≪Chapter 7≫
叶えられなくてごめんね
誰にも知られたくない��私�≠ェ増えていく。
秘密を守ろうと適当な言葉で誤魔化して
空いた隙間を埋めるために
また、小さな嘘をついた。
吐き出した靄が少しずつ
少しずつ積み重なって、振り返ると
知らない��私�≠ェ立っていた。
*
半日ほど別の子会社へ出向したあと昼下がりに私は会社に戻ってきた。この数日、ずっと社長の顔を見ていない。
仕事が多忙を極めていたため、ゆっくり物事の整理をすることはできないまま、時間だけはするすると流れていってしまう。電車に揺られながら夜を映す黒い窓硝子に、社長の姿を思い描く。
いつも遠くから見かけた横顔よりも、私を見て眉をひそめる顔ばかりが浮かんでくる。
孤高に見えた横顔が私に向けられて目があったとき、孤独そうに見えて。思い出すたびに、喉の下が熱くなる——。
会議室でプロジェクタの用意をしているうちにお偉方が入ってくる。社長は後ろのほうから風を切るような早足で入ってきた。
久しぶりに、その姿を見た。外出先から戻ってきたばかりのようだった。その瞬間意識した指先が硬く強張ってしまう。室内の雰囲気もより張り詰めたものへと変貌する。皆が藤真社長を恐れているのだ。
全員が席に着いたのを確認してから会議が始まった。私は部屋の隅っこにある末席に、みょうじさんと並んで座り、プロジェクタの気を遣いながら話を聞いていた。
照明が落とされ、スクリーンに白い光と映像が映される。途中、みょうじさんが冊子を配るために、そっと私の隣から離れた。
暗闇の中プロジェクタの光の端を浴びた社長の姿にふと視線が止まってしまう。社長は指を交差させた手で口元を覆い、卓上の資料を眺めながら部下の話を聞いている。顔の半分を隠している、黒く濃い陰影から彼の顔立ちがとても整っていることを思わせた。
ほんと、男前だよなあ……まるでドラマの中の俳優に見とれているみたいに、そんな事を思う。手が届かない人とは、彼のような人の事を言うのだろう。何だか同じ部屋にいることすら不思議な気がする。
ときおり鋭く指摘して部下を戸惑わせる態度も神経質そうな表情も、すべて作り物のような気がした。あれはすべて、演技なのではないか。隙がなさ過ぎて同じ人間だとは思えない。
数日間だけでも傍を離れていただけで私の感覚はすべて、かつてに引き戻されていた。送ってもらったり食事をともにしたことなんてすべて夢の中のように思われた。たまに廊下で鉢合わせて、通りすぎぎわに一礼する対象。普段は、遠くから見ているだけ。声を掛けてもらうなんて、夢にも思わない。名字を覚えてもらっている事に驚いたそんな頃に、すっかり戻ってしまった。
「……!」
顔を上げた時、どきんとした。社長がこちらを見ていたから。見えているわけなんかないのに。私のいるところに、光は届いていないのだから。だが社長には確かに私が見えているのだ。暗闇の中から数秒間彼と見つめ合っていた。まばたきも忘れて。
彼が顔を背けた瞬間、気道に呼吸がひゅう、と一度にたくさん入ってきた。無意識に息を止めていたらしい。胸が苦しい。息を止めていたからではなくて、どう言い繕ろっても自分をだます事はできないのだと思い知ったから。わたし、社長のことを異性として……?いや、そんな、まさか。
目があった、それだけのことなのに。なんだかとても、苦しいのはなぜだろう。
*
私はたぶん、どうかしてる。視界がくらくらする。疲れているらしく栄養ドリンクを買ってきて一息に飲み干すと頭だけが冴えて、かえって体のどこが不調なのかをはっきりと悟った。モチベーションが上がらないので仕方なく仕事を中断して部屋を出た。資料室に行って見よう。なにか行き詰ったヒントがあるかもしれない。扉を開けスチールラックに阻まれた細長い部屋に入り、バインダーを手に取る。興味深い記事の途中、顔の前にしゅっと爽やかな香りが漂った。
え。まさか——振り向くと扉のところに男性の社員さんが立っていた。香りなんて全然しなかった。やっぱり、気のせいだったのだ。社員の彼はあと半時でここを閉める旨を告げて立ち去った。ふたたび一人になり、スチールラックにずるりともたれかかる。こんなんじゃだめだなぁ。仕事もうまくいかないし、かと思えば、こうして社長がいつも傍にいる気がしてしまう。落ち込んでいるからいけないのだ。前向きにならなければ。仕事にもっと熱意を持って。社長の事は置いといて。
「手を止めなくていい」
「——!」
しゅっ、と。あの香りが後ろから、ごく微かに漂ってくる。その瞬間、空気がぴんと凍り付いたような気がした。
「いまから非公式でパーティーがある」
低くひそめた苦い声。気配で彼——藤真社長がけわしい顔をしているのがわかる気がした。
「日航東京の中庭だ。社員証で入れる」
「……、」
「手が空き次第かならず来い」
「……はい。かしこまりました」
そっと振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。頭がくらくらする。
わたしはたぶん、どうかしている——。
*
