≪Chapter 2≫
ひとりで生きたいわけじゃない



 占有の仕方も、笑顔も、情の傾きも、

 ぜんぶ、ぜんぶ、種類が違うんだって

 まったくの別物だってはじめから知っている。


 それでも、君の大事なものなんて

 見たくないんだ。


 同じ未来を描けないなら、

 いっそまったく


 知らない人のままでいたかった。





 *


��藤真社長は取っつきづらくて話しかけにくくて近寄りがたくて、傍にいると緊張し過ぎて、全身筋肉痛になってしまいそうな人��


 そう面接のときに言っていたキャリアウーマンみょうじさん。(はい、ようやく名前を覚えました)

『一目見たときからこの人はサイボーグなのだろうと、私は思いました』

 彼女のその言葉の通り藤真さんはそういう姿をしているのだ。まるで作り物みたいな端正な顔と俳優みたいなスタイルと、お手本のようにそつのない動作。
 ただクールなだけじゃなくてやっぱり、とてもこわい人だ。

 近づいたら必ず、怪我をする。それは本当に、肉体的にかもしれないし精神的にかもしれない。





 
 11月 秋
― 11月 秋 ―


「おい」

 低い地を這うような声にびく、としながら振り返ると藤真さん——あ、��社長�≠ェ立ち止まって窓べを見下ろしていた。

��藤真社長�≠ニ、初めて会った日から約二ヶ月。私は始めこそ七階の小さな部屋のオフィスで末端の業務をしていたのに今はなぜか九階のオフィスに駐在させられている。
 それでも社長がいる最上階まではまだまだ遠いのだけれど。だ、けれど……なぜか社長はたまにこうして、いや、最近?私のいる九階に突如現ることがあった。頻繁に会うことはないだろうと、高を括っていたけれど、そもそもこのビル、七階から最上階までは、藤真社長の支配下におかれているのだ。

 会社の広々した通路。やわい午後の光を浴びた社長の姿は美術館に展示されている彫刻像のように思われた。周囲に誰もいないことを見ると当然社長は、私を呼び止めたのだろう。だが彼は私を一瞥もしない。

「——はい。」

 近づいていくと、彼はやはり私などに見向きもせずに言い捨てた。

「これはガタがきてる。業者の手配をしてくれ」

 言ったあと社長は私をすり抜けて行ってしまった。……足、すごく速い。あっというまに、もうあんなに遠くに。そしてすぐに見えなくなった。
 藤真さ……、おっと。社長が見ていたところを見ると、防火シャッターの収納部が微かに歪んでいるようだった。よくこんな事に気が付いたものだと思うくらい、わかりづらいところなのに。
 きっと一瞥しただけで些細な異変も見逃さないくらい、前の光景を記憶している人なのだろう。なにせあの年齢にして会社の長——しかも本社の取締役も務めているのだから、それだけでも常人とは違う。本物の��サイボーグ�≠セと思った方が驚かない。

 すれ違いざまに感じた彼の風に、ふわと体温があった事のほうがむしろ今は不思議な気がした。


 *


 数日後——突然、私のいる部屋の扉が開いた。九階に異動したとき、業務に当たって小さめだが私専用に個室を与えられたことでこの部屋を開けるということは私個人に用があるということだ。
 そして扉を開けたのは藤真社長だったので私は内心、驚きでいっぱいだった。この職に就いて、約二ヶ月なるけれど社長がここに来たのは初めてのことだったのだ。

「��名字�=v

 急に名字で呼ばれたことに驚いてしまう。合わせて名字を覚えてくれていたことにも、なんだか動揺してしまった。
 作業を中断して立ち上がる私を彼は能面のような無表情で眺めている。

