��いちばん大切なもの�≠ヘ?と、訊かれても

 今のわたしなら、すぐに答えられるよ。


 答えられる、よね……?





 冬 12月
― 冬 12月 ―


 しばらく身構えるまでもなく藤真さんとは何の接触も起こりえず時間は過ぎていった。
 気付けばもう、藤真社長と初めて会った日から約三ヵ月が経っていた。ちなみに彼氏にも、まだ��元婚約者�≠ェ勤め先の社長だということは告白できていない。

 ときどきホールを歩いていると社長とみょうじさんが横切るのに出くわしたが、それは私には関係のないことだ。
 電車の窓に映る疲れて十歳くらい老けて見える自分の顔。乾いた目とむくんだ脚とズキズキ痛む頭。最近はマンションに、寝に帰るだけの生活になりつつある。それでも彼氏の寿は、そのことを一切責め立ててくるようなことはしない。なのにときおり、幻影のように��藤真社長�≠ヨの想いが胸を蝕む。
 その想いの真相から目を背ける一心で、それを打ち払うように仕事にだけ集中した。


 それから三日後——わが社のビル内で慰労会が催された。今の職場に勤めて以来初めての事だ。有用な人材を引き抜いてきたときはお祝いをしたけれど、その際にはシャンパン一杯でしめやかに執り行われただけだった。なので、こんなふうにワイワイやることは藤真社長が嫌いで避けていたんだろうなと思っていたけれど、意外だ。
 ……だが、その場に社長の姿はもうなかった。やっぱり、こういう雰囲気は嫌いなんだろうか。

 お世話になっている上司や同僚にお酒を注ぎに回ったら私もかなり飲まされた。そのぶん色んな人と近しくなれた気がする。
 時おり、鞄の中で光る携帯電話の画面に意識が向く。きっと彼氏からのメッセージなのだろうと思うと、なんだか胸が痛い。そう、昨晩わたしが彼に言ったのだ。

「明日は偉い人もたくさん来るみたいだから携帯触れないと思う」
「ああ。わかった。じゃあ部活終わったらジムにでも行ってくっかな」

 マンション近くに最近オープンした24時間体制のトレーニングジムの話をしているのだろう。

「もしくは名前にツイッターしてるわ、山ほど」
「ええー、なにそれ」
「ええ? 俺の呟き。エンドレスのな」

 言って、ニカッと笑った彼の顔を思い出すと、藤真さんが社長だという事をまだ言えないでいる後めたさから気まずさを感じつつも、自然と顔が綻んでしまう。

「明日、駅まで迎えに行ってやるよ」
「あ、いや……終わる時間、まだ分からないから大丈夫。最悪、駅からタクシー使うし」
「いいって。本当はその本社?のビルまで迎えに行ってやりてーところだけど、まあ、最寄り駅で我慢するわ」

 結局私が「寿も疲れているだろうからお願い、ゆっくりしてて」と言いくるめたことで彼が私に根負けするかたちになったがそれでも優しい彼は「帰るとき必ず連絡しろよ?」とすでに心配そうな顔をして私を見ていた。

 会場で一番居心地のいい輪に混じって立ち話をした。ストレス解消の話で、長らく盛り上がる。
「抱擁は、ストレスが大部分解消されるらしい」と、言っていたとき、後ろから「なんだって?」という声が聞こえた。
 一言でしんと静まり返る水を打ったような声。振り向くと藤真社長が真顔で立っていた。すごく久しぶりに近くで見た。記憶よりも美形で驚いてしまう。私、お酒に酔ってるんだな……。うん、絶対に、そう。

「社長。いえ、すごくつまらない話なんです」
「ん?」
「抱擁することでオキシトシンが出てストレスが減るとか……」
「……」

 ややあった沈黙のあと社長の視線が私に落とし込まれた。思わず目を逸らしそうになったが必死にその目を見つめ返すことに成功する。変な汗が出てしまう。

「お前は、試したのか?」
「え? いいえ……まだ」

 社長は微かにくちびるを歪めてこわい顔で一笑した。そうして顔を伏せて「誰が相手でも効果が出るわけじゃなさそうだな」と低い声で言った。

「……。」

 び、びっくりした……。社長、社内では基本、名字か「きみ」って私を呼ぶのに。
 突然の「お前」呼びの重圧に負けないように、私はくちびるを一度強く結び直してから言った。

「たぶん、そうでしょうね……あの、シャンパン取ってきましょうか?」
「いや結構だ。このぶんだとまだ続きそうだな。あとは好きにやっておいてくれ」

 それを聞いてそばにいた部長が社長に「社長はもうお帰りに?お車を呼びます」と声を掛けた。社長は「ああ。車で来てる。手配は不要だ」と、軽く答えたあと、ちらと私を一瞥した。
 なぜかどき、とする。胸がびっくりしてぎゅうと締めつけられるのを誤魔化して私は真顔を取り繕った。

