だが、嘘ではなかった。今日まで社長が誰かを自分の車に乗せているのを見たことがなかった。むろん彼とお付き合いしていた時も彼の愛車には乗せてもらったことなど一度だってない。

 彼のマンションと同様に、彼の車は、彼の聖域みたいなものなのだと私は思っていた。と、いうよりも、そうであってほしいと思っていたのかもしれない。
 あの冷たくて心を無くしてしまっているようなあの人が安らげる空間があるのだと思うことが、言わば私の安らぎでもあった。
 今の彼は何台も高級車を持っていて日々色んな車で出勤してくる。その中でも一台、一番お気に入りなのかな?と思う、外車の最高峰ポルシェがある。使用頻度が高い車。今日は、それだった。

「……」
「……」

 ……えっと。これっていま、どういう状況?
 車の中は社長の、すっとする香りが、わずかに漂っている。車特有の機械の匂いはなく、空気が澄んでいてシートの座り心地もとてもよい。左に藤真社長がいてその社長がずっと同じ表情のまま運転している。

「いまは——」

 車に乗ってからずっと無言だった彼がようやく口を開いた。社長の声がやけに車内に通って聞こえた。私は下に向けていた顔をそっと上げ社長を見る。

「どこに住んでるんだ」
「あ、ええっと……神奈川の……」

 ぽつぽつと私は、住んでいる地域と最寄り駅を伝えた。それに対して特になんの反応もなかった社長だったけれど方角的にきっと私の家のほうに向かってくれている。

「まあ、履歴書で確認済みだけどな」
「……」
「家まで送ってやってもいいぞ」
「……、」

 ——え。な、なんて?待って、待って。いま、なんて?
 え、記憶してんの?すごくない? ど、どんな能力?このひと、いったい何者?いやっ!待て、待て待て!私の……家まで、だと?!それはまずすぎるっ!い、いるのよ暴君が……!こんなツーショットを見たら、マンションごと吹き飛ばしてしまいそうな暴君がいるから——ダメっ!!

「大丈夫——です、」
「……」
「駅までで、じゅうぶんで、ござ……います」

 パッと反射的に真横を見たとき彼の横顔がすぐそこにあるのだと思うと、なぜか胸が震えた。

「そうか」
「……」

 すぐに私は正面に向き直り、コクンと一度だけうなずいた。そしてまたしばらく沈黙が続いた。ややあって、社長がぽつりと零す。

「お前は、仕事中のほうがお喋りなんだな」
「……!」
「いや、仕事中のほうがお喋りになった(・・・)と言ったほうがいいか」

 どんな反応をしていいのか迷ってしまって私はわずかに眉根を寄せた。

「………そ、そうですか?」
「ああ」
「私、あの……実は、外車の助手席って初めてでなんだか、恐れ多い気がして……緊張してて」
「相変わらず、おかしなことを言うな」

 ふ、と彼が冷たく笑ったのが視界の端に映る。笑った顔、この会社に入ってから、今日はじめて見た気がした。高速道路の橙色の強い照明が車内をセピア色に染めている。

「このまま勤務を怠らずにいれば、数年でこんな車くらい買えるようになるよ」
「え……私、外車なんて運転できないです」
「そういうことは問題じゃない。時間さえ合えばこれからも送って行ってやる」
「……」
「二、三度乗れば恐れ多いなんて思うこともなくなる」

 なんて社長は淡々と言ってのける。置き去りの私は黙るしかなかった。

「……」
「なんで黙るんだ」
「いいえ、今でさえ実感が……」
「……」

 私の知っている��藤真さん�≠セ——と思った。普通に私を今は��名字名前�≠ニして見てくれているという実感が。
 それが無性に嬉しくて何だか泣きたくなった。なんか、なんか……

「信じられません……」
「……なにに対しての実感だ?」
「……、」
「まあいい。すぐに信じるようになるよ」

 そのとき、社長の携帯電話が小さく鋭く車内に鳴り響いた。彼はハンドルを取ったまま、懐から取り出してそれを耳に当てた。電話の相手は外国人らしく英語で会話をしている。そして、電話はすぐに切れた。携帯を懐に仕舞った彼はきびしい横顔をしている。不意に訪れた沈黙に、息を殺しながら、もしかするとやっぱりさっきまで和やかな空気が流れていたよね?と、このとき、改めて思った。

「あのっ、藤真さん——」
「社長と呼べ」
「あ、はい……すみません」

 張り詰めたような緊張感。社内のそれに似た空間に一瞬にして戻ってしまった。もういま真横にいる彼は��藤真社長�≠セ。
 いまの空気と比べてみればさっきは確かに打ち解けた雰囲気があった。ずっと、さっきのままが続けばよかったのに。
 自分の膝に置いたバッグの取っ手を、ぎゅっと握って社長から感じるピリピリした威圧感に今は戸惑っている。自分にできることなど、彼の気に障らないようじっとしているだけなのだ。ああ、こんなとき、みょうじさんならどう対処するのだろう。