「いまから本社に緊急で向かうことになった」
「は、はあ……」
「みょうじは別件で外出させてる。代わって名字、きみに同行をお願いしてもいいか」

 そういえばみょうじさんは今日、社長の名代で接待に行っているんだっけ。
 そんな事を考えてとりあえず了承すると社長は怪訝そうに目をひそめた。

「急いで支度を頼む。十分で出るぞ」

 と、言い捨てて背を向ける背中に、私は急いで声を掛けた。

「支度とは!」
「……」
「具体的に、どうすればいいですか?」

 ぴたりと足を止めた社長は私に視線を向けないままで言い放つ。

「化粧をして髪を整えろ。その後は、黙って車に待機していればいい」
「……、かっ、かしこまりました」

 これでも、化粧も髪もちゃんとしているつもりだったのだけど……。とはいえ、みょうじさんみたいにすればいいということだろう。
 今朝はちゃんとブローしてきてよかったと思いながら、彼女のやる癖のように無意識に髪を撫でつけてみた。

 私の勤めている会社は、本社から枝分かれした末端の子会社だ。
 藤真さんが海外赴任からわざわざ戻って来て、この会社の社長を任されたらしい。けれど、社員さんから聞いた話だと、ここの社長を務めていた人が体を壊して休職中とのことで藤真さんがそのあいだの��繋ぎ�≠ニして社長代理が任された——とか、なんとか。だから藤真さんは海外に今でも戻りたいと思っている、なんて噂話を聞いた。
 そんな話をコソコソとコピー機の前でしていたとき「私語は慎みなさい」と、ぴしゃりと言ってのけた彼女、みょうじさん。
 彼女も元は本社の社員だったらしい。キャリアウーマンふうだったのは��風�≠ナはなく、その身なりの通り本社では社長秘書をやっていたと知ったのは、つい最近の話だ。

 本社に出向くのはプライベートも含めて今回で二度目になる。でも想像以上にすごく立派になっていて驚いた。
 本社は、私が藤真さんに借りた二千円を返しに来たときのビルからはすっかりと移転していて、いまでは移転先のビル全域が本社となっている。と、言うことは、もしも前の本社があったビルに万年筆を持って行って届けていたとしても結局のところ藤真さんの手に渡ることはなかったということだな、とか思ったりして。

 地下の駐車場に私達を乗せた車が入る。セダンが並ぶ駐車場を私は窓越しに眺めた。閑散とした雰囲気の地下駐車場でぴしっとスーツを着た人達が来賓を出迎えたり挨拶を交わしたりしている。ここにいる人物すべて、どうみても平社員のそれではなかった。年配だったり体が細かったりする人もいたが、いずれも、目つきに独特の威圧感が宿されていた。
 日々、藤真社長から感じていたあの殺気めいたものは、上流階級特有のものだったのだ。

「……」

 ……わたしは女優。わたしはみょうじさん。
 今は車内とはいえ毅然としていなければならない。戦場に思われるくしゃみひとつ憚られる戦慄した空気が、車の中にも満ちている。蚊帳の外にいるのではない。私もいま��ここ�≠ノいるのだ。

 それにしても、なぜ藤真さんが末端の子会社のトップなんて任されたのだろう……本社の利益に繋がっているのかもしれないがそれにしてはうちの社長、藤真社長はバリバリのワンマン系だし。仕事の鬼だし。我が社がモバイルサービスを開発して最近えらく稼いでいるけれど、それにしても藤真社長の指図があってのことで本社の気配など感じない。なにせ無益を嫌う人だろうから、何かしら理由があるのだろうけれど……私が考えても仕方ないことだけどさ。
 いまはもう戦地に向かって行ってしまった藤真社長のことを思って、ため息を飲みこんだ。

「名字さん」

 運転手の同僚が話しかけてきたので、私たちはそこで雑談をした。私はなぜ藤真社長が子会社を任されたのかを遠回しに訊ねた。するとその同僚はこう答えた。

「理由はわからないです。本社の会長から可愛がられていたはずなんですけどね……」
「……」
「なんだか噂では、藤真社長のお父様が関係しているって話も聞きますよ」

 藤真さんのお父さんのことはインターネットの記事で読んだことがある。『藤真健司 父親』で検索したときに出てきたからだ。
 藤真さんのお父さんは名前はあっても��元大手銀行の頭取�≠ニいうことと、なんだか実業家とかいう身分と、経営している会社の一覧しか載っていなかったけれど。そう言えば前に、水戸くんのお店からの帰り道に言ってたっけ。銀行の頭取だったって。次いで調べたのは本社の会長の名前。その経歴、その文字の羅列から、どのような人柄なのかは窺えなかったけれどあの藤真さんが信頼している人なのだろう。
 どんな人、なんだろう……藤真さんよりも輪をかけて無表情冷徹超人みたいな人なんだろうか。