「名字。すこし話がある」
「……? はい」

 言い捨てたあと歩き出した社長に付いていくと最上階の社長室に行きついた。

「失礼、いたします……」

 中に入り、彼は社長席の革張りの椅子に座る。私は向かい合って立った。話って、一体なんだろう……。この部屋は、相変わらず時間が止まったような気になる。なにもかもが静かすぎる。音がひとつも聞こえてこない。そう感じるのは、藤真社長と一対一でいるからなのだろうか。

「もうずいぶん前のことになるが……」
「……?」
「俺がなぜ海外から戻って来てここの社長を一任させられたのか、訊いたらしいな」
「……!」

 なにを言いだすのだろうと思えば予想だにしていないことだった。たしかに以前、運転席の同僚に訊いた。でも……世間話のことだ。本人の私も忘れていたような。

「それだけじゃない。業務中の検索履歴を見たがどうもネットの内容に感化されているらしい」
「……」
「なにか、嗅ぎまわってるのか?」
「いえ……そんなことは……ありません、」

 そんな誤解を受けてしまうなんて……。心臓が激しく鼓動している。社長は机に肘を付いて手を組んだ上に顎を乗せている。そして無表情の瞳で私を眺めている。いつもどこか違うところに向けられている瞳が今は確かに私に向けられていた。
 見透かしている瞳。まるで、丸裸にされた気分だった。とても、生きた心地がしなかった。

「私がそう訊いたことは確かです。けど、そんなつもりは、まったく……」
「そうだろうな。わかってる」

 ようやく社長は目を背けてくれた。だが私にはまだ血の巡りがひとしずくも戻ってこない。
 社長は机から肘を離して椅子に背を預けると足を組んだ。ギィと室内に椅子のしなる音がやけに今日は鳴り響く。

「ただ、大げさに話が聞こえてきた。それで確認させてもらったんだ」
「……いえ、誤解を招くようなことを……。すみませんでした」

 お酒の酔いなど、いまので一気に飛んでいってしまった。私が、青褪めた顔をしているのを見て社長は一瞬だけ、苦い顔をする。

「お前に他意がないことなんかはな、はじめから分かっていたことだ」
「……」
「それから、今回の功労者に名を挙げなかったがこれを——」

 彼はスーツの懐を探ったあと社長席の机の上に封筒を置く。そして私に突きつけるようにすっとこちらに向けた。短く整えられた四角い爪のその指先で。それで引っ掻かれたわけでもないのに、ひどく傷ついた気がした。

「名字が以前にも増して意欲的であるという報告があがってるぞ。ご苦労だったな、この調子で続けてほしい」
「……はい、ご期待に沿えるよう、頑張ります」

 突っ立ったままの私に向けられた社長の視線が蔑んだ眼差しに変わる。

「金を——受け取るのは苦手か」
「いえっ、いつもお給料を頂いてますから。でもこんなの……」
「口封じも兼ねてる」
「え、」
「——冗談だ。いいから取っておけ」
「……っ」

 待って……ここってさ、フロント企業とかじゃないよね……?
 ああ、派遣社員ってボーナスとか無いから……じゃあお小遣い?えぇ、いやいや、まっさかー。
 え?アメリカンスタイルってこんな感じなの?なんか、もはやチップみたいな?
 ええ、わかんない。でも早く受け取れと社長の目が訴えているし。

「……あ、ありがとう、ございます」

 機械的に受け取ったあと、私は社長室を後にした。すぐに女子トイレに入って、個室の中で鍵を掛けた。握りしめた皺ひとつない封筒を見下ろしながら胸の近くで詰まったみたいに苦しいところに手を当てる。
 ——混乱して、なにがどうしてこんなに悲しいのかわからない。ただ、とても恐ろしかっただけなのかもしれない。
 悔しいという気持ちもあるけれど、一体それは何に対してなのだろう。それすらもわからない。だけどこんなことで挫けてはいけない。あの人の側で働くということはきっと、こういうことなのだ。
 トイレから出て俯いて歩いていると、正面から藤真社長が歩いてくるのが見えた。
 通り過ぎ間際、立ち止まって、ぺこりと会釈をした私を追い越した社長の足がぴたりと止まる。こちらに振り向く事もなく社長がいつもの調子で淡々と言った。

「お前は電車通勤か」
「え? あ、はい」
「ならついでに送っていく。帰る支度をしろ」
「えっ!?」
「なんだ?」

 ここでようやくジロっと睨まれて私は口に手を当てた。小さくかぶりを振って込み上げた驚きを飲みこんだ。
 藤真社長がわたしを送る?なんかの間違いじゃなくて? え、嘘だ。


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