あるはずないって誰よりも分かっているのに

 君が僕に向ける全ての中にいつのまにか

 『 愛 』を見出だそうと、必死になってるよ。


 言わなきゃいけない事がたくさんあったのに

 本当に必要なときに役に立たない言葉なら

 ぜんぶ、捨ててしまおう——。





 2月 冬
― 2月 冬 ―


 バレンタインデーの当日は、土砂降りだった。雨の降る土曜日。大粒の雨が外の景色を水の膜で覆っている。常に外の排水溝には渦ができ雨どいは、どんどんと大きな音を立てている。

「名前」

 ぼーっと窓際に立って、窓を伝う雨粒を眺めていた私の背後から名を呼ばれる。ゆっくりと振り返った先——間もなく練習に向かうであろう寿の姿が映る。
 彼はソファに座ったまま、リモコンでテレビを消した。リモコンが目の前のテーブルに置かれる動作が、やけにスローモーションに見える。

「大丈夫かよ」
「……え? なに?」

 体ごと彼のほうに向ける。彼は、ソファの背に両腕を豪快に伸ばして私を見る。

「ここんとこ、ずっとぼーっとしてんな」
「え、そうかな」
「そーだろ」

 と、彼はあくびをひとつした。「あいかわらず仕事、忙しいみてーだしな」と伸ばしていた腕を膝の上に乗せた彼が猫背になってその両手を交互に絡める。

「ああ、うん。忙しいかもね」

 なぜか気まずくなった私はそっと彼から視線を解いた。

「……座れよ、」

 低く通ったその声が耳に痛いほど響く。私は、視線を逸らしたまま、彼とすこしだけ距離を取るようにしてソファに腰をかけた。

「なんか、悩みでもあんのか?」

 そう言ってわずかに私の顔を覗き込む彼。私はすかさず「ううん、ないよ」と答える。
 寿と久しぶりにキスをした日。あのとき言われた言葉の数々。彼の今の心境がどうなのか、私は自分の中でまだ消化しきれていない。それを掻き消したいと思うからこそ相も変わらず仕事に没頭した。
 しかも、藤真さんを、勝手に心のよりどころにしつつあることを、寿にはもちろん言えるはずもなく。現に私と寿はあの日から一度も触れ合っていない。キスを無理やりにせがんできて私が寿を蹴り飛ばした——なんて出来事でもあったのならまだよかった。しかしそんなことが起きる予兆もなく彼はまた一切、私には触れてこなくなった。

 そして最近、寿について気付いたことがある。彼は私が藤真さんと同じ環境下で仕事をしていることを今はなんとも思っていないということだ。
 仕事を辞められるのかと聞いたわりには、その話はもう振ってこないし、私が仕事に行くのを、普通に送り出す彼を見て、そう感じた。
 あとはやっぱり寿自身の事。元婚約者とキスをしたことを今でも悩んでいて私のことどころではないのだろうと。それは同じ屋根の下で暮らしているからこそ見える彼の表に出ない隠れた部分。

『なんか、悩みでもあんのか?』

 この言葉の背景に『藤真絡みだろ』という念がまったくもって感じられない。だからこそ分かったのだ。寿はいま自分の気持ちを整理することで頭の中が、いっぱいなのだろう、ということが。

