彼女の視線から逃れるように俺はそっと視線を逸らす。すっと離された彼女の手を見送ってから俺は開けかけていた運転席のドアをもう一度締めた。バタン、と虚しくドアの閉まった音だけが、車内にこだまする。ドアを開けた事で付いていたルームランプで微かに照らされていた彼女の顔がまた暗がりではっきりとは見えなくなった。
けれど、その表情はひどく不安げでそれでいてなんだか寂し気な顔をしていたように思う。俺は先に続く言葉を言い淀んで、一度姿勢を直そうと正面に向き直した。
「実は俺も、言ってねえことがあってよ……」
小さくつぶやいたその声が、しっかりと相手に聞こえていたのかはわからない。
「言って、ないこと……?」
どうやら聞こえていたらしい。俺は何度か首を小さく縦に振りながら「ああ」と言った。
彼女がいま働いている職場に面接に行った日の出来事。それを、告白するときがきてしまった。急激に変化した互いのライフスタイル。それでも彼女は変わらずに笑顔を絶やさなかったし、しっかりと家事と仕事を両立させていた。俺の勝手な罪悪感から、ここ三ヶ月のあいだ一切、彼女には触れていない。触れていないとは言っても、頭を撫でたり、手を繋いだりはできた。けれど一緒に風呂に入ったり、キス、セックスなんていう行為は避けていた。彼女もそれには気付いていたようだったけれど、特にそれを気に病む素振りも見せなかった事で俺は彼女に完全に甘えていたんだ。だから思った。天罰が、下されたんだって……。
迎えには来なくてもいいと言われていたのにも関わらず、そろそろ帰ってくるんじゃねーかなという軽い気持ちでジムから帰った帰り道に、駅に寄ってみただけだった。そしたら、このへんじゃ珍しい高級車——外車が駅前に停まった。金持ちはいいよなぁ、なんて口をついて見ていた最中、助手席のほうから、見慣れた人物がおりてきた。
勘違いだと思いたかった。一瞬にして、背中に悪寒が走った。ただ常識的に考えてみれば仕事をしている手前、送り迎えのシーンが無いとも言い切れない。そう頭の中で無理やり整理をつけた。なのにそのあと、彼女の口から告白されたこと。その相手——高級車の運転手が彼女の元交際相手だと知った。しかもその元交際相手がいま働いている職場の社長だと言う。もうさすがに頭の整理が追っつかなくて、思わず顔を歪めてしまった。なんなら、吐きそうにすらなった。
怒りとか困惑とか、不安とか……色んな感情が頭の中を駆け巡る中で、ぽんと出てきた俺の中の矛盾点。罪悪感。俺だって、彼女に隠し事をしているじゃねーかよ……って。
マイカーで送ってもらったのがなんだ。しかも会社の上司に。まぁ、外車だけど。けど俺なんてキス——しちまってんじゃねえか、という彼女の告白を天秤にかけなくてもわかる、大きな罪。
「このあいだ、偶然会ったんだよ……」
「……」
「名前の、面接の日に」
俺がこんなんだから罰が当たったんだ。彼女は悪くない。彼女はただ普通に面接を受けただけ。好んで今の会社を選んだわけでもない。それは、側で見ていた俺が一番よくわかっている。ただの偶然だ。
「みょうじと……」
「……みょうじ? 誰、それ」
「みょうじ……なまえ、だ……」
「え……」
彼女は自らちゃんと説明しようとしてくれた。なのに、俺はどうだ?一瞬でもあの事を言おうとしたかよ。自分のことを棚にあげていつも相手のせいにして、彼女を責め立てて。
俺は、知らず知らずのうちに、最愛の相手を、服従させている——。そして都合のいいときだけこうして後出しジャンケンをするんだ。
「え……なまえ、さん?」
「ああ。この車に乗せた」
「……」
「いま、おまえの座ってる……そこの席に。」
「……」
俺は、
「あいつと、キスした——」
ズルい——。
*
「……」
「……」
しばらく続いた沈黙の中、自嘲するかのように彼女が鼻で笑った音が、横から微かに聞こえた。
「なるほどね。だからか……だから、触れてこなかったわけね」
「違げえ……!それにキスは——無理やりされたんだって。俺の意志じゃねえ」
「車も……どうせ譲るつもりだから、もういいかって、ホイホイと簡単に女性を乗せるわけね?」
「ほいほいだ?俺だってな、乗せるつもりなんかなかった。夜だったから、危ねえだろうなって」
「じゃあ、なんで言わなかったの?」
