私を傷付けられる刃物を持っているなら
いっそのこと、もう二度と
立ち上がれないくらいまでずたずたに
引き裂いてくれればいいのに——。
*
週明け——その日は社長の顔を一度も見ることなく個室で通常業務に当たっていた。パソコンのふちに貼った、やらねばならない業務に優先順位をつけてメモした付箋も、残すところあと一枚。
終業時刻は過ぎてしまったけれど、今日はもうすぐ帰れそうだ。
お腹、空いたなあ……そういえば今日ランチの途中で電話が掛かってきて仕事をしていたのでそれから食べれていなかった。集中しているときは何にも感じないのに、気が緩むとすぐこうだ。
給湯室で、温かいお茶を淹れてこようと部屋を出ると営業課のオフィスの騒がしい様子が聞こえてきた。どうしたのだろうと顔を出す。うろたえる顔ぶれが私に振り向いたときすごく嫌な予感がした。
「株価が暴落してる!」
曰く、その矛先が藤真社長、ひいては、本社でなにがあったのかはわからない。けれど——
「社長と連絡が取れない!」
との話を考慮すれば、何を言っているのかよくわからなかったが心臓のどきんどきんと鳴り響く鼓動が時限爆弾のように感じられた。手足から、すっと血の気が引き、体中が冷えていく。
私は相当な状態であったらしい。会社のことで慌てふためいている人たちに、心配されてしまうほどに。
本社へ社員を派遣して様子を見にいこうと相談が始まったので私は思わず現場に行きたいと主張した。女性の身で、しかも派遣社員に……なんて声もあったのでやや揉めたが、勢いで異論を封じ込める事ができた。けれどその数秒後、すべての懸念が杞憂であったと証明される。
社長が、みょうじさんを連れて姿を現したからだ。
「連絡はしたはずだ。いってなかったのか?」
と、社長は怪訝そうに眉をひそめた。株価暴落事件よりも、社員の頼りなさと伝達力の乏しさに怒りを感じたらしかった。
社長がいくらムスッとした顔をしても今ばかりはこわくない。本当に、元気そうでよかった。
��株価暴落�≠ニいうのも大げさな表現で、矛先は藤真社長でもなんでもなくこういった事は実情でよくあったらしい。
本社で無駄に足止めを喰らわされて、そちらのほうが大変だったとみょうじさんは語ってくれた。遠巻きにその様子を眺めて、ほっと安堵する。
だが、ここは子会社とはいえ基盤となっている大元が大手企業なのだと改めて思った。子会社で末端の会社のようでいてやはりここは大手企業の本社との橋渡しなのだ。
今回は大丈夫だったが次似たようなことがまた起こるかもしれない。そのときは、今回のようにすべてきれいに収まるともしれなかった。よく、ニュースなんかでぼーっと見ていた、大手企業の不祥事やら倒産やらという内容が脳裏を掠める。そう思って、くちびるを噛む。
とにかく、私も仕事に戻ろう……。
そっとその場を離れようとしたとき営業課課長が「名字さんなんて現場に駆けつけようとしていましたよ。こういうとき女性のほうが強いですね」なんて言ったので、どきっとした。
そのとき、ゆっくり私に目を向けた社長は眉を寄せ、瞳に驚愕の表情を浮かべていた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに顔を背けられたけれど。
なんだかとても、気恥ずかしいし、いたたまれない。私は一礼して、そそくさと、その場を後にした。
*
最後の仕事は、思ったよりも手間取った。ほとんど、上の空だったからかもしれない。
なんとか片づけて付箋を棄て、荷物をまとめてあくびを噛み殺す。お腹空いた……早く帰ろう。今日は寿が実家に行って、そのまま泊まるとメッセージが入っていた。明日は実家から職場に行くことになるであろうから今日の夕食の準備はいらないだろう。家に昨晩の残り物もあった気がするから、さっさと食べて、そうしたら、早いところ寝てしまおう。今日はなんだか疲れてしまった。
仕事部屋を出て退勤したところエントランスで藤真社長と鉢合わせた。社長は不機嫌そうな顔をしている。私をじろっと睨んで、なにか言おうと口を開いたが面倒になったのかそのまま噤んだ。
「……社長。お先に、失礼いたします」
「ああ……気を付けて帰れ」
「はい」