「大丈夫、私は(・・)。」
「……」
「仕事、楽しいんだよ。認められたいし」
「ふうん。ならいいけどよ」

 彼は言ってすくっと立ち上がる。ちなみに寿に正社員の話を断ったことは、まだ伝えていない。

「じゃあ俺、行って来るな」
「うん。気を付けてね」

 彼が玄関に向かうために、キッチンの脇を通る間際、ぴたっと足を止めた。不思議に思って彼の動向を伺う。

「今日……バレンタインか」
「あ、うん……バレンタインだね」

 なぜかそのまま沈黙が続く。彼の目線がチラとキッチンテーブルの上に向いたのを、頭の動きで確認した。

「……今年も俺には(・・・)ねえのか」
「え?」
「いや……チョコ。」
「……」

 キッチンテーブルに置いたままでいた、昨日の仕事帰りに買って来た洋菓子店の袋。瞬時に彼がその中身がチョコレートだと言うことを察したのだろうな、と思った。

「ごめん。会社の人(・・・・)にしか……用意してない」
「そっか。」

 ふう、と小さく溜め息をついてから、私に背を向けたままで、彼が言葉を続ける。

「今日も遅いのか?久しぶりに外に晩飯でも食いに出るか?」
「いや、遅いと思うから、また……連絡するよ」

 彼は一瞬だけ私を横目に見て「了解」と、短く言い置くと、そばにあったスポーツバッグを肩に担いで玄関に向かった。
 ほどなくして、重い玄関の扉が閉まりバタンという音がここまで微かに聞こえてきて私は大きく溜め息を吐いたのだった。


 *


 その日は傘を持っていても落下する雨粒のしぶきが飛んで、体中が湿ってしまった。
 赤やピンクや金色の、バレンタインイベントのポスターが店の軒下で灰色の雨水に阻まれ台無しになっている。
 会社についてタオルで濡れた衣服や髪を抑えていると大きなくしゃみが一つ飛び出した。そして軽く身なりを整えてから、社長室に向かった。

「今日は渋滞がひどいな」

 ブラインドごしに窓の外を眺めて、藤真社長はつぶやいた。いつもどおりのきちんと整った身なりと髪をしている。
 社長はたぶん、自宅から車でここにくるまでに屋外に出ずに済んだのだ。会社の駐車場も屋根があるし彼が濡れる事はない。私だけがぼさぼさの頭をしていて、なんだか恥ずかしい。

「雨ですし、週末ですしね」
「くだらないな」

 ちっ、と鋭く舌打ちをするのが聞こえてきた。届くはずの急ぎの封書が、いまだ渋滞のさなかにあることを思えば彼の怒りももっともだ。
 社長は不機嫌だしチョコレートなんて渡したらその場で窓からポイ捨てされそうだなぁとか思いながら、それでもこんな日に社長のそばにいれることに、なんだか優越感に浸ってしまう。

 今日は半日で仕事を終わらせるとさっき言っていたから、こんなふうにしていられるのも、あと僅かだろうが。
 きっと社長はこのあと、チョコレートをくれるような女性と、会ったりするのだろうけれども。

「あの、できました」
「見せろ」

 つかつかとこちらに歩いてきて、彼は印刷した用紙を私の手から奪い取った。いらいらした顔で読みながらまたつかつかと社長席まで歩いていき机上に手を付いた。あきらかに、怒り心頭な顔をしていて、恐ろしい。その矛先が私の渡した仕事ぶりによっては、こちらに向いてくる可能性が、十二分にあるのだ。

「……」
「……まあいいだろう」

 仏頂面で紙から私に視線を向ける。思わずほっとして胸を撫で下ろすと、彼はいやな顔をした。

「ご苦労だった。今日はもう上がっていいぞ」
「もう他にすることはありませんか?」
「ない。帰って休養をとれ」
「……」
「残業も、休日出勤も結構だけどな、俺はそこを評価しない。体調管理を怠るなよ」
「あ、はい……」

 ……どうしよう。社長は私に顔を背けて机上でなにか書き物をしている。チョコレートをさっと押し付けて帰りたいけれど、いま渡しても迷惑にしかならなさそうだ。私が選んだものなんて彼が好きなわけがないのだから。
 普段お世話になっているお礼のつもりだったがここにひそかに籠めてしまった色んな感情が渡すときの動揺で見破られてしまう気がする。
 座ったまま考え込んでいる私は、彼の目にぐずぐずしているように見えたのだろう。私が前に、空港で渡した万年筆のキャップを締めて彼は私に顔を向けた。

「どうした、帰らないのか?」
「あ、いえ……! あの、社長……」
「なんだ」

 うわ……めちゃくちゃ面倒くさそうな顔。目を伏せたかに見えた長いまばたきのあと、彼の瞳が私を映す。どきん、どきん、鼓動が、ひとつずつ規則的に胸を叩いている。
 寿に限らず今まで生きてきた中でバレンタインの日に誰かにチョコを渡すだけで、ここまで緊張するのは初めての出来事だった。平静を装わねばならない。呼吸を落ち着けて。顔に感情が出ないように。

