社を出て車の中に乗るとさっきの恥ずかしさも薄れた。となりを見ると藤真さんがいる。
藤真さんはじろじろ見られてすこしいやそうにしているけれど。
「どこに、向かってるんですか?」
「適当に流してる」
「ああ……そうですか」
彼は無表情のまま信号で停止するためになめらかに減速させた。ふわりと停車し赤い光が車内に差し込んでくる。突如、藤真さんのひと指し指が伸びて来て私のブラウスの襟を少しだけ下げた。
「——え! なんですか!?」
驚いて声を上げた私を置き去りに、その手は、さっと元の位置のハンドルへと戻される。社長は珍しくやや楽し気にハッと一度だけ鼻で笑った。その仕草にも驚く。すぐに真顔に戻った信号機を見ているその横顔。彼は今、なにを考えているのだろうか。
「そんなに乱暴な痕付けたか?俺。」
「え」
信号が青に変わり、車がゆっくりと発進する。あいかわらず、このシートは座り心地がいい。
「いや、これは……」
言いよどむ私をチラと一瞥した藤真さんはまた正面を向き、目元をすこしだけ和らげて言った。
「三井か」
「え! あ、いや……その」
「あいかわらずだな、おまえら」
「……すみません」
車に乗ってからというものその穏やかな雰囲気と口調がずっと続いていて、そして、相変わらず確信めいた発言ばかりする彼に動揺させられっぱなしの私はなぜか謝ってしまう始末。だが何度か訪れた沈黙も、今日のような雰囲気の藤真さんが隣にいるのならばまったく苦にはならなかった。
「悪かったな、あんな真似して」
「へっ?」
「新宿で」
「ああ……いえ、大丈夫です。」
「三井とは、うまくいってるのか?」
「え……」
突然そんなことを聞かれて驚いた。不意打ちがすぎる。べつに私と彼のことなんて、興味もないくせに。そもそも知りたいなんて、本当は微塵も思っていないくせに。
「……なんで、ですか?」
「まあ、うまくいってないだろうな」
「……、」
「その傷を見れば」
「……い、いってますよ、たぶん……」
くちびるを尖らせて、語尾が尻すぼみしていく私に、やっぱり藤真さんは楽し気に浅く笑った。
『 藤真と、うまくいってるか? 』
藤真さんの言った言葉が、頭の中で反芻する。『三井とは、うまくいってるのか?』って。
思いがけず過去に幼馴染の彼に言われた台詞がよみがえり、あのときの感情とか情景が、一瞬でフラッシュバックして、胸が締め付けられた。
*
しばらく車を走らせてから夜景と海が一望できるスポットで彼は車を停めた。エンジンを止め、シートベルトを外した藤真さんを横目に見て私もなんとなく同じようにシートベルトを外す。
「……なあ、」
「はい?」
「ずっと、俺のそばにいれば?」
シートに背をあずけたままで藤真さんが言う。藤真さんのほうに顔を向けたとき、彼の目の中に夜景の光なのかキラキラとした色が見えて思わずそのまま見つめてしまった。それでも彼は、私を一瞥もせずに正面を向いたままだった。私は彼と同じように正面に向き直ってから目を伏せて自嘲するように言った。
「いま、自分を試すつもりで言いましたよね」
「……」
「ずっと、俺のそばにいればって言った自分が、どんな気分になるのか」
「……」
「試したかったんですよ、本気で言ったわけじゃない」
ややあった沈黙のあと藤真さんが諦めたように溜め息混じりに、ぽつりと零す。
「……なんで、そんなにわかるんだ?俺のこと」
「当てずっぽう、勘。」
「……」
「わかるフリ、したいだけです」
藤真さんはフ、と浅く笑って「そうか」と言った。わたしはその声を聞いて、すこし頬が緩む。
「ねえ、藤真さん?」
「ん」
藤真さんを見れば、藤真さんもゆっくりと私の方に顔を向けた。私はすっと彼から視線を解くと車の中、正面に見える景色の光に目を細めながら言う。
「地位と名誉、お金も力も美貌も……なーんでも持ってる気分って、どんな感じですか?」
「……」
「……」
「鳥かごに、入れられてる感じ」
「え?」
反射的にもう一度藤真さんを見れば正面、彼はどこか一点を見つめたまま、なんだか、寂し気な表情をしているように見えた。
