国道は渋滞しているので短距離だが高速に乗って美術館まで彼の車で向かった。
館内は来週からの開催に向けて準備中の名目を掲げて常設展すらも閉鎖しているがこのチケットを持つ特別の人種のみ通る事ができた。他に客はもちろん、学芸員すらも誰もいない。
迷路のように、無数に作り上げられたパネルの壁から展示スタッフがときおり姿を見せたが状態保存のために薄暗く照明がしぼられているので、視界が悪く、あまり気配を感じられなかった。
入口から順番に油彩画を眺めていると、社長はスタスタと歩いて奥に行ってしまった。おそらく目当ての絵画があるのだろう。
有名な絵から、見たことのないマイナーな絵。スケッチ。ごく初期の風景画など。興味がないと思っていたが実物を見たら意外にも食い入るように観賞してしまった。
三十分かけてすべて見終わったあと出口付近のミュージアムショップまで覗いたが、社長の姿がどこにもない。すれ違ったのだろうか。私が絵に夢中で気づかなかったのかもしれない。いったん引き戻し、絵画を再度眺めながら歩いていくと、一番大きく取られたスペース、黒いパネルに展示された絵の前に、社長はいた。豪華絢爛な黄金の『接吻』という題の絵。なぜか、胸が苦しくなった。一体どんな顔をして、藤真さんはこれを見ているのだろう、って。
近づいていくと、絵を見上げたまま彼は「全て見たか」と言った。
「はい」
となりに並んで立つ。横顔をそっと見上げるといつもどおり、きびしい顔がそこにあった。
「この絵が、好きなんですか?」
「いや」
と、皮肉そうに彼は言った。
「この絵は政府所蔵だが売価にするといくらなんだろうな」
彼は浅く瞬きした。瞳に四角い黄金が映りこんでいる。金の背景の中、顔の見えない男性の接吻を頬に受ける官能な表情の女性。二人の幸福と、愛情の絶頂を描いているが足元の崖が死と終幕を予感させる。
洪水のように溢れ出るきらびやかさは、返って不吉で刹那的だ。たぶんこの二人は共に歳をとり死んでいくという当たり前の平和を迎えることはできないだろう。
「競売史上最高額が百四十二億である事を考えてオーストリア政府がこれを手放すとすれば、だ」
「……」
「この絵も、五倍以内で買えるだろうな」
「……か、買うんですか?」
腰を抜かしそうな話だ。驚愕をひそめて、彼に問えば彼は短く「いや」と言った。
「だが、買おうと思えば買える」
「……」
「その事実とこの絵がそれに値するかを確認したかった」
彼はまた、皮肉めいた笑みを浮かべた。私にはなんとなく、わざと彼がそんな顔をしているかに思われた。
「行くぞ、もうここに用はないだろ」
「あ、はい……」
外に出ると折り良く雨が止んでいた。洗い流されたかのような水色の空が、ビルごしに広がっている。
一言も会話がなく、美術館を出てから車に乗り込んだ。このまま、今日はこれでおしまいかな。そんな事を思いながら『接吻』の前にいた社長の姿を思い浮かべる。
とても寂しそうに見えたけれどそれも気のせいかもしれない。お金の話もわざと切り出したように思われた。社長はたぶん、あの絵が気にいったのではないかな、って。
だがそれは全て根拠のない私の価値観に照らし合わせたものでしかない。私は結局、彼のことを何ひとつ知らないのだ。
「駅まで送って行く」
掠れた声で彼が言う。私は肯きフロントガラスに広がる景色を眺めるふりをしながら視界の端に映る彼のハンドルを持つ手を見ていた。
「あの……、社長」
まだ夕方前で明るい時間だ。上司とお茶をしても変な時間ではない、たぶん。それに、ちゃんとアレが鞄に入っている……たしか。
ごくん、と唾を飲んで、バッグの革紐をいじりながら一度うつむいた。彼は何も言わない。
「あの……もしよかったら、なんですけど、お茶していきませんか?」
「お茶? ふたりでか」
「は、はい、つまらないかも、ですけど……」
