損益を考えて

 エネルギーの消費を抑えるのは大事なことだ。

 感情を理性で抑えられるのは

 大人の証拠だと思う。


 ただ、

 そんなのどうだっていいと思えるものだって

 あるって信じたい——。





 *


 病み上がりの身体で出勤すると、普段は平気なはずの業務が気だるく感じられる。マスクの下で小さく咳をしてルーチンワークを作成して社長にメールする。
 金曜日の夜に水戸くんのお店で寿と軽く飲んで早めに帰宅したはいいが、その日の通勤中に雨に濡れてしまった事で風邪をひいてしまったらしく結局日曜日はずっと寝込んでいた。酩酊しているような気分だった。とても気持ちが昂揚していたからだ。寿が触れようとして触れなかった、あの指先の冷たい温度と、社長の声と姿を何度も繰り返し心の中で思い浮かべてしまう。


 『 綺麗だな—— 』


 二人から私に向けられた同じセリフ。熱に浮かされた錯覚じゃないかと、何度も自問自答した。社長とは月曜日にどんな顔をすればいいのだろうなんて考えていたけれど、まだ本調子じゃないし今日は顔を合わさないほうがいい。
 もう幾分、治ったとは思うけれどもしかしたら伝染してしまうかもしれないし。今日は呼び出しがあっても事情を話して個室で仕事をさせてもらおう。「体調管理ができていない」と怒られそうだけど。

 だがきょう一日、呼び出しのコールがくる事はなかった。けほんっ、と咳が出る。へんな具合にこじらしただろうかと思いながら薬を飲むために給湯室に水を取りに行った。コップを持って立っていると通路のほうからみょうじさんの声が聞こえてきた。

「——では、先にこちらを済ませますか?」

 あすのスケジュールを確認する声。二人ぶんの足音。きっと、社長も一緒なのだ。通路に出て、一礼すべきだったのだろうけれど何だか気恥ずかしくて、コップを持ったまま息をひそめた。

「ああ。それでいい」

 という機械的な低い声がみょうじさんの声のあとに響いてくる足音が、かなり遠ざかってから込みあげてきた咳がこぼれた。
 咳、聞こえてなかったよね……?そっと通路を覗くともう足音も聞こえてこない。私はポケットからのど飴を取り出してマスクの下の化粧の禿げた口元にぱくりと放り込んだ。


 *


 終業時間を迎えて、いつも小一時間は残業するけれど体調を案じて定時で会社を出る事にした。
 いろんなオフィスから人の話し声やコピー機を作動させている音など、仕事をバリバリこなしている気配がする。自分だけさっさと帰るのも気が引けるけれど音をひそめて咳をするとレモンキャンディの匂いがした。昨日早いうちに休日診療を受けていてよかった。薬がなかったら、たぶん、今日はもっと辛かったはず。
 さっさと帰って、同居人も巻き添えにはなってしまうが、消化によいものを食べて眠れば、病み上がりの気だるさも消えるだろう。そんなことを考えながら誰もいない通路を歩いていたら、ふと視線を感じて振り向いた。すぐうしろに、社長が立っていて、心臓が止まるかと思った。

「——し、社長っ! お先に失礼しますっ」

 うろたえながらもそれだけを口にする。社長は能面のような無表情だった。眉間に、かげろうのような、あるかなきかの皺が見えるが、目に力がなく私を見下ろしながら別のところを透けて見ているようにぼんやりとしていた。

「帰るのか?」
「は、はいっ」
「……」
「……?」

 社長の言葉を待って、その高い鼻筋の影と瞳を見ていると不意に金曜日のことを思いだして恥ずかしくなる。

「ついでだ、送って行くぞ」

 すこしたってから、ようやく漏れた声は掠れていた。一日の業務をこなした後だが彼の顔に疲労感は微塵もない。けれども声にそれは滲んでいる気がする。年齢以上に老け込んでいる、その声。きょうは、特にそれが顕著だった。低くて微かに湿り気があって、ざらついているのに、聞き取りやすい。こういうのを表現するときこそ、ドスが利いているというのだろうか。

「え……」
「……なにか、用事があるのか?」
「いえ。でも今日は結構です。ありがとうございます」
「なんでだ?」

 おっ、と思いがけず声を洩らしそうになった。まさかそんな返しがくるなんて思っても見なかったので驚いたのだ。

「あの、その。わたし実は、風邪気味で……もう治ったんですけど」
「……」
「咳がまだ出るので移してしまうかもしれませんので……」
「——それは、嘘だな」
「!? 嘘じゃないです、こんな体を張った嘘、つきません、マスクまでしてるのに……」

