≪Chapter 3≫
私はそんなに弱くないから



 大丈夫だ、

 胸に抱えた何かが重いのは

 おまえだけじゃない。


 あなたのこと

 �� 信頼 �≠ヘしてるけど

 �� 信用 �≠ヘできないよ——。





 *


 静かな車内に、気まずいとはまたちょっと違うけれども逆に穏やかとも言い難いなんとも不穏な空気が立ち込めている。私はくちびるを噛んだ。もう自分を守ってくれる化粧の味はしなかった。

「——送って、もらったのか?」

 その低い声と同時に彼の頭が微かに動いたような気配を感じた。ちらと目の端で確認したけれどこちらに、顔を向けたわけではなさそうだ。彼は真っ直ぐに正面を見てただただ運転に神経を研ぎ澄ませているような気がした。

「……うん。会社の、社長さんに」

 へえと彼は相槌を打った。怒っているわけでもなく、むしろ、感心したような反応だった。

「すげーな、もう気に入られてんのかよ?」
「気に入られてるって言うか……」
「だってあれだろ?なんか側近みてえな仕事任せられてんだろ?最近」
「側近……うーん、まぁ近い事はしてるかもね」
「正社員試験受けられないのか聞いてみたらいいんじゃねーのか?」

 このとき車に乗ってからはじめて、ちらと彼が私のほうを見た。その表情は意外にも穏やかで、本来ならほっとするべき瞬間だったがなぜか私は胸がぎゅうと苦しくなる。

「あの、ねっ!寿……」
「あ?」

 何とも軽やかな口調だった。怒っているとか、そんな雰囲気は微塵も感じさせないような。私は思わず気が抜けてしまった。そして、納得する。大人になった幼馴染の彼は、意外と仕事とプライベートはしっかりと分けられるタイプの人種なのだろうな、と。会社の人ともあれば、送り迎えがあってもおかしくないときっと彼の中の物差しで測っているのかも知れない。その点は高校教師で社会経験が私より長い彼のほうが、よっぽど大人なんだろうと思った。だからこそいまならば打ち明けられる気がしたんだ。

「——つか、おまえんとこの社長よ」
「……?」
「ポルシェ乗ってんのか?」

 「通行人が写真撮ってたぞ」と浅く笑って言う彼の横顔が何だか今日は遠い人のように見える。私の気持ちが彼から離れてしまっているのだろうか。いや、そんなことはない——と、思う。
 そう言えば、ここ数ヵ月はキスはおろか、体も重ねていないことを思い出す。ああ、だからか。そうか、私はきっと、寂しいんだな。

「……車、何台も持ってるみたいだよ」
「へえ」
「好き……なのかもね。車とか、そーいうの」
「……あ、そうだ。言い忘れてた」

 話を無理やりに打ち切ったというよりは本当になにかを思い出したみたいに言った彼のその言葉により��社長�≠フ車ネタは、ここで打ち切られるかたちになった。

「車の話で思い出したんだけどな、」
「うん」
「この車、親戚の子供に譲るかも知んなくてよ」
「あ、そうなんだ」
「ああ。もうすぐ、五年になるしな。買い替えも検討してたからいい機会だ」
「ふうん。そっか」

 「まあ、俺にポルシェは買えねーけどな」と、冗談なんだか嫌味なんだかよくわからない感じの彼の声色が車内に響く。

「——で、なんだ?」
「え?」
「さっき、話の途中だったよな?」
「……、」
「あ? あのね寿って、言わなかったか?」

 ……言った。言いました、ハイ。 そうそう、藤真さんのことを、言おうとしていたんだった。
 さっきの勢いのまま言えればよかったがいまになって急に躊躇いが出て来る。けれど、いまこの瞬間に言ってしまわないともうこの先言える機会など巡って来ないような気もした。

「うん。 あのね……」

 そのとき彼の車が駐車場に入ってゆっくりと停車した。もう自宅前に到着してしまったらしい。マンションまでは歩いてすぐだけれど、この話、いま車内でしてしまうべきか、自宅に入ってからするべきなのか。そんな事を考えている私を置き去りに彼は、さっさとシートベルトを取り払って体を私の座る助手席側に向ける。

「ん? なんだよ?」

 何も知らず、いつもと変わらぬその姿に思わず私は視線を逸らして正面を見据える。そうして、小さく深呼吸をしてからゆっくりと言葉を紡ぐ。

「あの、私の勤めてる会社のね、社長さんがね」
「ああ」
「……、」
「……あ? ポルシェの社長がどーした?」

 ああ、もう彼の中で命名してしまったらしい、『ポルシェの社長』その相手があの藤真さんだと知ったとき、彼はいったい、どんな反応をするのだろうか。

「あの……」
「なんだ、もったいぶって。どーしたんだよ」
「……、」
「ん……?」
「藤真、さん——なの。」
「……!」

 シンとなった空間に彼の服の擦れるような音が微かに聞こえた。チラと目の端で確認すればこちらに体を向けていた相手が運転席のシートに背をあずけて正面に向き直っていた。それでも目の前のフロントガラスに映っている彼の顔は無表情に近かったが、何度かゆっくりと瞬きをしていた。

「さっきの……藤真、かよ……?」
「……」

 ややあってコクンとゆっくり首を縦に振った時フリントガラスに映っていた彼の顔、片方の眉が歌舞伎役者のごとく吊り上がっていくのを見て、私はまた、下を向いた。

「は……?」

 ああ……やっぱりダメだったか。そしてそれはなにに対しての「は?」なのだろうか。彼の顔が見れない。社長が藤真健司という事実?それとも送ってくれた相手が藤真さんだったという事に?
 このまま、また、この狭い空間で罵声を浴びせられて怒り狂った相手が勢いよく車を飛び出し、と先に起こりそうな彼の行動を予想していた私に意外な展開が待っていた。

「——そうか。」

 まさかのその反応に、反射的に横を見れば彼は膝の上に置かれていた車のキーが付いたキーケース、そこからぶら下がる私とお揃いのストラップを触りながら、視線をそのキーケースへと落とし込んでいる。そしてゆっくりと顔を上げた彼が、「あっそ」と、落ち着いた声のトーンで言った。
 そのままいつもと変わりなく、運転席のドアを開けた相手の逆の腕を思わず私が掴んだ。驚いて私を振り変えった彼に、私は言う。

「変——だよ」
「あ? 変って?」
「なんでそんな、普通にしてるの?」
「は? なにが?」
「……」

 確かに。なにが……だ。
 普通に受け入れたのならばそれに越したことはない。——けど、だけど、おかしい。寿がこんなことを、普通に受け流せるはずがないのだ。

「……」
「……」

 じっと彼を見据える私の視線から逃げるようにさっと私から視線を外したのを見た時、なんだか言葉に表せないような喪失感が、身体の中を駆け巡った。


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