「——で、そのまま心に鍵をかける」
「……」
「そこからは、はみ出さない。嬉しくもなければ悲しくもない」
「……」
「他人に期待なんてしないし、信用もしない」
「……、」
「愛さない。だから、傷つかない。」
「……。」
わたしは今はじめて、彼の孤独を知った──。きっと藤真さんだって私たちと一緒で、何気ない言葉に傷ついたり逆に誰かの何気ない一言に救われたりして来たんだろうなって。そういうのが、全て疎ましくなってしまった何か大きなきっかけがあったんだろうなって。でも、生きるってそういうことだと思う。いま隣にいる彼もそんな人間じみた感情をちゃんと持っているんだと思ったらなんだかほっとして、嬉しくなった。
「半径、15センチの心だ。」
「ん?……15センチ?」
「鳥かごって、そんくらいじゃないです?」
「まあ……それくらいかもな」
「ずーっと飛ぶことのない心」
「……」
「藤真さん。飛び方、忘れちゃった?」
シンと静まり返る車内。刹那、藤真さんが鼻で笑ってから、ハァと短くため息を吐く。そうしてひそやかにつぶやいた。
「お前といると、ほんといい感じにむかつく」
「はいはい、それもう前に聞きましたっ」
「でも、本当はまだ飛びたいって……思ってるのかもな」
藤真さんは不意に真っ暗闇の霧がかった都会の夜空を見上げながら、そんなことを言った。
「籠の中の鳥ほど、青い空に憧れるのか……」
「え……?」
「自由に飛んでる鳥よりも……心を開かない人に限って、人から愛されたがっているんだろうな」
「……。」
私も彼につられて光化学スモッグで霧に包まれてしまった都会の、星のひとつも見えない夜空を見上げてみる。
「お前も三井も、そうなんじゃないのか?」
私はゆっくりと視線を藤真さんに向ける。彼も視線をゆっくりとこちらに向けた。しばらくまばたきも忘れて見つめ合っていたけれど先に視線を解いた藤真さんがまるで何事もなかったかのような口ぶりで言った。
「正社員の話、前向きに検討するらしいな」
「あ、はい。このあいだ、そう……伝えました」
「お前の仕事ぶりは、俺もかってるぞ」
「あ……はい、ありがとうございます」
「だからもう……��こういうの�≠ヘ今日で本当に最後だ」
「え……?」
「もう、お前と会うこともない」
「……、」
「——よし。会社に戻るぞ」
言って彼はエンジンを掛けた。車はゆっくりと来た道を戻る。突然、もう会うこともないなんてどういうことだろうと思って頭の中でいろいろと考えてみたけれどやっぱりよくわからなかった。もう私の会社に出向くことはなくなるということだろうか。そんな私の思考を置き去りにして車は会社までの道のりを颯爽と走っていく。車内は、ずっと無言だった。しばらくして私の会社近くの路肩に車が停まり私がシートベルトを外したとき彼が、ぽつりと言った。
「もうこうして送っていくこともないだろうな」
「……」
「元気でな」
「はい——藤真さんも。」
まるで永遠の別れでも告げられているようだと思って、でも、そんなこと思いたくなくて、私はやけに明るいトーンでそう返した。
私は車のドアを開ける。彼に背を向けて車から降りようとした、そのときだった。藤真さんの、優し気な声が背後からしたのは。
「名前」
私の名を呼ぶ、懐かしい声。それでも私は振り向かない。背を向けたままで先に続く言葉をただ待つだけ。
「おまえに、出会えてよかった」
「……、」
「俺は、幸せだったよ」
「……っ」
結局、彼の方へ振り向くことはせずに、ぺこと頭を下げてから車を降りてドアを閉めた。そしてここでようやく藤真さんのほうを見て、もう一度頭を下げた。彼はやっぱり、私を一瞥もしない。
車は、私を乗せていたときよりもずっとずっと速いスピードで、奥深い夜の中へ消えていった。
初めて彼の愛車、ピカピカのポルシェに乗せてもらったときと、同じように——。
わたしは泣かない。涙なんか絶対に見せない。悲しいからと言って涙がすぐに出るほど、もう、若くはないんだってば。
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