勝手だって、責めてしまいたい気持ちはある。
でも失望したのは自分にだ。
変わるわけがないと思い込んで、疎かにした。
いちばん大切な人の変化に気が付かずに
いちばん一緒にいたい人の情を
繋ぎとめておくこともできず……
いちばん好きだと言ってくれたお前が
過去のものになりつつある。
馬鹿な自分に、俺は
失望したんだよ——。
*
『 送っていく 』
そんな藤真さんからの申し出を断った私はその足で自宅には向かわずに、久しく馴染みのお店に向かった。ガラガラーと扉を開けると、いつもの笑顔が出迎えてくれる。
「おっ。名前さん、久しぶりだな」
水戸くんの言うとおり、本当に久しぶりに来た気がする。一ヶ月……いや、下手したら二ヶ月は御無沙汰だったかもしれない。
すぐにカウンター席を誘導されて、私は慣れた動作で椅子を引いてそこに座る。
「みっちーは?」
その名前になぜかビクンと肩を揺らしかけて、「わかんない、連絡してないの…」と零した私に水戸くんは「そっか」と短く返して来た。
「お酒、飲むの?」
と、聞かれコクンとうなずいた私に「了解」と言ってカウンターの中のビールサーバーからビールを注いでくれている水戸くんの姿を私は呆然と眺める。
「はいよ」
コン、と目の前に置かれたグラスを手に取って喉に流し込めば、しゅわしゅわとした炭酸が喉を潤してくれて気持ちよかった。
気付けば立ったままで水戸くんが頬杖をついてカウンターの中から私を凝視している。それでもその表情は穏やかだった。私は「なんか顔についてる?」と問う。
「いや? なんかさ、名前さん」
「ん?」
「綺麗になったな」
ぎょっとして持っていたグラスを落としそうになって、グラスを握っていた手にぐっと力を込めた。
「え、なに言ってんの。びっくりしたぁ」
「俺も」
「へ?」
「びっくりした、綺麗になりすぎててさ」
「……!?」
え……なに? 待って、ここって��そういう�≠ィ店だったっけ?
思わず、お店の中をぐるりと見渡してしまった私の仕草を見落とさなかった水戸くんがハハハと緩く笑って言った。
「ここ、ホストクラブじゃねーよ?」
「……で、ですよね?」
「あーあ、びっくりした」ともう一度言って私はグラスをゆっくりとテーブルの上に置いた。それでも水戸くんは、お通しを見繕いながら、淡々と言う。
「恋——してんのかと思った」
「ええ? 来い? 鯉、こ……い?」
「そー。コイ。」
「はいどーぞ」と煮物の入った小鉢が目の前に置かれる。私は急に、押し黙ってしまう。そんな私を見て水戸くんが「あれ?違った?」なんて、揶揄ったふうに言いながら首をかしげてみせた。
「ねえ……なに、たくらんでんの?」
「え? べつに?」
「なんもたくらんでまセン」と水戸くんも飲みかけの自分のグラスに口をつける。
しばらく、背後のお客さんたちの会話をBGMにして、ひとりで、ゆっくりとお酒を嗜んでいた。気付けば時刻は八時を回ったところ。携帯電話で時間を確認していたとき一通のメッセージを受信する。
みょうじさん
今週は休日出勤せずに、ゆっくり休んでください
そんな仕事の連絡になぜか反射的に出てしまう溜め息のあと「わかりました」と、すぐに返信をした。次いで届いたメッセージの受信者は、彼女ではなかった。
三井寿
お疲れ。仕事中か?今日も遅くなるなら帰りに水戸のとこに飯食いに行こうと思ってる
それには返信はせずにカウンターに携帯電話を置いた私に気付いた水戸くんが声をかけてくる。
「みっちーから?」
「うん」
「呼べば?」
「……うーん、」
水戸くんは私を一瞥する。私は水戸くんと出来るだけ目が合わないように自身のグラスに視線を落とす。
「また喧嘩でもしたのか?」
「い、いやぁ……」
「もうすぐクリスマスだってのに、アンタらは」
「………ははは、」
煮え切らない私の態度に水戸くんは「ふー」と浅く溜め息をつく。
「名前さん」
「……、」
返事はせずに顔を水戸くんのほうに向けたとき珍しく水戸くんがあまり見せる事のない渋い顔をしていた。
「みっちーから聞いたよ」
「え。……な、なにを?」
「ん? みっちーが元婚約者と会ったことと?」
「……、」
「名前さんが、元婚約者のいるとこで働いてるって、こと?」
「おしゃべりめ……」と言って小さく舌を打ち鳴らした私に水戸くんは「ここは、情報が筒抜けなんで」なんて、軽い口調で言う。私は観念して水戸くんに最近、寿とうまくいっていない事と、藤真さんとの謎の距離感についての相談をした。
「たぶんさ、寿……」
「うん」
「ずっと、なまえさんのこと考えてるんだよねぇ」
「いやー、そんなことはないだろ」
「いや、ある。なんか……わかる」
そう呟いて、私はグラスの中身を飲み干した。それを待っていたかのようにすぐに二杯目のビールのグラスが側に置かれる。
