≪Chapter 3≫
私はそんなに弱くないから


 大丈夫だ、

 胸に抱えた何かが重いのは

 おまえだけじゃない。



 あなたのこと

信頼 ≠ヘしてるけど

信用 ≠ヘ、できないよ——。













静かな車内に気まずいとも違うけど穏やかとは言い難い不穏な空気が立ち込めている。私は、くちびるを噛んだ。もう、自分を守ってくれる化粧の味はしなかった。


「——送って、」

その低い声と同時に寿の頭が微かに動いたような気配を感じた。ちらと目の端で確認したけれど、こちらに顔を向けたわけではなさそうだ。

寿は正面を見て、ただただ運転に神経を向けている気がした。

「もらったのか?」
「……」
「……」
「うん。会社の、社長さん。」

へえ、と寿は怒っているわけでもなく、むしろ感心したような反応だった。

「もう気に入られてんのかよ?」
「気に入られてるって言うか……」
「だってあれだろ? なんか側近みてえな仕事任せられてんだろ?最近。」
「側近……うーん、まあ、近いことはしてるかもね」
「正社員試験受けられないのか、聞いてみたらいいんじゃねーのか?」

このとき車に乗ってからはじめて、チラと寿が私のほうを見た。その表情は意外にも穏やかで本来ならほっとするべき瞬間だったが、なぜか私は胸がぎゅ、と苦しくなる。

「あの、ねっ! 寿……、」
「あ?」

軽い口調だった。本当に怒っているとか、そんな雰囲気は微塵も感じさせないような。大人になった寿は意外と、仕事とプライベートを分けられるタイプの人種なのだろう。

会社の人となれば、送り迎えがあってもまあ、おかしくないときっと寿の中の物差しで測っているんだろうな。その点は高校教師、社会経験が私より長い寿のほうが、よっぽど大人なんだと思った。

だからこそ、
いまならば、打ち明けられると思った——


「つか、お前んとこの社長よ」
「……?」
「ポルシェ乗ってんのか?」

「通行人が写真撮ってたぞ」と浅く笑って言う寿の横顔が、なんだか今日は、遠い人みたいに見える。

私の気持ちが、寿から離れてしまっているのだろうか——いや、そんなことはない。と思う。

そう言えば、ここ数ヵ月はキスはおろか、体も重ねていないな……ああ、だからか。そうか、私はきっと、寂しいんだな……。


「車、何台も持ってるみたいだよ」
「へえ」
「好き……、なのかもね。車。」
「……あ、そうだ言い忘れてた」

話を無理やりに打ち切ったというよりは、本当になにかを思い出したみたいに言った寿のその言葉により、社長≠フ車ネタはここで打ち切られるかたちになった。

「車の話で思い出したんだけどな、」
「うん」
「この車よ、親戚の子供に譲るかも知んなくてよ」
「あ、そうなんだ」
「ああ。もうすぐ五年になるしな。買い替えも検討してたから、いい機会だ」
「ふうん。そっか」

「まあ、俺にポルシェは買えねーけどな」と、冗談なんだか悔しいんだかよくわからない感じの寿の声色が車内に響く。

「で、なんだ?さっき話の途中だったよな?」
「え?」
「あ? あのね寿って、言わなかったか?」

……言った。言いました、ハイ。 そうそう、藤真さんのことを言おうとしていたんだった。

さっきの勢いのまま言えればよかったが、いまになって急に、躊躇いが出て来る。けれど、いまこの瞬間に言ってしまわないと、もうこの先言える機会など巡って来ないような気がした。

「うん。 あのね……」

そのとき、寿の車が駐車場に入ってゆっくりと停車した。もう自宅前に到着してしまったらしい。マンションまでは歩いてすぐだけれど、この話……いま車内でしてしまうべきか、自宅に入ってからするべきなのか……。

そんなことを考えている私を置き去りに、寿はさっさとシートベルトを取り払って体を私の座る助手席側に向ける。

「ん? なんだよ?」

私はいつもと変わらぬ寿のその姿に思わず視線を逸らして正面を見据える。

「あの、私の勤めてる会社のね、社長さんが」
「ああ」
「……、」
「ポルシェの社長がどーした?」

ああ、もう寿の中で命名したらしい「ポルシェの社長」。その相手が藤真さんだと知ったとき寿は一体、どんな反応をするのだろうか。

「あの、……。」
「うん? なんだ、どーしたんだよ」
「……」
「……?」
「藤真、さん——」
「……!」
「……なの。」


シン、となった空間に、寿の服の擦れるような音が微かに聞こえた。

チラと目の端で確認すれば、こちらに体を向けていた寿が運転席のシートに背をあずけて正面に向き直っていた。

それでも目の前のフロントガラスに映っている寿の顔は無表情に近かったが、何度かゆっくりと瞬きをしていた。

「さっきの……」
「………」
「藤真、かよ……?」

ややあって、コクンとゆっくり首を縦におろしたとき、フリントガラスに映っていた寿の顔、片方の眉が歌舞伎役者のごとく吊り上がる。

「は……?」


ああ……、やっぱり……ダメだったか。そしてそれは……なにに対しての「は?」なのだろうか。

社長が藤真健司という、事実?それとも送ってくれた相手が、藤真さんだったということに?

このまま、また、この狭い空間で罵声を浴びせられ怒り狂った寿が勢いよく車を飛び出し、と、先に起こりそうな寿の行動を予想していた私に、意外な展開が待っていた。


「——そうか。」


まさかのその反応に、反射的に寿を見れば寿は膝の上に置かれていた車のキーが付いたキーケース。そこからぶら下がる、私とお揃いのストラップを触りながら、視線をそのキーケースへと落とし込んでいる。

そして、ゆっくりと顔を上げた寿が「そうか」と、もう一度、落ち着いた声色で言った。

そのまま、いつもと変わりなく運転席のドアを開けた寿の逆の腕を思わず私が掴んだ。驚いて私を振り変えった寿に、私は言う。

「変——、だよ」
「あ? 変って?」
「なんでそんな、普通にしてるの?」
「は? なにが?」
「……」

確かに——。なにが、……だ。普通に受け入れたのならば、それに越したことはない。

けど……、けれど、おかしい。寿がこんなことを、普通に受け流せるはずがないのだ。

「……」
「……、」

じっと寿を見据える私の視線から逃げるようにさっと私から視線を外した寿を見たとき。

なんだか言葉に表せないような、酷い喪失感が体の中を駆け巡った。


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