「なぜだ?」
「あ……の、喉が乾いているんじゃないかなー、って」
「……」
しーん……あーあ、言うんじゃなかった。そうだよね。行くはずないよね。黙りこまれるという事は私の事を引いてしまったからだろう。下心が見え見えすぎて、なんて女だろうと思われているのかもしれない。そういうつもりは決してないのに。もう少しだけ一緒にいれる口実が欲しかったのだけど、チョコを渡すために。
考えれば考えるほど薄っすら死にたくなったが現実は、受け入れなければならない。普通の顔をしてお礼を言って帰ろうと考えていると、彼は、「わかった」と言った。
「……はい?」
「行くか」
「……え。」
「……」
それが本当のことなのかにわかには信じがたかった。かあ、と体が熱くなって落ち着かなきゃ、と自分に言い聞かせる。ただ、あとすこしだけ。それだけのつもりだったのに社長の低い声が『行くか』と言って、それが鼓膜から体の中に入ってきたら……。
膝が、微かに震えている気がする。くちびるを噛んで必死に込み上げる何かを抑え込もうとしていた。体が、自分のものではないみたいだった。
重力がもうすこし弱ければ、ふわふわと浮いてしまいそうなくらい座っている感覚がない。藤真さんと、ふたりでお茶なんて。
「……」
「……」
沈黙がこんなに動揺を招くものだとは思わなかった。冷静であれ。普通にしていろ……なんでもないことなのだ。
最近かなり傍にいる時間が増えていたとはいえそれもこれもすべて業務のうちのこと。これも、時間外だが、関係性に変化があるわけではない。今日がバレンタインデーだから、なんて全然関係なんかない。そう言い聞かせる喉の下がぶるりと小さく震えていた。
過去に一度だけ藤真さんを私の住むアパートに招き入れたことがある。あの日アパートの通路はしん、と静まり返っていた。無言で後ろを歩いている藤真さんの存在感。私は、動揺が続いていたことを思い出す。
部屋の鍵を取り出したとき、うろたえた指先が取り落してしまった。カチャン、とそれは、彼の足もとに落ちた。拾おうとしたときにはすでに、彼が、腕を伸ばして拾っているところだった。
「すみません、ありがとうございます」
無言で差し出されたそれを受け取り藤真さんの無表情の視線から目を逸らす。胸のドキドキは、不意に畏怖の念にとってかわった。
どうして黙っているのだろう。何を考えているのだろう。
いずれにせよ本来ならば彼が私の手の届くひとではないと。その完璧な姿を認識した時に改めて思い知ったことが脳裏をよぎる。付き合っていたはずだったのに、なぜかいつも彼を遠く感じた。
ドアを開けて中に入ると、昨晩作ったカレーの匂いが残っている気がして、恥ずかしくなった。
「狭苦しいところですが、どうぞ」
「おじゃまします」
ドアをくぐった彼は私の部屋に入るなり微かに眉をぴくりとさせた。さっきまではなんにも感じなかったのに彼が私の部屋に踏み込んだ途端彼の香りが、しゅっと空間の中に咲いたように思われた。外出先ならばいざ知らず彼の香りは私の部屋には一切存在しないものだった。異質だからこそ目立つのだ。ごく薄い微かな香りだけれども嗅覚に訴えかけるそれに、藤真さんが私の部屋にいる事実を突きつけられていた。
あの日は、結局——私が前日に作ったカレーをご馳走したのだが。
無言で食べ進めていたけれど不意に目を伏せて「美味しいな」と言ったあの表情が、なぜかいま鮮明に思い出された。
*
「コーヒーでいいですか?」
「……」
彼は目の前に座ったままカフェの窓の外を見ている。その姿を一瞥したあとウエイトレスを呼びつけてコーヒーをふたつ注文した。
コーヒーが到着した後、かぐわしいその匂いと湯気を抱えながら社長を見ると、彼は同じ姿勢でじっと窓の外を眺めたままだった。そして、その姿勢のまま、テーブル下の荷物入れに置いた私の無造作にも半分開けられている鞄の中を見下ろした。
