たくさんの感情に苦しんで

 たくさんの矛盾と闘って

 たくさんのプライドを切り崩していくのが

 本当の恋だって、オレは思うの。

 だって、アンタらそうやって

 長いことやってきたんじゃなかったのかよ?





 *


「…みつ……っ」

 目の前の人の名前を口にするのも躊躇われた。まったく、わけが解らなくて、何故か俺の視界が眩暈なのかくらくらと歪み始める。三井サンは、落とし込んでいた視線をゆっくりと俺に投げ掛けてきた。

「アンタ、何してんの……」

 咄嗟に喉を通り抜けて出たのは、そんな怒りを孕んだ言葉だった。

「頭、おかしいんじゃねーの……?」
「ああ、知ってる。」

 三井サンはまたその視線を俺から正面の海へと移す。俺はそんな三井サンをずっと睨んでいた。

「俺よ、狂ってんだよなァ。頭……イカれてんのかも知れねぇな」

 この状況下において、三井サンは自嘲するかのように浅く笑ってそんな事を言う。そんな先輩に俺は当たり前に込み上げてくる怒りを隠せない。内側から溢れそうになる感情が。油断したら手が出てしまいそうだった。俺はギリギリのところでそういう感情をすべて、必死に抑え込む。
 三井サンは正面を向いたまま眉を下げ、まるで何かを慈しむかのように微笑んだ。
 この人、怖いなと純粋に思った。だって、いまこの人はたぶん、あの幼馴染の彼女の事を考えているんだろうなって思ったから。いや、それとも自分のことを慈しんでいるのかも。どっちにしたって恐ろしい人だ。そんな思考で頭の中が一瞬にして支配される。次の瞬間、何かが弾けたように俺は、三井サンの左肩を思い切り揺すった。

「——ねえ、何してンのって、聞いてんのっ!」

 生意気だといつも下に見ていたはずの後輩からそんな事をされていても彼はまったく抵抗の色を見せなかった。いつもなら「触んな!」とか「調子に乗るな」って、振り払いそうなものなのに。いまは動じないし、微動だにもしない。

「三井サン! アンタ正気?大丈夫かよ!?」

 投げやりに、三井サンをつかんでいた手を払うようにして突き離すと、俺は、正面に向き直って無意識に、舌を打ち鳴らした。そしてこの、とてつもない怒りの原因を自分の中で整理してみる。
 この人と俺が出会ってから、高校時代に起きた様々な出来事と。そして、現在までの、この人の痛みを思うだけでなぜか全身八つ裂きになりそうだった。この人の人生の中での闇の部分を照らしてくれていたのが彼女、名前ちゃんだったんだって、改めて気付いたからだ。
 やっと手に入れたのにそれを自分で壊し掛けていると思い込んでるから迷路から抜け出せないのかって。自分を責める事で、自分を哀れみる事でいまギリギリの精神で一人、必死に立ってんのかこの人は、って。
 羨ましさとか憧れとか、悔しさとか愛しさとかいろんなものがもう、複雑に絡みついてしまっていて、離れていくってわかったら、たとえそれが自分のせいだとわかっていても、ぐちゃぐちゃにしてやりたくなるのか……。そんなのまるで俺が高二の春、この人が体育館に殴り込みにきた時と同じじゃねえか、って——。
 そんな三井サンの中の闇があるから、無意識の領域で大切な彼女のことも、そして自分のこともぜんぶ、一気にぶっ壊れちゃえばいい、って。
 それでもあの子なら、受け止めてくれるって、彼女ならきっとすべてを包み込んでくれるだろうという甘え。それに三井サン本人は気付いているんだ。三井サンの心の中の矛盾。それを声に出したらきっと、彼女との��終わり�≠ノ辿りつくから苦しいのか、って。

「俺は、宮城……狂ってんだよ——」

 そんな思考の俺を無視して真横から感情のない先輩の声。思わず、ピクリと片眉が吊り上がる。

「っるさいよ!もうそんな自虐ネタいいっつの」
「……」
「何でこんなことになったの?もう離れねーって絶対幸せにするってアンタ決めたんじゃなかったのかよ!俺と約束したじゃねーか三井サンっ!」
「そもそも、全部——なにもかも」
「……」
「はじめにふっかけたのは、俺のほうだからな」
「そんなンっ………」

 ああもう、何も言えない。もう、意味がわかんないよ。おかしいよ、ぜったい、おかしいって。

「三井サン……アンタ、おかしいよ」

 こんなの、おかしすぎるだろ……。

「知ってる……って、言ったよな」
「いかれてるよ」
「知ってるよ」
「こんなの、誰も得しねーし!」

 俺は、怒りとか動揺とか混乱とかを柄にもなくガキみたいに無様に晒して三井サンを覗き込み、その目と無理やりに視線をかち合わせた。感情のない瞳が出迎えて数秒見つめ合うかたち。そして三井サンは、視線をまた正面に向けた。

「誰も得しねーよ?三井サンだって気分悪いだけでしょ?」
「ああ」
「ああ、って。じゃあ、なんで……」
「……」
「なんで名前ちゃんのこと傷つけるようなことばっかすんの!?」

 俺は思わず、三井サンの左肩を押しやる。でもちょっとだけ揺れただけで、三井サンはやっぱり微動だにしない。

「早く話し合いなって!名前ちゃんに謝ってさ、んで——」
「うるせーな……いちいち熱くなんなっつーの」

 俺の言葉をさえぎってそう言った後も、なおも冷めた三井サンのその声と態度にすでにマックスに近かった俺の怒りのゲージが一気に振り切る。

「なンなんだよっ!三井サンらしくねーって!」
「………だから、」
「目ぇ、覚ませよっ! 三井サ——」

 そこまで言いかけて三井サンにガシッと手首を掴まれた。そして彼の鋭い瞳に射抜かれる。俺は思わず押し黙った。その気迫に負けたというのもある。けれどすぐに俺は脱力して、ぽかんと口を開けてしまう。いやほっとしたのかもしれない。だって三井サンの瞳の中に人間味の溢れた生きていると証明したげなその光が、しっかりと戻って来たような気がしたから。
 光を宿した瞳が俺をじっと見据える。俺も負けないようにその強い意志のある瞳を見つめ返す。

「宮城……」

 徐々に眉間に皺を寄せていく三井サンの唇からぽろっと、か細い声が零れた。

「助けて、くれ——」

 ——という普段は先輩という立場を忘れさせるほど生意気で、憎たらしくて口が悪くて無愛想な先輩の、弱々しい声が。


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