 一時間ほどして、藤真さんが車に戻ってきた。藤真さんが車に乗り込んだ時、たばこの移り香が車の中に微かに広がった。

「社に戻ってくれ」
「はい」
「じきに渋滞するぞ。早く出せ」

 車が地下駐車場道路に出て本社から遠く離れていく。ピリピリとした緊張感。藤真社長が近くにいると、その雰囲気に圧倒されて金縛りにあったように背筋が伸びてそのまま強張ってしまうけれど、それがいつもより強い。——こわい。

(……藤真さん、機嫌が悪いのかな。)

 そんなことを思った後、そっと隣にいる社長の姿を横目で見る。
 腕を組んだまま、微動だにしない姿はいつもと同じなのに確かに彼が怒っていることが肌で感じ取れた。


 *


 会社に着いて社長はすぐ車を降りると隙の無い動作で、颯爽と最上階に向かって行った。やっと終わった、と、ほっとしていると「お戻りの際に社長はいつもコーヒーを飲まれます」と運転手の同僚に耳打ちされてしまった。
 私はもう一度、藤真さん——いや、藤真社長に立ち向かわねばならなかった。
 はやくコーヒーを出して自分の仕事に戻ろう。さっ、と渡してくるだけでいい。自分にそう言い聞かせて最上階にエレベーターで登りコーヒーを給湯室で用意して、社長室の冷たく重い扉の横のインターホンを押す。

「——入れ」

 スピーカーから聴こえたやたらと機械音ちっくな声を肌で受け止めたとき施錠が解除された音が静かな廊下に響き渡る。扉を開けてお辞儀し顔を上げると、社長がこちらに背を向けるように机の傍に立っていた。
 上質なブラインドごしに、窓の外を眺めていたらしい。彼はその体勢のまま「みょうじ」と、言った。

「名字——で、す……。」
「ああ、……そうだったな」
「コーヒーを、お持ちしました」
「そこに置いてくれ」
「はい……」

 かちゃり——ソーサーとカップを社長席の机に置くと陶器の音が鳴る。ブルーマウンテンの深く芳しい香り。質のよい机や調度品によく似合う。まるで時が止まったように静謐な部屋だ。なのにみょうじさんと間違えられたことで、なぜか心臓が早鐘のように打っていた。
 一礼して、出ていこうとしたとき藤真社長が、「名字」と、言った。

「はい」
「きょうは同行、ご苦労だったな」
「はい、」

 思いがけず労われて私は胸の前で盆をぎゅ、と抱きしめて、くちびるを強張らせる。

「本社の連中を見たのは初めてか?」
「はい」
「怯んだんじゃないか」
「多少は……ですが、慣れたいと思います。またこのような機会があったときのために」

 社長は顔を少しだけこちらに傾けている。視界の端で、私の動向を見ているのだろう。横顔からシャープな睫毛がはみ出ている。

「習熟の必要はない。こんな機会は、もうないだろうからな」
「はい。ですが今回だけのことでなく、みょうじさんを見習って……」
「あれは覚悟が違う。きみとは別の人種だ」
「——。」

 低く冷たくて乾いていて、最後に微かな粘りを感じさせる声。その言葉が胸に刻みつけられた。一瞬、視界がくらくらした。

「もう行っていい」
「はい。……失礼いたします」

 たとえショックを受けても私は盆を持ち、ちゃんと一礼を済ませて社長室を出ていく。扉を閉め一人で盆を返しに給湯室へ歩いていきながら何度も何度も何度も、社長の言葉が脳裏をよぎった。


 ��みょうじ��

 ��あれは覚悟が違う��

 ��きみとは別の人種だ��


 なぜこんなにショックなのだろう?悔しかったのかもしれない。私の最愛の彼、寿と同様に私は��負けず嫌い�≠ノおいては上流階級レベルの人間だから。わかっている。気を付けていたのに。

 近づいたら必ず怪我をする。わかっていたことなのに。
 くちびるを強く噛むとたしかに……怪我の味がした。


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