 かっち、かっち、とウインカーのリレー音が、車内に響く。高速を下り一般道への道へ右折するため社長はハンドルを切った。そのとき生垣から自転車が飛び出してくるのを見越してゆるやかに車は停車した。自転車が横切り車が再び走り出す。

「社員を採るときは人事だけじゃなく通常は俺も面接に関わる」

 街中は夜空の紺色をしている。社長の顔は暗い影に覆われているがカーブの具合で後続車の光が入りこむたびに、その美しい面立ちが照らされて目に焼き付いた。

「異動の前に、経営規模を考慮して新たに部署を設けることにした」
「……」
「人員確保について俺は当時、日本を離れていたから、初めて人事だけに一任したんだ」
「……」
「そのとき仮採用されたのがお前だ」

 私はまた、ゆっくりと視線を社長へと向ける。それに反応することなく社長は、真っ直ぐに前を見ていた。

「お前の履歴書はファクスで送らせて見た」
「……」
「特に異論はなかった。なのでこうして、人事の希望でお前の本採用が決まった」

 コクッ、とギアを入れて、車が停まった。私が毎朝通勤に利用している最寄り駅の前だ。社長の車の中から見る私の住む街は無機質でこの時間帯は人の気配がしなかった。もう遅い時間とはいえ街中全体が眠っているかのようだ。車内の暖かさと外の凍てつく空気の温度差が窓硝子を白く曇らせている。

「俺が帰国した後、働いているお前を見たときに採用を止めさせるべきだったかと思った」
「え? なんでですか?」
「履歴書では、名字は条件を適えているように見えた。だが実物のお前は違った」
「……」

 よくわからない。話の内容も、それを話す意図も。訝しく思う私は滑稽だったのだろう。彼は、ふっと笑ったが、口元が皮肉に歪むだけだった。

「採用の際、学歴や資格はそれほど考慮していない。むろん、能力は必要だけどな」
「……」
「一番重要なことは御しやすいか、そうじゃないかだ」
「……」
「御しやすい人間を繋ぎとめて裏切らないようにすることは容易だからだ」
「私は、御しやすいほうだと思いますけど……」
「けどお前は、いざというとき逃げ出すだろ」
「……、」

 ドキッと、した。見透かされている。すべて、彼、藤真健司に丸裸に——。

「その点、野心さえあれば人間何でもしてくれるようになる」
「……」
「金と共に、プライドを持たせればいい。野心家には、金とプライドが命より大切だからな」
「……」
「そのふたつが整えば、簡単に服従させることができる」
「……」
「お前には野心がない」

 面接終わり、思わず、口をついて出でしまった台詞。あのとき私が思ったことと一緒。その場で聞いていたのではないかと疑いたくなるほどだ。なんだか首の裏にじわりと汗をかく感覚に陥る。

「安穏と育った若い世代に多い人種だよな」
「……」
「それなりの生活で満足できて、罪を犯すくらいなら、その前に自白しそうな……」
「……」
「それでいて大衆の意見が絶対正義の日和見主義の連中。それを美徳とする会社も、日本には多くあるだろうが」
「……私に、退職を促しているんですか?」
「仮にそうなら、こんな話はしないよ」

 ——それじゃあ、なぜ?
 話の続きを待っていると彼は奥歯を噛み締めるように頬を強張らせた。

「そんなお前に……」

 彼の睫毛の一本も乱れがない顔に丸い月の光が掛かっている。

「今では少なからず信を置いている事に驚かされるよ」

 まばたきを繰り返す、ぱち、ぱち、という音が自分の目蓋から聞こえてくるようだ。
 彼の涼しげな目元の青白い目に細い睫毛の影が落ちている。鼻の付け根によせられた、痛そうなしわ。硬そうな頬。月の光と影を浴びながら藤真さんは目を伏せて表情を苦痛に歪ませる。その顔を愛しいと思った。きっとこれは愛情ではない、別の何か違う意味だろうと思いたかった。

「ありがとうございます。とても嬉しいです」

 棒読みに響いた自分の声は、動揺を押し隠しているからだ。彼はハンドルに手を掛けて、横目で私を見た。

「ずいぶん回りくどくなった」
「……」
「あすも、頑張ってくれ」
「……はい、」

 いまならばそのひと言で、私も簡単に服従してしまいそうだ。私なんか野心がなくともよっぽど御しやすい人間ではないか。
 だけど彼の言うとおり、人を殺せと言われれば私にはできない。彼の望む服従とは……そういうことなのだろうと思った。

「……でも、なんか夢みたいです」
「……」
「私、自分に自信を付けたくて社会復帰をしたという理由もあったので」
「……」
「こうしてしっかりと評価されたのは、いままで生きていて初めてかもしれません」
「……大袈裟だな」
「いえっ、だって……何か成果を残したわけじゃないのに、そんなふうに思ってもらえて」
「……。」

