≪Chapter 1≫
気づいて、お願い気づかないで


 わたし、キミが思ってるほど

 強いわけでも

 優しいわけでも

 傷付かないわけでも

 きれいなわけでも

 ひとりが平気なわけでも

 なんでもない


 つもりだったんだけどね……。













「……」
「……」

確実に自分の名前を呼ばれた。振り返ってその場で固まっている俺と俺の顔を覗き込むように見上げている彼女。

その彼女の足は……
ちゃんと、地面についていた。

紛れもない、その彼女の二本足が、しっかりと地面に立ってその体を支えている。足元を凝視している俺を見た彼女が、クスッと手を口元にあてて浅く笑う。

「なんだか、幽霊でも見たような顔だね」
「………」

聞こえた声に、また視線をゆっくりと彼女の顔へと向けた俺は思わず息を止めていたことを、このとき気付く。

「だーっ! はあ、はあ」と大袈裟にも息継ぎをしてみれば、彼女はきょとんとしたあとに、キャハハハと声を出して笑った。


取りあえずの流れで、コンビニの車止めの石に二人で腰を下ろして少しだけ会話をした。

自分の真横、俺のスペースを空けてくれたであろう彼女を見て見ぬふりをする。その空けられたスペース、一緒の石段に腰を掛けずに離れて俺が座ったのは自分の中での罪悪感とせめてもの抵抗だった。