彼は、駐車場のほうへ歩いていった。私はその背中を見送ってから駅のほうへ歩き出した。街路樹に絡みついた青い電飾が、煌々と輝いている。黒い夜空、冷たいビル街の電灯、木々のイルミネーション。
冬の凍えそうな、だが美しい光景を眺めながら白い吐息を洩らす。すると、すう、とぴかぴかの外車が路肩に停車した。どき、としながらウィンドウが開くのを見ているとやはり藤真社長が暗い車内から顔を覗かせた。
「ついでだ。乗っていけよ」
「社長……。ありがとうございます、でも今日は大丈夫です」
よく後ろ姿で私とわかったなと思ったが、彼にしてみれば人の見分けなど造作もない事だろう。それでも今、仕事で疲れた私にはそんな気遣いがちょっぴり嬉しかった。
「妙な気遣いはいい。早く乗れ」
そう鋭く睨まれては遠慮するすべもない。私は小さくなって助手席に座った。扉を閉めると車が走り出した。すっとする、青い匂いがする。ときどき藤真社長からすれ違いざまに感じる香りだ。これが社長の匂いなのかなと思うと、なんだか、胸がじわりとあたたかい。
「あの。今日は、色々あって疲れたんじゃ?」
「色々あったのはお互い様だろ」
社長がしゃべるたびに口元が動くことで、彼が血の通った人間なのだと思うことができる。黙り込んでいるとこの薄暗い車内ではまるきり彫刻像だった。その横顔は言うならば古代ローマの金のコインに刻まれているようなシルエットだった。
「空腹なのか」
「……! どうして、わかったんですか?」
社長は無視を決め込んで答えてくれない。
やだな。お腹でも、鳴っちゃったのかな……。
「……食事でもしていくか」
「え……っ、でも、」
「いやならいい」
「……」
——え。いやなわけが、ないじゃないですか。そう言いかけて口を噤んだのは藤真社長がすごく不機嫌そうだったから。これだ。いつもこの雰囲気に圧倒されてしまう。社長自身もその威圧感に私が気圧されていることは知っているんだろう。そうやって思い通りに相手を黙らせるのだ。でも自分の意見は伝えなければならない。いつまでもこのまま怯えてばかりいるのはいやだった。
みょうじさんみたく、かっこいいキャリアウーマンになるためには。私は小さくうつむいた。
「——食事、ぜひ連れて行ってください」
シンとした車内の静寂が、私の声のあとに深く広がる。社長はなにも言わないままウインカーを左に出して、ハンドルを回しルートを変更した。
*
連れて行ってもらったのは白金台の結婚式場で有名なホテルだった。その中にある創作フレンチの華やかな個室に通されて、料理をいただいた。
「……!」
……おいしい。すごく。今日は帰ったら夕べの作り置きの冷たい料理で済まそうと思っていたからこんなにおいしくてこんなに温かいものを食べられるとは、現実と想像のなんという差だろう。それに、あの藤真社長こと、藤真さんが向かいにいて、グラスの冷たい水を飲んでいるのだ。
藤真社長とこんなお洒落なお店で食事なんて、とても息が詰まってしまうと思ったが、おいしいものはおいしかった。
普通においしいというのではなくてそれはもう驚愕に値するおいしさだった。
「口に合ったようだな」
「こんなにおいしいもの、生まれて初めてです」
「……きみは、いつも大げさだな」
眉間に浅いしわを寄せて彼が言う。きみ……。そっか、いまは仕事モードか。まだ、藤真社長の中では。そうだよね。こんなの彼からしてみれば仕事の一環なのだろう。
それにしてもこんなにおいしいものなら寿にも食べさせてあげたいな。だが彼は彼女が元交際相手とこんな食事をしたと知れば卒倒するだろう。いや、今の彼はもう気にも止めないかもしれないな。そんな事を考えている間に夢のような料理は終わり、濃いコーヒーとチーズが出てきた。
「なにか欲しいものがあるのか」
「……?」
コーヒーの重い湯気が彼の鼻先を掠めた。互いに食後のコーヒーを楽しんでいる間そこに訪れる静寂は彼と迎えた静寂の中で唯一心地よいものであると言えた。
「なにかほしいものがあるのか、と訊いてる」
「……」
仕事場の備品でも、買ってくれるのだろうか。唯一思いつくものはブランケットだが別にそんなのは自宅にもある。そういえばある計算ソフトがほしいのだが、いまのところは電卓で間に合わせている。