 ……あ、れ?なにか私まずいこと言ったかな。さすがにちょっと図々しかったかも。とりあえず訂正しようと唇を動かしかけたとき、落ち着いた声のトーンで社長が言った。

「目に見えた業績の出ない業務でも名字についての報告は耳にしてるよ。真面目にこなしてくれているってな」
「……っ」

 なんだかもう隠しておくことができなかった。嬉しかった。純粋に。ほんとうに。こんなふうに上司に褒められたり期待されたり、そんな社会の当たり前といってもいいような出来事なはずなのに。私個人をちゃんと正当な理由で色眼鏡を使わずに判断して評価してくれているということが、たまらなく喜ばしいことだった。
 私は恥ずかしくて真っ赤になっていた。薄暗いが表情にまで出ているのがすごくわかる。社長はそんな私を見て驚いたらしい。けれどなぜか彼は不機嫌そうに顔を歪めるのだった。

「ありがとうございます、ご期待に沿えるように一層努力いたします」
「……」
「それじゃあ、そろそろ……」
「ああ。あすもそばにいてもらうが宜しく頼む」
「……、」
「業務の話だ。深い意味はない」
「!」

 ……え、いま顔に出てたかな? ええ、やだ。恥ずかしい。
 彼の気迫とオーラに押されてしまっているとはいえ、ただの勘違いクソ野郎に成り下がってしまっていることに自分でも溜め息が出る。

「……はい。あの、車の乗り心地最高でした!」
「……」
「外車の助手席なんて貴重な体験でしたっ!ありがとうございました」

 冗談めかして笑って言うと彼は真顔で私を眺めていた。私の声が車内にシンとこだまして、なんだか気まずい。

「また送る機会もあると言っただろ」
「あ、いやっ……でも、思ったことをお伝えしただけですから」

 ややあった沈黙も先に破ってくれたのは社長のほうだった。

「そんなに大した車じゃない。お前はこれを俺のプライベートルームだとでも思っているようだけどな」
「えっ……?」
「普段から、女を乗せているような代物だ」
「……、」
「——もう行け。また、あす会社で」
「あっ……はい。ありがとうございました。失礼いたします」

 ぺこと頭を下げて車を出てから、もう一度頭を下げた。彼はやっぱり、私を一瞥もしない。車は私を乗せていたときよりもずっと速いスピードで奥深い夜の中へ消えていった。

「……」

 嵐のような瞬間だった。気持ちの落ち着きどころがなくて、なんとなく、自分の髪に触れて撫でおろしてみる。ふわりとシャンプーの香りに混じって、藤真社長の車の中の空気が封じ込められている気がする。
 あの温度、あの湿度……自分の髪に触れた指で眉間をぐっと抓んで、あの助手席から見た情景を克明に思い描く。
 みょうじさんも乗っているのだろうと思うと、なんだか喉の下がちくちくした。

 ふう、と小さく息を吐き旋回して一歩足を踏み出したとき——長く続く交通量の少ない道の先、防護柵の脇に見慣れた車がハザードランプをつけたまま停車している。私は一気に青褪めて、すぅと思わず息を呑んだ。
 真正面に見えるその車の中、街灯に照らされた相手の顔がはっきり、くっきりと見える。運転席の窓を開けて肘を付いている。その肘から伸びる先にある長い指先で自身の下唇を弄ぶようにして触っている彼。

 人間が唇を触るときの心理——。考え事をしているとき、嘘を隠そうとしているとき、欲求不満なとき、不安を感じているとき……。
 ただの偶然であろうのそんな仕種にも今の私はどうしても余計なことばかり考えてしまう。
 こちらに向いていた鋭い視線から逃れるように私はすっと視線を自分の足元に落としてゆっくりと歩き出す。

 私は女優。私は——いま、寿と鉢合わせになどなっていない。

 歩道側に移動してハザードランプがついたまま停車しているその車の真横を通り過ぎる。
 通り過ぎる少し手前で私の歩いていた側の助手席の窓が開いた気配を音で感じた。けれど素知らぬ顔で車の真横を通り過ぎようとした、まさに、そのとき——。


「名前」


 地獄の門番から声を掛けられたような気にすらなった。ビクンとして、思わず立ち止まる。私の真横、助手席側の開いた窓の先、目の端の視界に映っているのは、こちらに顔を向けずに真正面を向いたままの、幼馴染の彼のシルエット。

「おかえり。」

 ややあった沈黙のあと、意外と柔らかな声色が聞こえてきて、反射的に彼のほうに顔を向けた。彼がゆっくりと唇に当てていた指を離してこちらを向く。

「結局、迎えに来ちまった」

 情けなく目を伏せた彼に合わせて私も同じように目を伏せて「うん」と、小さくうなずいた。


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