 ふう、と短くため息をついて彼は顔を背けた。遠くのオフィスで電話のコール音が鳴っている。それは二度ほどで途絶えた。その間ずっと社長は黙って窓べを眺めていた。じわりと橙色を帯びた夕暮れの光が、彼の顔の輪郭を照らしている。

「今から会合がある。お前の駅の傍を通るんだ」
「……」
「都合でも悪いのか?」
「……で、でも。」
「……」
「……! あ、あの、恐れ入ります。それじゃあお願い、いたします……」

 じろ、と睨まれてしまい喉がひくりと強張ったので、反射的にお願いしてしまったじゃないか。
 なんでそんなに、ぴりぴりしているんだろう。早足で歩きだす社長の背中を追いながら逆になんだか、拒絶されているみたいだ、と思った。

 社長の車は今日もピカピカのポルシェだった。助手席に座りシートベルトを締める。車内の冷たく心地よい空気を吸い、左となりに社長の無言の圧力めいた存在感を肌に覚えると心は入社当初の遠くから眺めているだけだった頃へ遡った。
 私はあの日——初めて藤真社長と会ったとき。彼を恐れていて近づかないようにしようと思っていた。それなのに今こうして当たり前のような顔をして助手席に座っていなければならないのだ。私にお礼を言われたり緊張しているふうなことを気取られると、社長はむっとする。だから私は、助手席にいるときの演技をする。女優になって。それは社長のビジネス上のパートナーであり都会の女であり、助手席という特権に恐れを抱かない演技だ。たぶん社長がここに乗せる女性はみな、そうだったのだろうと思った。だが同時にもしかするとそんな女性たちも、私と同じように演じているのかもしれないとも思った。

 不意にシートベルトのねじれに気付いて金具をただすために体をよじる。そのとき、後部座席が目に入った。革張りの広いシートにオートクチュールで有名なブランドの紙袋が置いてある。完全に女性向けのプレゼントだった。
 やばい。見てはいけないものを見てしまった。そう思って咄嗟に自分の爪先を見下ろすと量産型のパンプスの寂しそうな足元が見えた。次の休みに新しい靴買いに行こうかな。て、いうか。誰にあげるんだろう、どんな人なんだろう。なんか、そんな雑念に囚われたくないな。惨めな気持ちになることがわかりきっている。この人といると、自分がいかにちっぽけか思い知らされて、いやになるときがある。
 みょうじさんみたいになるには、どれくらいの努力が必要なんだろう……。
 社長はそんな私の動向を横目で見ていたらしい。彼はカーブを切るために、不機嫌そうな顔をさっと背けた。

「つらいのか」
「……いえ。もうだいぶ、いいです」
「そうか」

 ウウン……と低い唸りを上げてエンジンが加速する。こっそりとルームミラーを見上げた。社長の凛々しい眼差しが、長方形の中に映っている。微かに逆立ったかに見える不満げな眉。ガラス玉みたいなきれいな瞳。こっそりのはずだったのについ、じっと見つめてしまう。そしたら鏡ごしに不意に目があった。

「——きょう、俺を避けてただろ」
「……え?」
「……」
「え、全然そんなこと……ないですよ?」
「……」
「本当に……! そんなことないですって」
「お前には失望させられる」
「え。」

 ウウン……。エンジンの音が、再び聞こえる。彼がアクセルを踏み込んでいるのだ。

�� 失望させられる ��

 と言った苦い声をパノラマのような景色を眺めながら反芻する。失望させたということは希望も持たせていたのだろうかと、馬鹿なことを考えていた。社長が望む私のあるべき姿と、私の望む私自身というものには違いがある。私は社長の前でもふつうにしていたかった。打ち解けた素の自分というものを出したかった。それがすこしずつ、叶えられていると思っていた。そうして同じ志を持つ仲間になりたいと。だが彼は、私の素の部分など望んでいない。スーツを身につけビジネスのために武装した感情のない社員である私を望んでいるのだ。だから私が感情を見せると彼は「失望した」なんて言う。だけど私は、社長のようにはなれない。
 ��過去の出来事�≠ェなければ彼の望みどおりの社員を演じることもできたであろう。だが��元婚約者�≠ニいう事実が間にあるとそれが重い足かせになって身動きが取れなくなるのだ。
 ��今�≠フ私に��今�≠フ本当の自分に、あの頃のような冷酷の中にも垣間見れた優しさを、向けてほしいから——。
 ばかだな……そんな事、起こりっこないのに。

「わたしは、避けてなんか、いません」
「給湯室に隠れて、昼時も不在だっただろ」
「……!」
「……」
「あれは意図的に避けたんじゃなくてっ!その、恥ずかしかったからです……」
「恥ずかしい?」

 あー!もういいや。なんか、もういい!言ってしまえ。途中で猛スピードで走る車から投げ出されたとしても。初めて、藤真さんと会ったときのような��わたしらしい�≠�たしで言ってしまえ!