「あ、あの……チョコレート、お好きですか?」
「……」

 どきん、どきん。表向きは無表情を守り貫いているけれど、その堤防がギリギリのところで溢れかえりそうなことが、自分でもよくわかる。
 もし、いまなにかひとつでもショックなことがあれば、きっと冷静でなんかいられなくなる。

「好きじゃない」

 社長は一度まばたきをした。そのまましばらく目蓋を上げる事はなかった。こんどこそ目を伏せたのだ。

「……そう、なんですか、」
「もし上司のために用意してあるなら、他の若い者にでも渡せばいい」
「え、ほ、他の若いの?」
「毎朝親しげに話しているだろ。もう彼にはくれてやったのか」
「……、」
「……雨がじきにやみそうだな」

 抑揚のない声色で、彼は囁いた。胸をざわめかせた鼓動が、いまでは動悸になって、体に影響を与えている。
 とても意気消沈しているのに、喉の下に抱えた激しさが私の余裕を奪っている。

「俺も書類が届き次第きょうは退勤する。はやく帰れ」
「——はい、」

 その言葉に力なく肯いた。やっぱり予定があるんだなあ……。土曜日のバレンタインデーなのだから、予定があって当然だ。だがそれは私の与り知らぬところであってほしかった。
 なぜか、いざ本人に言われてしまうと情けないくらい悲しくなってしまう。社長ほどの男性なのだから特定の女性がいないほうがおかしいのに。私——本当にこの人の婚約者だったのだろうか。

「お前はこれから予定がないのか?」
「ありません、帰って資格の勉強でもします」

 やけっぱちになってそう答えると、彼がなにか言おうとして口に含んだまま黙り込んでいる横顔が見えた。しばらく沈黙し指先で四度机を叩いてから彼は背もたれに体重を預けた。きしりと細い音が鳴る。

「……なんだ。ひとりか」
「はい」

 何でそんな事を訊くんだろう。関係ないのに。余計惨めになるだけだ。社長はどうせ夢みたいな美女と予定があるくせに。
 私なんてあなたの婚約者だった事実も疑わしいですよ。現に、今の婚約者候補は私のことなんて微塵も考えてませんし? あーあ、悲しい。泣きたい。くそっ、もういい。このチョコ、リョータくんにでもあげよーっと。
 私の苛立ちを含んだ態度に、彼はやや驚いたらしい。眉を寄せて肘をついた両手の指先を絡め、私を観察するように眺めている。

「面接時の履歴書に、趣味が美術鑑賞だとあったよな」
「はい?」
「お前、嘘——書いただろ」

 げー。バレてるんですけど。そう、なにか頭の良さそうな事を書こうとしただけだ。しっかりとお見通しだったわけね。あーあ、恥ずかしい。

「——ここに、これがある」

 さっと差し出された光沢紙の封筒。開けてみると中には、チケットが二枚入っていた。来週から催される絵画展だった。

「共催企業の株を持っているから、開催前に鑑賞できるぞ」
「すごい。これ、すでに前売りチケットも完売のはずなのに……」

 そう、それくらいの情報は知っていた、さすがの私でも……テレビで、特集が組まれていたし。

「いまからそれに行く、お前も一緒に来るか」
「……」
「まぁ嘘なんだから美術鑑賞なんて興味ないかも知れないけどな」
「……ッ」

 驚いて息をのむ私を彼は冷たく冷静な例の観察する眼差しで眺めていた。彼の鼻筋の影が、顔の半分に掛かって、それはまるで外国人のブランド誌のモデルのように見えた。すくなくとも間近にいて私を眺めているとは思えないほど遠い端正な姿に思われた。

「きょう、ですか?」
「ああ。行くのか、行かないのか」
「い……! 行きますっ!」
「そうか」

 ふっと短くため息をついて、どこか、物憂げな眼差しで彼は私の挙動を眺めていた。
 雨がしとしとと降り続いているがかなり雨足は弱まった。彼の言うとおり——雨は、じきにやむだろう。


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