仕事を急いで片付けている最中、同居人の彼にメッセージを送ろうと思っていたら、まさかの、相手から先に着信が入った。
『もしもし』
通話ボタンを押したとき、先に声を発したのは相手の方だった。
「もしもし? いま、メッセージ送ろうと——」
『あのよ、』
言った私の言葉がさえぎられる。私は続く彼の言葉を待った。
『飯、行かねえか?』
「飯、って。練習は?」
『もう終わってる。今日午前で授業終わったからよ』
「あ、そうなんだ……」
もしかして共有のカレンダーに『午前まで』と書いていたかな?そういえば最近は、共有カレンダーを見る癖がなくなってしまった。参ったな、私のほうは今日は遅くなるとの連絡を入れる予定だったのに。けれど彼はご飯に行かないかと私に誘いを入れている。
「あの、ね……?」
『ん?』
久しぶりの彼からのお誘いだというのに、これから、断りの意志を告げなければならないということに、なぜかとっても罪悪感が募る。
「あの、パーティがあって……会社の」
『うん』
「出てくれないかって上司から頼まれちゃって」
『ああ』
え、っと。うん、ああ、とは? わかったではなくて?うん、ああ……とは?困った、頭が全く働かない。ほんと、視界がくらくらする。
「……」
『……』
「……ご、ごめんね。」
とりあえず謝罪の言葉を述べたあと、電話の向こう側が、シンと静まり返った気がした。まさにそれは相手側の時間が止まったような錯覚に陥るほどの。
『わかった……』
「う、うん」
『帰り、迎えはいいのか?』
「うん、夜道が危険そうなら、タクシー使うよ」
『ああ。……なあ、名前』
いまは名前を呼ばれただけで心臓がえぐられてしまいそうになる。私は動揺が声に出ないように必死に平然を装う。
「……ん?」
『あの……』
「……? なに?」
『……いや。楽しんでこいよ』
ややあって『じゃあな』と遠慮がちに言われ、先に電話を切られた。
*
結局私がホテルまでタクシーを飛ばしたのは既にパーティーも終わったであろう時間帯だった。とりあえずお世話になった方々にご挨拶だけでもと思いながら夜空の見える中庭に出るとまだたくさんの人達がグラスを片手に親しげに話し合っていた。よかった、間にあったみたいだ。
直属の上司と普段から遣り取りしている同僚達に挨拶を済ませ、疲れて乾いた喉にシャンパンを流し込む。そっと輪を抜けた私は端っこに立ち、まるで給仕のように背景の一部になりながら休むことにした。中庭は、円柱状にくりぬかれているためか風がなく、さして寒くない。きっとここは昼間はガーデンウエディングの式場になるのだろう。暗闇に紛れているが、フランス風の趣を感じる。
「……、」
社長はいないのだろうかと、あたりを見渡してみたが、目の届く範囲にはいないみたいだった。二杯目のシャンパンをもらってそれも飲みほした頃、通路をよこぎって社長が姿を見せた。誰かが彼に声を掛ける。彼は一言だけ返し、足早に行きすぎる。そして少し離れたところで立ち止まり、振り返って大勢の輪を眺めていた。
「……?」
なにしているんだろう?腕を組んで彼は周囲に視線を這わせている。私も彼の視線に合わせて、同じところを見る。人、人、人……。なにを見ているのだろうか。あ、そっか、誰かを捜しているんだ、きっと。
そう思った時、社長が突然こちらに視線を向けた。どき、とした。彼がこちらに向かって、まっすぐ歩いてきたからだ。え、捜してたのって——
「ここにいたのか」
「は、はい」
彼は近くを通りがかった給仕を顎で呼び寄せ、シャンパングラスを手に取った。金色に揺らめく水面に細かい星のようなあぶくがシュワリと弾ける。彼のグラスに呼応して私のグラスもシュワリと音を立てた。
「珍しいですね、社長がお酒を飲むなんて……。お車は、会社に置いてきたんですか?」
「まさか。飲酒運転はしないだろう」
「いえ、ただ、社長なら捕まらない方法とか……ご存知なのかなぁ、って」
「わざわざ面倒な真似はしない」
「なら、お迎えがあるんですね?」
「いや」
と言いながら彼は一歩わたしに近づきくるりと背を壁に向けた。
私ととなりに並んで立っている。右頬、右腕に彼の気配がじんわりと感じられた。
「今日はここに宿泊する」
「あ、そうなんですか?」
「ああ。名字は終電に駆け込むのか」
「そうですね。あと十分ちょっと……」
「……もう諦めたらどうだ。タクシーなら取ってやれるが」
ちらと顔を上げて社長を見る。やや高いところにある横顔が前方を眺めてじっとしている。輪のほうからワハハと笑い声が響いてきた。そろそろこのパーティもお開きだろう。
「——あと、すこしでいい」
ひそめた声が、右斜め上から降ってくる。あとすこし……付き合え、ということだろうか。
浅く肯く私に社長は美しく静かな瞳をこちらに向ける。シャンパンのシュワリ、という音が弾ける。シュワリ、シュワリ……無言で見つめ合っているうちに、手つかずのシャンパンが、どんどん気を失ってしまうのだった。
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