「なんか、照れ臭かったんですよ。綺麗だなとか言われて」
「……」
「社長にはこんなこと、理解できないと思いますけどねっ!」
「俺ではお前の感情などわからない、か……」
「わかんないですよ!社長は……藤真さんは私のように、感情に囚われたりしない人ですからね」
「……」
「違う、世界の人なんですもん……。」
「……かもしれないな。」

 いつか社長は言った。みょうじさんのことを。
�� きみとは別の人種だ �≠ニ。
 きっとみょうじさんは藤真さんと同じ人種だ。わたしとは違う。わたしは二人とは違う。彼もそのことを知っているんだろう。

 フロントガラスを混雑した道路からたくさんの光が矢のように降りそそいでくる。たまらなく、悔しかった……間違った考えを持って仕事をしていると思った。藤真さんの望む考えではないと、わかっていたから。

「お前からすれば俺は、ひどい人間に見えるんだろうな」
「社長は完璧すぎて、ロボットみたいな人です」
「いっそ、本当にそうなら楽だった」
「え……?」

 高速道路を下りると、まだ夕暮れの赤みを引き摺った夜空が街の頭上でグラデーションを成していた。

「……二十分か。会合まで間がある」

 時計を一瞥して、彼が囁く。

「社長こそ、会合って本当なんですか?」
「……? なんのことだ」
「こっちから都心に戻るの二十分で足ります?」
「……」
「女性と……会うんじゃないんですか?」
「……」
「わたし、言いふらしたりしませんよ」

 なぜか訪れる突然の沈黙。ちょっとだけ会話のリレーが出来ていていつもよりも話しやすかったのに、また私がそれを壊してしまった。

「……その言いがかりの理由が後ろの荷物にあるなら、言っておくけどな」
「……、」
「それは——これから会合で会う方の依頼で取り寄せたものだ」

 車はぐんぐんと私の最寄りの駅のほうに近づいていく。心はまだ解決していない。まだ降りたくない心境を置き去りにして——。

「和服と合わせるられるものを、と。」
「……」
「母への贈り物にしたいと。みょうじに手配させた」
「……」
「本当だ」

 社長の怒ったような眉間が未だルームミラーに映っている。険しい眼差し。ずっと前方の道路を見据えている。そうしながら彼が横目で私を見ていることもわかっている。私もそうしていたからだ。お互いの視線を感じていて、それでもずっと前方を見ているふりをしている。

「……わかりました。失礼な口を利いて、すみませんでした」
「……」

 機械的な声の謝罪は、かえって侮辱だったかもしれない。恥ずかしい。だって、いまわたしは、不貞腐れているのだ、多分……。

「名字はやっぱり、アイツに似てるな」
「……え?」
「いや……」

 アイツ? え。アイツって、もしかして……。
 ひさ……、

「桜木。」
「え。」

 社長は微かに微笑したようにも見えたがすぐにいつもの表情に戻ってそのまま口を噤んだ。車が振動もなく私の利用する駅前に横付けする。そこでやっぱり思い立った。こんなところの近くで、会合なんて、ないんだろうなって。
 まだほの暗い青い夕暮れ時のこと。往来には、人が行き来していて前に一度送ってもらったときとは、時間が違う。まだ今日という一日は長く、そのぶんこの車内の出来事を整理するのに当てられるだろう。きっと、眠る前と眠ったあとでは、記憶の鮮明度が違う。

「ありがとうございました、社長」
「……早く、よくなるといいな」
「はい、」
「名字」

 社長はわたしの目を見た。ゆっくり彼は右手を私の顔に伸ばしてくる。指先が近づいてくるのがスローモーションのように感じられた。
 金曜日の夜……寿が触れようとしてきたときと同じだ。
 私が驚いて表情を強張らせるとハッとして彼は手を止める。その指先が頬に触れることはなかった。そしてひっこめた右手をハンドルに掛けた。力をなくしたように顔を背けながら。

「髪が……口元に」
「……えっ、あ、はい。」
「すまない」
「……?」

 なんで謝るんだろう……。髪の一房がマスクに引っかかっていたらしい。私は指でそれをさっと払う。なんだか気まずい空気が流れて、私はそそくさと車を下りた。社長の車が街角に消えていくのを見守った。排気ガスまで消え失せ、他の車の通行が彼の車の存在感を上書きしてしまう。それなのに最後のあの気まずさが生々しくいつまでも顔の前に漂っている。あの青くスパイシーな香りと共に——。

「……。」

 もしかして社長——わたしを、いや……そんなわけない、そんなわけない。そんなわけがない。


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