「じゃあ、なんで藤真が社長って言わなかったんだよ」
互いに正面を向いたまま軽く言い合いの流れにもつれ込む。
「言うタイミング……逃したの」
「俺も、言うタイミング逃した」
なにかを言うとそれに被せるように俺が言葉を発してしまうため、相手の勢いが都度減速する。
「ここに……座ったの?」
「藤真の外車の助手席に乗ったんだろ?」
「ふたりきりで……会ったの?」
「藤真とこうやって隠れて二人きりで会うのは、今日で何回目なんだよ?」
彼女が勢いよくバッと俺のほうに顔を向けた。それを横目に見て、俺は小さく溜め息を吐く。
「いちいち引き合いに出さないでよ」
「……」
「なにを勘違いしてるのか知らないけど、さっきだって、車内で仕事の話しかしてないから」
「……」
「少なくとも私は……藤真さんとキスなんかしてない」
「……なんだ、その言い方」
「……、」
なにも言葉を返さなくなった彼女がそそくさとシートベルトを外して、車を降りた。スタスタとマンションのほうとは逆のほうに向かって歩いて行くその姿をバックミラーで確認した俺は急いで車から出て、その背中を追い掛ける。
「おい、待てって!」
後ろから思い切り彼女の腕を引いたとき大きくそれを振り払うかのように俺は、掴んだ腕を振り落とされた。
「触んないでっ!!」
最近はこうして感情的になる事の少なくなった彼女の、久しぶりに聞いた大声だった。
「触んない……で、って……よ、」
振り落とされてしまった腕が行き場所をなくし俺はその手に拳を軽く握って俯く。
「どんなふうに助手席に乗せたの?どんなふうにキスしたの?」
「……、」
「どんなふうに……その手でまた、わたし以外の人に……触ったの?」
泣き出しそうな声だった……下に落としていた視線を持ち上げて彼女を見たが、相手は俺に背を向けたままだった。
「触ってねえ!」
「……」
「コンビニで会って、んで……駅まで送ってっただけだ」
「……」
「後部座席に乗ってもらおうと思った。勝手に、あいつが乗ったんだよ、助手席に」
「……、」
「ノーマークだった。車降りる間際で……触れてきただけだ、向こうから一瞬。」
「……っ、」
「最初で最後だって……言って。車降りてった」
その言葉に彼女が、ゆっくりと俺のほうに体を向ける。それでもすぐにふいっと俺から顔を背けてしまった。
「家、一緒にいんのが嫌なら……俺が実家にでも泊まるからよ」
「……」
「名前は、マンション帰れよ」
「……」
「黙ってて、悪かった。」
そう言い置き俺が彼女に背を向けて車の方へと歩き出したとき「ねえ、」と遠慮がちに俺に声をかけてくる最愛の幼馴染。
ゆっくりと立ち止まって、振り向かぬまま次につづく言葉を待った。
「一緒に、帰ろう?」
耳元で囁かれたような気になってしまうほど、柔らかくて甘い、愛しいその声。胸がつまって、泣きそうになる。
「……」
「……寿。一緒に、帰ろうよ——」
俺は彼女に背をむけたまま「ああ」と短く返し車に向けていた足を、マンションの方へゆっくり向けた。しばらくしてから俺のあとをついてくる彼女のヒールの音が聞こえてきて、ほっとした。
マンションに入ってから、洗面所で手を洗っている彼女の背後に立つ。脱衣所の扉に寄り掛かるようにして立っている俺の気配に気付いた彼女と洗面所の鏡越しに目が合う。
「藤真の、ことだけどよ……」
「ん」
言って相手はまた水の流れている洗面台の蛇口に視線を落とした。ややあって、蛇口から流れる水の音が止んで、そばにあったタオルで手を拭く彼女の姿を俺は見つめる。
「知らなかったんだろ?」
「うん」
「じゃあ、仕方ねえよな」
「……、うん。」
振り向いた彼女が俺を見ずに目の前を横切って脱衣所を出て行こうとする。その手を思わず引きそうになったが『触らないで』とさっき言われた言葉がえらく俺の中でダメージを受けていたようで手を伸ばすことが出来ずに脱衣所を出て行った彼女の背中に向かって声をかけた。
「気に、病むことねえよ」
彼女がぴたりと立ち止まる。けれど、振り向く気はなさそうだった。
「お前が頑張ってんの、邪魔したくねえしな」
「……」
「ただ——送ってもらったりすんのはよ、」
「……」
「出来るなら、断って欲しい……」
彼女は「ん」と短く言い置いて、着替えにいくためか、寝室に入っていくと、静かに寝室の扉を閉めた。
TOP