≪Chapter 6≫
信じられないのはきみの所為
 


 今ならまだ引き返せると思って

 それから、でもあとで

 後悔するんだろうな、と。


 経験を重ねる毎に視界はぼやけていく。

 本当に未来は変えられるのか。

 感情がなければ、もっと簡単なのにな。





 1月 冬
― 1月 冬 ―


 年が明けて二週間。きょうは土曜日。
 私にとっては、今年初の休日出勤だ。社長とのホテルのロビーで起きた出来事。寿と久しくくちびるを交わした出来事。そんな年の瀬に起きた、クリスマスイブの��ふたつ�≠フ出来事もいまではもう、遠い昔のことのようにすら感じてしまう。
 もといそれは、私が頭の中でそのどちらも消し去ってしまいたいと思っているからなのかも知れない。

�� 二兎を追う者は一兎をも得ず ��

 欲張るとどちらも得られない、失敗するという意味だ。したがってビジネスにおいても日常生活においても同時にふたつ以上の感情をうまくコントロールするなんてことは私には到底無理な難題だったのだ。きっと、藤真さんのような人なら、出来るのだろうけれど……。


「社長、名字です」

 ノックしてから「入れ」という声を確認し扉を開ける。一礼して「失礼いたします」と言い扉を閉める。この一連の流れも、このところすっかり板についてきた。社長をとても恐ろしいと思っていたかつては、何か粗相をしでかしはしまいかと気が気でなかったけど。だが社長を直接恐ろしいと思う認識は薄れたが、傍につくことが増えるにしたがって彼の仕事の鬼ぶりを間近で見ることになり、別の形で畏怖の念が強まった。

 室内はなんだか湿度が高かった。顔を上げると社長がバスローブ姿だったのでぎょっとしたが、顔に出さぬよう努める。実はこのビル、最上階にトレーニングジムがあるのだ。かつてであったら取り乱した気持ちが表に出ていたかもしれない。けれど、もうこれも慣れた。そもそも私が慌てる必要なんて一切ないのだけど。

「できただろうな」
「はい。」
「寄越せ」
「はい、こちらです」

 フー、と胃の底から細く長いため息をついて、タオルで髪をぬぐった社長から、植物を思わせるシャワージェルの香りがした。シャワーを浴びたばかりらしく、湯気と熱気が伝わってくる。

「……」
「……」

 ノートパソコンの液晶を眺める横顔が私の頭の上にある。目元は、視界に映っていない。その下から高い鼻筋。無表情なくちびる。頬と顎。目線を変えずパソコンを眺めるふりをして視界の端で彼を見てみた。とても、近い。息遣いが感じられそうなほどに。

「……よし、いいだろう」

 声を発する前に、息を吸う気道の音が聞こえてくる。右の頬が熱いのは彼の体温がうつるから。私を見下ろす冷たい瞳と目があった時、まずいと思った。抑えていたのに動揺が顔に出てしまう。急いで目を逸らしたが、かえって逆効果だった。しかもその間も、すぐ隣に社長がいるのだ。

「……、では、わたし、戻って続きを——」
「……震えて、どうした」
「——! い、いいえ、べつに!」

 かあ、となる。顔から火が出そうだった。
 さっきはこんな状況にも慣れてきた、と思っていたけれど私なんか、まだまだだ。
 私の手のひらに収まるサイズのマウスが社長の手の中にあると子ども用のそれみたいに見える。ごつごつした骨と血管の浮き出た褐色の手。彼がかち、かちとマウスボタンを押すたび心臓にどきどきと響くようだ。

「この数字を訂正してくれ」
「は、はい」

 かちかち……訂正箇所を拡大したあと彼は無言で、私にマウスを譲る。社長の言ったとおりだ。わたし……震えている。
 マウスに指を添えるとそこは微かな手の温度が刻まれている。鼻腔にはずっとシャワージェルの匂いがするし耳や横顔には社長の湿度と気配とが直接伝わってくる。目を頭上斜め右にやれば彼の端正な顔があるだろう。だが、そこは決して見ない。こんなに近くで見てしまったらきっと心臓が止まってしまう。なんか、もう私……ただの変態じゃないか、こんなの。

「——普通にしろ。」
「え」
「なにも、そこまでお前がやる必要はない」
「……」

 社長の視線が、液晶画面から私に移されたのがわかる。肌に視線が突き刺さる。その気迫に負けてしまいそうになる。ぴんと意識を張り詰めて、いま彼が洩らした言葉を反芻した。

「……なんの、ことですか?」
「純情ぶった演技や媚態は結構だということだ」
「……」
「女は、すぐにそうやって見せるからな」

 「貸せ」と、淡々と言ったあと、社長は私からマウスを取った。

「ここも修正を頼む」
「……」
「グラフと連携してるな。よし、これでいい」
「……」

 一瞬、社長の言葉が頭をするするとすり抜けていった。ぴんと張ったはずの意識がたゆんでしまった。すぐに息をすこしだけ止め、小さく深呼吸する。ああ、この人はきっと本気の��恋�≠ネんてしたことがないのだろうな。
 そのとき、扉をノックする音が響いた。社長は私から体を離し「入れ」と言った。電話が掛かってきたらしく、その場で受け取って手短に会話をしている。そのあいだに、すっかり私の心は落ち着きを取り戻した。社長みたいに無表情になっているのが自分でもわかる。

 改めて藤真社長はすごいなあと思う。本当に、なんでも効率よくできてしまう人だ。
 藤真社長にかかれば、手下の不埒な興奮など、ひと言で鎮火されてしまうのだから。


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