「社長?」
「……それは、いい本だな」
「あ……それ。」
言われるがまま、私もチラ、と自身の鞄の中を見下ろして視線をまた社長に戻した。
「資格を取ろうかと、思いまして」
「学生時代に俺も読んだ。応用すれば視野も広がるだろうな」
「はい」
「に、しても。かなり使い古してあるな」
言って何の躊躇いもなく、私の鞄の中からその参考書を取りあげて中をペラペラと捲る。そして私がページに走り書きした字を、まるで愛おしいもののように、そっと指先で彼はなぞった。
恥ずかしくなりながらカップに口を付けてテーブルに置くと、パタンと本を閉じた彼がこちらを向いた。なんだか気だるげな表情だった。見慣れているはずなのに、なぜかはっとさせられる。
互いにテーブルの前に座りずっと黙りこんでいたがやがて仕事の話でいくつか言葉を交わした。彼の香りはコーヒーの匂いに揉み消されているが立ち上る湯気ごしに眺める横顔が車の助手席のシートから見たそれよりも今日はなぜか、近くに感じる。それをなぜか、特別なことだと思った。とても特別で、きっとこんなことはもう二度とはないだろう、と。
「よかったら……どうぞ。」
包み紙に包まれたチョコレートの箱を目の前に差し出すと彼は、無言でそれを見下ろした。コーヒーにもまだ手を付けていないのだから受け取ってくれなさそうだけど。
庶民的なカフェのコーヒーなんて口に合わないかもしれないもんな。しかも私が差し出した箱は洋菓子のブランド店とは言え今までに腐るほどに貰って来たことだろうし。
「これは」
「チョコレートです、多分美味しいと思います」
「お前は食べたのか?」
「いえ、まだ」
「じゃあ——なぜ、美味いとわかる」
「え、高級だったので」
「なるほどな。道理だ」
ふん、と鼻で一笑した頬が微かに歪められる。
「これを受け取れば来月はお前になにかお返しを贈らないとならないんだろ?」
「……!」
いや、そんなつもりで差し出したわけじゃ……確かに流れでさりげなく出したけど、渡し損ねたバレンタインデーのチョコレートだっていう事、バレてますね、はい。
「お返しなんて結構です。これこそいつもお世話になっている事へのお返しですから」
「そういうことは嫌いな性分なんだ」
「はい、わかってます」
「……」
……シン、と落ち込んだ沈黙に、なぜか私まで落ち込んだ。なぜいつもここまでと区切りをつけることができないのだろう。いつも調子に乗ってもうすこしだけ、を繰り返し望んでしまう。
私は、自分をわかっていない愚か者だ。ただの社員なのに、しかも派遣社員。もうすこしだけが通用すると思っているのだ。そんな浅ましさを、藤真さんはもちろん、お見通しなのだろう。
「……女の部屋は、初めてだった」
と、彼は低く囁いた。急に何の話をしているんだろうと思ったけれど先ほど私が不意に思い出した記憶と藤真さんの言っていることがリンクした気がした。
「あまり、それらしくないように見えたけどな」
きっと——私のアパートにあがった日のことを言っているんじゃないか、って……。
「……そうでした? 男っぽいとか?」
「いや。俺のいた部屋意外、汚かったから」
「——っ」
「あのほうが好感を持てる。人間味が出ていて」
「……。」
カフェ内を軽くちらと見渡したあと、彼はやっぱり外が気になったのか、また窓の外に、ずっと視線を定めた。
「女の部屋は初めてって、そうだったんですか」
「ああ」
「あの、でも……」
「言いたいことはわかる」
「……」
「女と会うにはホテルの一室があればいい。私生活まで踏み込みたくなんかない」
と彼は顔色一つ変えず言った。かあ、となぜか私が赤くなる。訊いておいてなんだけれども訊くんじゃなかったと思った。この動揺は混乱のためだ。自分でそれがわかってそのこと自体にも嫌な気持ちになった。