特に申請するほどほしいものなど思い当たらず私は首を横に振った。
「すべて事足りてますよ。とても快適です」
「そんなことは聞きたくない、言ってみろ」
「へ……?」
「お前は、なにが狙いなんだ」
瀟洒なジャガード織のテーブルクロスに彼の上半身の影がぼんやりと落ちている。彼はテーブルの上で両手を絡めそこにくちびるを隠している。
あ……。封筒に入った現金を渡されたときと、同じシルエットだ。むろん、あのときはそのくちびるは、隠されていなかったけれど。
深く思案する暗い眼差しが卓上のキャンドルの炎を宿していた。まばたきの少ない瞳の、なんと美しいことか……なんて。
「あ、あの……」
「どうして俺に取り入ろうとする」
「……」
ずき、と胸に痛みが走る。さっきまで、すこしだけ親しみのある雰囲気があると思ったのに。
そんなわけがない。昔とは違う。今のこの人は普通の男性ではないのだ。
「責めてるんじゃない。だが正社員の話も断ったそうだな」
長い睫毛に縁どられた繊細な目蓋がまばたき、その下の瞳がたくさんの光の粒を照らしている。キャンドルの炎が彼の顔のしわや影をぼんやりと消していてまるで優しい表情をしているかに見えた。こんな尋問を受けているときなのに、それはいつも鬼のような彼と向き合っている私にとっては、宝物のような光景だった。
「到底理解できない。野心がない人間を信用することはできないぞ」
「……」
「中途で入社できた分際で……なぜ正社員の道を断る?」
「……」
「なにが狙いなんだ。模範的解答じゃなく真意が知りたい」
「……、」
野心がないなんて、とんでもない。わたしは、きっと、とっても欲深い——。
テーブルの下で気づかれないように体にくっと力を込めた。嘘は、つきたくない。
「私は——」
「……」
「藤真さんの傍で、仕事がしたいだけです」
「……。」
しまった——思わず��藤真さん�≠ニ呼んでしまった。顔をあげるのがこわくて、そのまま私は、言葉を続けた。
「正社員のお話を受けていたら、子会社に出向しなければならないと、聞いていたので」
やや流れた、重々しい沈黙。それを破ったのは藤真さんだった。
「俺の傍で」
……と。
そして彼は、ふ、と鼻で笑った。
「なぜだ?」
「そ、それは……」
あなたを、
藤真さんを、慕っているからです——。
「尊敬、しているからです。お手本にしたいからです……」
嘘ではない。本心だ。けれどなぜ……こんなに胸が張り裂けそうなのだろう。
「それがよくわからない」
彼は顔を背けた。ひそめた目元に痩せた涙袋が浮かんでいる。奥歯を噛み締めた表情。キャンドルの優しげに見える光はもう届かず、彼は元来のきびしい顔に戻っていた。
「なにがですか?」
「俺を手本にするなら迷わず正社員の道を選ぶはずだ」
「……、」
「……出る。行くぞ」
銀盆に請求書を乗せて支配人がやって来て藤真さんはサインをして支払いを済ませた。そのとき見えてしまった、私が空港で彼に返した万年筆がすっと彼の懐に仕舞われたが——。
*
レストランを後にしホテル内の臙脂色の絨毯の敷き詰められた共廊を無口なままで歩いた。
クロークに預けていた上着を受け取り駐車場へ通じる誰もいない通路に出たとき藤真さんが息を殺す気配が伝わってきた。
「——仮に、いまここで」
「……」
「部屋を取ってあると言えば、お前は付いてくるか」
��お前��——。
懐から車の鍵を取り出しながら、そう彼は低く囁いた。冷たい横顔に、なにかを秘めた力強さを感じる。
わたしはうつむいた。とても驚きながら……。けれど深く心が沈んでいて、心の反応が、とても鈍い。
「……いいえ——。」
「……そうか。」
彼は顔を背け、私より一歩先を歩き出した。
「よくわかった。」
「……」
「ひとまず、お前を信用しておく」
「……。」
その背中が寂しげに見えたのは、わたし自身がそうだからだろうか。
�� いいえ ��
嘘、ではない。ずきんと胸に自分の答えが突き刺さっている。たぶんこの痛みはしばらくは抜けないままだろう。
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