≪Chapter 4≫
日々、君を想ってる
 


 目の前にあるものが世界のすべてじゃない。

 圧倒的に自分を選んでほしいと思うのは

 ただの我儘。

 例外、特別になりたがるのだって

 ただの我儘なのだ。

 好きなのだから仕方がないって

 欲に目を瞑るのは簡単だけど

 心は、落ちていく一方だ……。





 *


 私は週明け、みょうじさんに相談をして派遣会社と話し合う時間を設けてもらった。
 その話し合いの中で、勤務日数を少し増やし、休日出勤の許可も、もらうことが出来た。なので最近では、休みの日も会社に出勤することが多くなっている。
 社長も休日出勤をしていると知ったのは、私が初めて休日出勤をした日。駐車場に、社長の車が停まっているのが見えたことで、それを知った。
 普段彼は、会食や会合に追われている身なので休み期間中に、まとめて通常業務をこなしたいのだろう。けれどよく気にかけてみれば社長の車は毎日駐車場に見えるので、本当に多忙なんだなと体調を気に掛けて、すこしばかり胸が痛くなる。
 そんな今日も休日出勤しているので、さすがに社内に人気は少ないけれどビル内の警備のためなのか時おり警備員らしき人物と廊下ですれ違う。最近なんとなく物々しい気がする。年の瀬が迫っているというのもあるのかもしれないけれども。

 遠くから見かけた藤真さんはいつも険しい顔をしていた。動物的勘——なんだか嫌な予感がするけれど、それでもそんな想いは胸に秘めて、私は日常をこなしていくだけだ。

 仕事に一区切りつけて、帰ろうと部屋を出た。時計を見ると、まだ二十時にもなっていない。
 藤真さん、まだいるのかなぁ。お茶くらい出してから帰ろう……。そう思ったのは単に、冒頭で話した通り、彼の体調を気に掛けていたからだ。
 最上階にあがり熱いコーヒーを淹れて社長室の扉を叩く。応答はなく、シンと静まり返った静寂だけが私に返ってきた。あれ、いないのかな……扉は床と密閉していて、当たり前だが光もなにも漏れてこない。
 諦めて帰ろうとしたとき「入れ」という声が、壁に設置されたインターホンから聞こえてきた。

「失礼致します。コーヒーをお持ちしました」

 扉を開けるとふわっ、とたばこの匂いがした。あれ?やっぱり藤真さんってたばこ吸う人だったんだ。いや……違うと思う。たばこを吸う誰かが出入りしたのだろう。なんとなく、勘だけど。
 そんな事を思ったあと部屋の中が薄暗い事にも疑問を抱く。彼は、社長席のデスクライトだけをつけて、革の椅子に座っている。ブラインドから街の光が細く射しこんでいる。

「社長、あの……」
「名字か」

 声で判断したのだろう。彼は私を見もせずに、うつむいて黙りこむ。
 なぜだろう……なんだか弱っているように見える。疲れていて、傷ついているかのように——。

「土日だっていうのに、えらく仕事熱心だな」
「いえ……それより社長、顔色が……」
「……こう暗いのに、顔色なんて見えるのか」
「はい。なんだか……」

 ——人でも殺してきたのではないか……。そう思ったのは、なぜかは私にもわからない。けれどそれほど、酷く疲れている様子が伺えたからだ。でも、ふしぎと恐ろしいという感覚はなかった。
 私は、デスクの上にコーヒーを置いた。社長は変わらずにうつむいている。
 彼は今、きっと、ひとりになりたいのだろう。だがひとりにはしないほうがいい気もする。でもそれも私では意味がない。誰か彼にとって必要な人でなければ。

「なんだか、なんだ。続きを言え、どう見える」
「……なにか、悩み事があるように見えます」
「……そうか」

 小さくそう肯いて彼は目を伏せる。端正な顔立ちが前にも増して意志的な強張りを感じる。意図的に思案にふけっているかのような私に踏み込ませない、近寄りがたい威圧感を発している。

「社長はとても、お疲れなのでは……?」
「……」

 彼は下ろしていた目蓋を持ち上げた。暗い大きな瞳。光がなくて水に沈んだガラス玉のようだ。

「今日はもう帰られて休まれたほうがいいと思います」
「お前のことだ」
「え、」
「差し出がましいことを言ってると承知の上での忠告なんだろ?」
「はい、」
「……」