「普通、相手も俺を家に呼ぶのはいやだろうからな。行ったことがなかった」
「そんなことないと思います。お付き合いしてる女性なら家に来てほしいと思う人もいるはずですよ?」
「名字はそうなんだろうな。俺の周囲の女は、そうじゃなかった」
「……」
「俺をあんなふうに誘ってくれたのは……、お前だけだ」
「……!」
慌ててカップを取り上げてコーヒーを飲んだ。気がまぎれるかと思ったがそんな事はなかった。
「お前の価値観では、あれが普通なんだろうな」
「え……?」
「生活を見せて人間性を出す事で交流を深める。そうして関係を構築していく」
「藤真さ……あの、社長は、違うんですか?」
「違う。俺の私生活なんか誰も興味ないはずだ」
「わたしは、ありましたよ。」
「……」
カップを置いたときスプーンがかちゃんと軽く弾んだ。
「藤真さんのお話が、聞きたかったです」
「……。」
社長は眉をぎゅっと寄せて不機嫌そうに戸惑ったように視線をそむけた。テーブルに置いた手がきゅっと拳を作る。
「……ならつぎは、俺の部屋に来るか?」
スカートの上で組んだ両手を無意識に握りしめた。社長はずっと背筋を伸ばして、まるで武士のように座っている。ぴしっとしている彼と、頼りない私の、なんという差だろう。
しかもそれでいてお互いにいま、じっと見つめあっているのだった。
言葉というものがこの空間から無くなってしまったみたいだ。私が心から彼のことを知りたいと思っていたことが彼にも伝わったことがわかったような気がする。意思の伝達というほど大げさなものではないけれど。視線のやりとりでお互いの感情や状態を推理しあっているのだ。
「……そろそろ帰る。」
社長は、気難しそうな顔でそう言った。
「え、もう、ですか?」
「ああ……」
ふたりともすっと立ち上がる。幾分狭いカフェなので数歩も歩けば、すぐに入り口に辿りついてしまう。
店を出たあと彼は、見送りのために後ろに立つ私に振り向いた。翳りを帯びた瞳が私を見下ろしている。睫毛の一本一本まで見えて、それくらい近いのだと知った。微かに、茶色っぽい髪と瞳。丸みのない頬。なぜか、とても、親近感が沸いてくる。とんでもないことなのに。
「来月は、なにかお返しを用意しておくよ」
「え?」
「それを用意してくれただろ」
顎で小さく私の鞄を指す社長。受け取ってくれなかったチョコレートのことを言っているのだと思い至り私は首を振った。
「そんな。けっきょく、受け取っていませんし」
「だが、受け取ったも同然だ」
「……」
「実物のほうはお前が食べるといい。高級な味がするだろうしな」
——実物。ということは実物でないほうは受け取ってくれたということ……?え、待って。ど、どういうこと?
きょとんとしている私は、滑稽だっただろう。彼は不快げに鼻の付け根にしわを寄せ、私に背を向けて一歩外に踏み込んだ。
「もう駅はすぐそこだ」
「あの……社長、」
「じゃあな」
かつかつ……と藤真さんの革靴の音がやたらと鼓膜に突き刺さる。耳を澄ましていると、こつ、こつ、とあの早足な足音が、遠ざかっていくのが聞こえた。私は少し前に足を踏み出した。社長の高級車が停まっているのが見える。片手でキーを出し、それで開錠する電子音が、なぜかここまで聞こえてきた。
車に乗りこむ瞬間、彼はこちらに振り向いた。目が合い、けれど微笑するでもなく肯くでもなく顔を背ける。ドアを開けて彼は車の運転席に座った。車は、なめらかにカーブして方向転換する。それはすぐに颯爽と走り出して見えなくなった。
「……。」
目があったときの藤真さんの表情。困ったようにイライラを隠しているように、どこか怪我したみたいに——。
美術館でも彼が、そんな顔であの絵を見ていたのではないかと、なんとなく思った。
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