯きっぱなしだった顔を上げる。
カタクリさんの、しかめっ面のような、固く閉ざした唇の顎がストールの下に見えた。それを見て、数秒遅れてからようやく事態を飲み込むことができた。私はカタクリさんに抱き寄せられているのだ。
な、なんで……?

慌てて、あの、と声を発しようとしたとき、
先に彼が唇の奥から、思わしげに吐息交じりに言った。

「この状況でそうなるのは当然のことだ」
「…」
「ずいぶん無理をさせた、…だが礼を言う」
「…」

ぎゅう、と肩を掴む手が熱い。
彼の腕は筋張っていて硬く、その中にいる私は自分の体がとても柔軟にしないでいることを知った。

一番体温を発しているのは、彼の首筋だった。
ストールを纏った上からではなく、彼の首筋は直に私の頬の肌に触れているのだ。まるで布団の中にいるかのようだった。とても気持ち良くて、いい匂いがした。
そして、呼吸をしたあと鼻腔に残る甘い匂いも、私には心地よく感じられた。彼の印象を具現化したかのような匂いだった。

 カタクリさん………

胸が嗚咽しそうに締め付けられて、苦しくなる。目線を上げると彼の顔がすぐそこにあり、その眉間を寄せた険しい影の下に遠くを見るような瞳があった。

 カタクリさん。

この感覚はときめきというよりももっと重くて、もっと苦しいものだ。ちょうど失恋に似ているような気がする。

抱き寄せられた瞬間、頭が真っ白になったのは嬉しかったから。それなのにカタクリさんが私を抱きしめてくれている理由は、私と同じではない。これが彼の慰め方なのだ。

力強くて、身動きが取れないけれど、あたたかくて…。
こうやって彼が抱き寄せて悲しみを論理的に分解しようと試みているのは、私を好きだからではない。
そう、私は思った。

 ……ああ、わたし、……

彼の温度も、匂いも、
耳のそばに感じる息遣いも、すべてが私を傷つけるような気がした。
どうして、こんなときに気付いてしまうのだろう。もしかしたら、もうすぐみんな、死んでしまうのかもしれないのに。私も、カタクリさんも、みんな、明日をも知れぬ身なのだ。

そうして私が死んでしまったら、私の気持ちなんて誰も知らないまま消えてなくなってしまう。こうして抱きしめられている感覚、嬉しいような、苦しいような、思ったこと、伝えたいこと、すべてが、跡形もなく無くなって、目に見えなくなって、まるで最初から存在しなかったみたいに、なる。

「………」

ぐす、と鼻をすすって目を閉じる。
涙がこぼれた。
また一粒、ぽとり、ぽとりと落ちていく。

涙を吸って重い睫毛を持ち上げると、さっきまでなにか考えごとをしていた彼の瞳が、ゆっくりと私に向けられて同じタイミングで目があった。

赤い瞳が揺らいだのは、ともすれば恐ろしくも見えるが、彼の人となりを知っている私からすれば、彼が私のことを心配しているのだとはっきりとわかる。

まばたきもせずカタクリさんと私は見つめ合っていた。私の目からは箍が外れたように涙が溢れ続けていて、だんだん泣き止もうという意思もなくなった。涙腺が疲れ果てたときに、自然と涙も枯れるだろう。

この優しさに縋ってはいけない。
迷惑をかけてはいけない。
だって、わたしだけの優しさではないのだから。

この優しさを
ひとりじめしてはいけない。

「怖くて、とか、混乱して、泣いてるわけじゃないんです」

笑顔をつくりながらそう言うが、鼻声で、体も少し震えている。腕の力をゆるめて彼は私の様子をつぶさに観察している。

「すみませんご心配お掛けして、わたしほんと大丈夫ですから」

 だから……。

腕の中から離れようと体をよじると、するりと彼の腕は解かれた。そして、もう一度強く抱き寄せられた。

「ナマエ」

その、真摯な声。
落ち着いて、冷静で、物憂げで、それなのに眼差しが微かに険しい。ほのかに感じていた甘い匂いが、体の中に入り込んでくる。さっきよりもずっと至近距離にある瞳と目が合って、時が止まったような気がした。

喋ってはいけない。声を出してはいけない。
眼もそらさず、ずっと彼の真面目な瞳を見ていると、カタクリさん…この人に
私の気持ちが伝わるような気が、した。


「カタクリ様、」


 びくり。
こつこつとノックの音が響きわたる。
カタクリさんは私を放して、三叉槍を掴んでソファから立ち上がった。カタクリさんが扉を開けると、すでにそこには武装状態の彼の部下たちが並んでいた。

「どうした」
「カタクリ様、厄介なことが…バリケードが崩れそうです」
「わかった、すぐに向かおう」

カタクリさんは一度、私の方を見て目を細めた。それは一瞬のことで彼の表情がすぐに戦いに臨むものへと、きりっと張り詰めたものへ切り替えられる。

「行ってくる」

素っ気ないほど短く言うカタクリさん。
私はソファから立ち上がり「お気をつけて」と急いで言うだけで必死だった。その声がちゃんと聞こえたのかどうなのかはわからない。冷たい顔をした彼はもう、私に振り返らなかった。

カタクリさんは素早く部屋を出て走る足音を響かせながら姿を消した。それなのに、私を抱き寄せた体温はいつまでも素肌に染みついたように残されていた。