あなたが見ている明日の向こうに

 浮かび上がる違う景色

 ふたりで話した、あの日の未来図は

 書き変わってしまったの?


 もう、戻れないの——?





 *


「来てんなら、連絡しろよな」

 聞き慣れたその声で我に返って「あっ、えっとごめん」と、どもりながら私も正面に向き直す。どうしようか考えあぐねて、両手をカウンターの上で重ねた私のその手を寿が見下ろして言った。

「毎日その指輪、着けてくれてんのか?」
「え?」

 と、思わず横を見やれば彼は「……ん」と顎で私の右手薬指を差し示す。たしかにそこには去年彼からクリスマスにもらった、指輪がはめられている。

「あ、うん。もうずっと仕事中はつけてるよ?」
「へえ。じゃあ変なのは寄ってこねーな」

 弱々しくも、嬉しそうに笑っている彼の横顔が何だか寂し気に見えてしまって私はそっとグラスを両手で包み、視線をそのグラスの中へと落とし込んだ。

「外して欲しいなら、外すけどね……」
「……」

 どうしよう……相手が黙ってしまった。なんでだろう。可愛げのない、こんなつっかかるような言葉しか出て来ないんだろう。ほんとは、こんなことを言いたいわけじゃないのに。

「はいよ、ジョッキ。生。」

 無言の私たちの空気を破ってくれたのは、水戸くんだった。彼が寿へとカウンター越しにジョッキを手渡す。寿は珍しく「乾杯」も言わずにそのままジョッキに口をつけて中身を飲みはじめた。

「外してえなら、外せよ。」

 先ほどの私に対しての返答だろう。怒っているふうでもあきれているふうでもない。どちらかと言えば「明日も仕事か?」とでも言っているふうなごくごく平凡で普段通りのような口調だった。
 いつもなら「ああ?なんだそれ、もういっぺん言ってみろ」とかキレてきて、私も「外して他の人が粉かけてきたら困るもんね?」とか言って、揚げ足をとったりなんかして笑い合っていたはずなのに。

「——うん」

 私の小さな返事は、聞こえていたのだろうか。しかし相手は無反応で水戸くんから出された食事を淡々と食べて進めていた。途中、携帯電話なんかを眺めたりしてまるで隣に私がいないみたいな雰囲気の彼に対して私は、いたたまれなくなる。水戸くんもカウンターに座った常連のお姉さん達と楽し気に話し込んでいて今日は助けてくれそうにもない。

「よかったのに、わざわざ隣に座ってくれなくても」

 今の私の言葉はしっかりと聞こえたらしい彼が眺めていた携帯電話の画面から視線を私へと移すのが目の端に映る。

「じゃあ……席、移動すればいいのか?」

 淡々と質問返しをしてくる相手に私は、言葉を詰まらせる。そしてこのとき、なんとなく思ったことがある。恋人同士が終わるときって、もしかしてこんな感じで互いにフェードアウトしていくものなのかも知れないな、って。喧嘩別れとか、好き同士なのに別れた、私と寿の高校時代の頃のようなこともなく、なんとなくの感じでお互いの気持ちが離れていって、それで……

「なあ。移動すっか、って」
「え……」

 チラと横に視線を向けたとき、久しぶりに彼と目が合ったのにすぐにさっと相手の方から視線を外されてしまって胸が詰まる。

「移動したほうがいいなら俺——」

 その言葉をさえぎって私が勢いよくガタン、と椅子を鳴らして席を立った。急に鳴り響いたその音に店内が一瞬だけシン、と静まり返る。けれどまたすぐに賑わいを取り戻して立ち上がった私を見た水戸くんがレジに向かってくれたことで私もそれに合わせて荷物をまとめてレジに向かった。

「今日、一杯分だけでいーよ」
「え?」

 財布を取り出した私に水戸くんが眉毛を下げて困った顔をしながらも笑みを浮かべて言う。

「だって、二杯目ほとんど飲んでないしな」

 チラと私のグラスを一瞥するため寿の座る席のほうを見やった水戸くんに私は「ごめんね」と、謝罪を述べる。
 会計を済ませて水戸くんに「ごちそうさま」と言い置くと水戸くんが一度だけうなずいた。レジ機の閉まるガシャン!という音を聞き捨てて寿の後ろを通り過ぎて入り口に向かう。彼は、とくに反応を示さずに淡々とビールを飲み進めていた。ガラガラーとドアを開けると同時に「ありがとうございましたー」という、水戸くんの声を背中に受けてお店を出る。溜め息にも似た息を空に向けて吐けば息は白く、クリスマス間際の寒い夜空にふわっと消えて無くなる。

 マンションに……帰りづらいな。そう思って、実家に帰ろうかと、駅方面に向いていた足を方向転換した時、ガラガラー!と、水戸くんのお店の入り口の扉が開いた。数十メートル離れた距離に立っている寿と正面から向き合うかたちを取っている私。後ろ手でドアを閉めた彼の口元からも、微かに白い息が吐きだされた。スポーツバッグを背負っているということは、もう会計をして出てきたのだろうか。立ち止まったままそんなことを考えていたとき距離をつめて歩み寄って来た彼により、私たちの距離が近くなった。

「帰るぞ」
「……」

 彼はそれだけ言い置いて、駅方面へと向かって歩いて行く。それでもまだ、その場から動かない私に気付いた相手が一度足を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。

「どうした?」
「——ね。」
「……あ?」

 聞き取れなかったのか彼が私のほうへと戻って来る。寿は私の目の前に立ってもう一度「何だ?悪い、聞こえなかった」と言った。

「……ごめんね。」
「……」

 私はいったい、何に対して謝っているのだろうか。自分の右手の親指で、無意識に薬指の指輪を引っかくと酷く胸が締め付けられた。その行動に特に意味はなかったけれど視線を落としてそれを目敏く見ていた彼が、ぽつりと言った。

「指輪……外してえのか?」
「え?」
「いや、なんとなく……」

 そう言って、気まずそうに後頭部に手を当てた彼を見上げてみたけど目が合うことはなかった。もう本当に私たち、ダメかも知れないな……。
 私も彼から視線を外そうとした時、ゆっくりとした動作で彼の瞳が私に向けられる。一瞬にして私は、その微かに潤んだ綺麗な瞳に射抜かれた。

「……なあ、名前」
「……ん。」

 彼が、ゆっくりと瞬きをする。それに合わせて私もゆっくりと一度、瞬きをした。

「綺麗だな——」
「え?」
「久しく顔、ちゃんと見ねえうちに、」
「……」
「綺麗になった。」

 彼の服の布が擦れる音がした。彼の腕が動いたことを知ったのと同時にその右手が私の頬に伸びて来る。そしてその手は、私に触れることはなかった。


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