 社長は低く笑った。それは以前にも見た歪んだ笑みだった。

「抱擁が、ストレス解消になると言ってたな」
「はい、試されてみてもいいかもしれませんね」

 無表情を装うと心も無感動になる。しかし社長も肌は違うらしい。そこは私たち、普通の人間と同じようだ。でも、明らかに藤真さん、いつもと違う。その異変さに首筋の肌にぞわぞわと粟立つものがあった。
 社長は、机に手をついて立ち上がった。座っている時は彼の大理石のような顔をデスクライトがやわらかく照らしていたが立ち上がると光が届かず黒い人影がそこにあるだけだ。ライトの照った部分だけスーツの色が確認できるけれど、ほかの色はすべて暗闇に沈んでいる。その美しい容貌が見えなくなるとその人影は突然粗野なものに感じられた。備えられた仕草のスマートさや、知性が拭われて、手負いの狼のように——。

「……」
「……」

 人影はゆっくりこちらに歩いてきた。こちらに歩いて来ながら卓上に滑らせた手が、かちゃんとコーヒーのカップを取り上げる。けれどすぐに、その手を離して私にだんだん近づいてくる。私には彼がただの人影にしか見えないが彼からは私の表情はよく見えるのだろう。いつもは目を逸らす彼が、私の顔をじっと見つめているのがわかる。
 自分の五感のうち、触感だけが機能していた。視線が顔に刺さる感覚。やがて、嗅覚も、人影の存在を認知する。淡い石けんか香水と、あと……
誰かの、たばこの匂い。

「名字」
「はい」

 もしいま……抱きしめられたら、きっと死んでしまうと思った。気道が震えていて息苦しいが、それでも私は冷静なふりを続けていた。むしろ、本当に冷静だったのかもしれない。体はこわがっていても、頭では藤真さんの動向を探っているのだから。

「……」
「……」

 社長は私をじっと見つめていて、なにか言いだそうとしたまま口を噤んでいるようだった。息を殺す気配が小さな喉の音になって聞こえてくる。

「綺麗だな——。」

 ようやく響いた言葉がそれだった。そして藤真さんの指先が私の首元に伸びてくる。きっと私が身につけていたネックレスのことを言ったのだろうと思った。彼氏——寿から、クリスマスにプレゼントにもらった彼の誕生石が埋め込まれているネックレスに触れようとして、その綺麗な指先はそれに触れぬままさっと引き戻された。すこしの沈黙。そのあと、ぽつりと藤真さんが言った。

「……忠告どおり、今日は休ませてもらうよ」
「……、はい」

 力なく私が肯くと社長は顔を背けて再び黙っていた。何だか私の反応を待っているようでもあった。
 彼が横を向いたことで、ブラインドごしの細く鈍い光が彼の鼻筋を照らしている。いつもの藤真社長だ。スマートで、知的で、感情のない社長。さっき顔が見えなかったときは全てが剥き出しになっているかに思われた。殺気が、自分に向けられている気がした。そんな数秒前のことがもう、まぼろしであった気がするほどに、いまはもう、いつもの社長だった。

「——やっぱり、」
「……?」
「顔色ひとつ変えないんだな」
「……、」
「なるほど、優秀な部下だ。」

 微かに自嘲するように言い添えて……彼は私を通りすぎ、かつ、かつ、と革靴の音を鳴らして、コートスタンドから、上着を取った。ドアノブに手を伸ばしたとき、する、と衣擦れの音がした。

「先に帰る。ご苦労だった」
「……はい。どうか、お気をつけて」

 藤真さんは振り向きもせず扉を開けて出ていった。扉が、音もなく閉まる。無意識に彼の足音を聞こうと耳を澄ませたが防音処理や通路の絨毯が高品質で、それらしい音は聞こえてこない。
 私は、しばらく立ち尽くしていた。自分に何が起きたのかを考えていた。

 ��やっぱり、顔色ひとつ変えないんだな……��

 やっぱりって……なにがやっぱりなんだろう。そんなこと、決してないのに……。
 私は、動揺が顔に出やすいほうだと思う。そのことは彼も気づいているだろうに。

「……」

 デスクライトの電源を落とし、すっかり冷めたソーサーとカップに手を伸ばして一度も手を付けられなかったそれを持って給湯室に向かう。洗い物をして、自分の仕事部屋に戻り、コートを着てバッグを肩に掛けた。リップグロスを直そうと、コンパクトの鏡を覗きこむと疲れ果てて蒼褪めた自分が映っていた。血の気がなくて、無表情で、冷酷そう。こんな顔をしていたなんて……感情が出ないように武装している顔。まるで藤真社長のようだ。
 社長はこれを常にキープしている状態なのだろうか。だとすれば、どんなに苦痛なことだろうとぼんやりと想像した。


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