「寂しいな、とか……不安だな、とか考えてたら気持ちが仕事に向いちゃってさ」
「……」
「気を紛らわすために最近は休日出勤までしちゃってんの、私……」
「まぁ仕事が片付かないっていうのもあるんだけどねー」と、付け加えた私の言葉に水戸くんは特に反応は示さなかった。
「水戸くん、キスしたって話……聞いた?」
「ああー、うん」
「キス、ね?したことが嫌だとか……なんかもう今は、そういうんじゃなくてね」
「……」
「ずっと寿に避けられてることのほうが、日々のダメージが大きくてさぁ」
こうして言葉にして改めて言ったら、なんだか無性に泣けてきた。惨めに思えてきたというか。
私、やっぱり仕事のしすぎで疲れているのかもしれないな……。
「いつもならさ、うるさいくらいに絡んでくるでしょ?一生懸命になってさ?」
「まぁ、そうね……」
「スキンシップはかってきたり、こう……なんて言うか、ぐいぐいと来るのに……」
「ぐいぐいねぇ……」
「その話を告白してきた日から……もうなんか、他人みたいでさ……」
私の愚痴話に軽く相づちを打っていた彼がしばらく黙る。そして沈黙を破って口を開いた。
「それ、逆なんじゃないのか?」
「え?」
私はゆっくりと顔を上げてカウンターを挟んだ向こう側、目の前にいる水戸くんを見据えた。
「たぶんそれ、みっちーが名前さんに思ってることだぜ?」
「——。」
言葉に詰まった。たしかに言われてみれば私の方から相手——寿と、距離を取っているとも言えなくもないかも知れない。
「浮気ってさ、」
とたんに明るい口調の水戸くんの声が聞こえて来て、私はまた水戸くんを見やる。
「どっからが、浮気だと思う?名前さんは」
「う、浮気? んー......どうかな、わかんない」
「キスしたりハグしたりさ。それって、片一方の方からの好意なら、浮気だと思わないタチ、俺」
「うんうん」
「アクシデントって、生きてりゃ誰しもあるもんだろうからさ」
「うん、」
水戸くんは自分のグラスに入っている氷をカラカラと人差し指で弄ぶように回しながら言った。
「浮つく気持ちって書いて浮気って読むだろ?」
「うん」
「体より気持ちもってかれちまってるほうがタチわりーと思う」
「……うん、」
「気持ちが浮ついてる。見た目に出るほどにね」
「う、うん……?」
「だったら、浮気してんのは……」
「……」
「名前さんの方、だよね——?」
水戸くんの真っ直ぐな視線から目をそらす事が出来なかった。まるで金縛りにあったみたいに。
あれ、この子……こんな、鋭い目してたんだ、って思ったら体が固まって視線を解けなかった。
水戸くんは「あーあ、これ言っちゃっていいのかなー」なんていつもの調子にすぐに切り替えてつぶやく。言っちゃっていいのかと言ったわりに私の意見も聞かずに先の言葉を続けた。
「みっちー言ってたぜー?」
「……」
「たぶん、名前さんの気持ちが……」
「……、」
「藤真にいってる、って——」
「え……。」
——はじめは、悔しさからきた、ほんの些細な負けず嫌いの精神だった。藤真さんが……まるで私とは初めて出会いましたって、俺とあった過去は葬ってくれ、なかったことにしてくれ、という雰囲気が、なんだか悔しくて、寂しかった。それでも仕事をしている姿勢を認められて、正社員を差し置いて業務を任される日々に、わずかながらにも優越感を抱いていた。
認められるということはこのうえない達成感があった。それがいつの間にか藤真さんをぎゃふんと言わせたい、藤真さんの驚く顔が見たい。この人の一番��信�≠�置く人物になりたい——そんな気持ちだけが、大きくなっていった。そんな私の心の変化を、見透かされたかのように聞かされた寿と彼の元婚約者の彼女との事。動揺した。混乱した。けれど今日まで寿とちゃんとそれについて向き合わなかったのは、私にも少なからず後ろめたい気持ちが、罪悪感があったからだ。
浮気——私の心は水戸くんの言うように、藤真さんに浮ついているのだろうか。仕事に追われて藤真さんの一番、信を置くみょうじさんを越えたくて。
私は逃げて寿との関りの中で一番大切な部分を無視して過ごしていた。相手が何も言ってこないことに甘えて。彼がいつも身を引いてくれていることにあぐらを掻いて——。
「だって……」
「……」
「触れて……くれないんだもん、寿。」
「……」
「当てつけじゃ、ないよ?」
「……」
「触れてくれないから……寂しい——」
もはやひとり言のように呟いた言葉のあとに、ガタンと真横の椅子が引かれた音で一気に現実に引き戻される。
勢いよく横を見れば、正面を向いたまま「水戸ビール。ジョッキで」と言う同居人の姿。え——いつから、そこに居たの……?
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