「こっちに……なにしに来たんだ?」
「大学の友人がいるの。あれ?前に言ったことなかったっけ?」

彼女が俺のほうを見て首を傾げる。俺はそれを一瞥したあと「悪い……覚えてねえ」と言葉を濁した。

彼女はそんな俺の返答に驚く様子も、はたまた落ち込む様子もなく「ひさしっぽいね」と言って柔らかく微笑む。

沈黙が続く中、俺はやっぱりどうしても彼女の足元に目がいってしまう。俺の視線を周囲の何も知らない人たちが見たらきっと俺は、ただの変態だ。


「足……、」

すこし言いよどんだあとに、俺がぽつりとつぶやく。彼女は正面を向いていた顔を俺のほうによこしてくる。

「もう、すっかり良いのな。」
「うん。なんなら短距離競走できるよ?」

「そこのスペースで試してみる?」と冗談交じりに聞いて来た彼女に俺は「ハハ。遠慮しとくわ」と、手を軽く翳して微笑み返した。


「よかったな。」

俺のその言葉に彼女は、なにも返してこなかったけれど、ややあった沈黙のあと、彼女が思いついたように「あっ!」と声をあげた。

「ねえねえ?」
「あ?」
「駅まで送ってもらえないっ?」

「次のバス待ってるのも時間ロスだしさ」と、ヘラッと笑って言う彼女に面食らって、押し黙ってしまう俺。

「お、送ってって、よ……」
「ねえー、お願いっ」

「今回きり、もう無いから」と両手を顔の前で合わせて懇願する彼女に、俺は後頭部に手を当てて困惑する。

たしかにここから近い駅は、車で十分ほどだ。少し行けばあるバス停に促したとしても、この時間はそうそうバスは通過しないだろう。


彼女を車に乗せるか乗せないかの選択よりも先に、名前になんて説明しようか……ということが先行して頭の中を駆け巡る。

こんな夜遅くに女性に送ってくれと言われ断るためには世の男性はなんて断り文句を見い出すのだろうか……。

ここで置き去りにしたと言ったら、名前は何て言うんだろう。怒りそうでもあるよな。夜道に女を放置してきたんか!とか言ってよ。


「じゃあ……駅まで、な。」

視線をそらしながらぼそりと零した俺の言葉をしっかりと聞き取っていた彼女が「ラッキー」と歯を出して笑う。


結局、最寄りの駅まで送り届けることにした俺が、彼女を後部座席に誘導しようか迷っていたとき、さっさと助手席のドアを開けて乗り込んだ彼女にその先を越されてしまう。

助手席になんて……乗せていいのだろうか。


本来、この瞬間に俺はやめておくべきだったんだ。申し訳ないが送れない、と。自分の車には乗せられない、と……。

やっぱり彼女と二人きりにならないほうがよかったと気付いたのは、それから数十分経ってからのことだった。


車内で彼女は、ずっとなにかと話し続けていたが、俺は名前のことばかり頭を過ぎってほぼ彼女の話は聞き捨てていた。

駅に向かう道、対向車と事故に遭ったであろう軽自動車の周りにパトカーが停まっている。

まさかの通行止めを喰らい、さっさとUターンして別の道を探す。

ナビである程度の抜け道を探し当てたとき、不意にナビ画面のほうに彼女の指が伸びて来て、持ち前の瞬発力に助けられ彼女と接触することを待逃れる。

仮にも助手席の相手が、彼女以外の女、名前や彩子ら友人ならば、このまま自宅まで送っていくところだ。

けれど、いま隣に座る彼女相手に、それはさすがにお人好しが過ぎる。それくらいは俺だって理解していたんだ。 なのに、なんでこんなことになったのか……。


信号待ちをしているときだった。彼女を降ろす予定の駅が、信号の先に見えた。

運転席の窓ごしに外を眺めていた俺がその体勢のまま、「名前」と呟いた。ややあって助手席のほうから「なまえだけど…」という小さな声が聞こえてきて、俺がハッとして助手席を見る。

彼女がじっと俺の顔を凝視している。俺はさっと視線をそらして「ああ、……悪い。みょうじ=vと言い直した。


「………、なに?」
「もうすぐ、着くぜ」

「駅。」と言い置いて俺は、信号が変わったタイミングでアクセルをゆっくりと踏み込んだ。駅を目の前にした路肩に車を停めて、一応ハザードランプを付ける。


「ここからは歩けるだろ」

決して冷たく言い放ったつもりはなかったが、多少声が低かったことは否めない。彼女がゆっくりとした動作で、シートベルトを外す仕種が目の端に映る。

俺は正面を向いたまま右手をハンドルにかけていた。彼女が車を降りたらすぐにでもハンドルを切ってしまいたい衝動に囚われていたからだ。


ガチャ……という音とともに、助手席のドアが開いたと知らせるドアアラーム音が車内に鳴ったとき、ホッと胸を撫でおろした刹那——油断したんだ、俺は。


「………」
「………、」

 あ?

「………」
「———ッッ?!」


気付けば、すぐ目の前に彼女のツラがあって、俺の唇にかすかな温もりが宿ったあと、サッとそれが離れていった。

思わずハンドルに添えていた右手、手の甲を自身の唇に押し当てる。

顔が熱い——。

きっと俺はいま、赤面状態なのであろう。彼女はすでにシートベルトを外しているし、助手席で平然と座ってこちらを見ているし。そして俺の顔を見ながら、こともあろうに、くすくすと笑っているのだ。


「ひさしとの初<Lス……だね。」
「……あ、あのなぁ! なんなんだよ、勝手にキスな——」

「最初で、最後だよ。」

わたわたと慌ただしく暴れていた俺の言葉を遮るように、優し気に、そして切なげな彼女の声が室内に小さく響き渡った。

そっと口元に当てていた手を、すとんと下に落としてしまった俺は、呆然と彼女を見ているしかなかった。

言葉がでなかった。
なんて、言ったらいいのか、
わからなかったんだ。


怒る……べきだったのだろうか。
笑う、べきなのだろうか。

ああ、違う。

謝るべき……、か——。


そんなことを考えて瞼を何度か瞬きするだけの俺を置き去りに、彼女が車から降りて行く。バタン!と助手席のドアが閉まったことで車内のドアアラーム音が止んだ。

俺がハッとした頃には、彼女はもう車の外。閉まった車のドアが、一枚の大きく分厚い二人の距離感を指し示しているかのようにも見えた。

窓越しの俺に、二秒ほど手を振って駅のほうへと彼女は歩いて行った。

「……」

その姿を見送って、彼女の姿がしっかりと見えなくなってから俺は「マジかよ……」と思わず声を漏らしてハンドルにうな垂れるように額を付けた。


罰が、当たったのだと思う。

彼女と一緒にいたことの理由に愛≠ェ無かったことを、彼女は知っていた。

それを見て見ぬふりをして日々過ごしていた俺は責任≠ニいう便利な言葉に逃げて、結局は弱い自分自身を守りたかっただけなのだ。

お人好し精神が過ぎた。


たとえあの日、事故が起こったとしても、起こらなかったとしても、彼女をちゃんと突き放せなかった、俺の弱みなのだ。

こんなちっぽけで未熟な俺だったからこそ、名前の元に、またアイツ≠ェ現れたんだろうな、といまならば冷静に思うことができるのにな……。


結局俺は、名前に彼女と会ったことも言えず、もちろんキスされたことも言えずに、名前への初めての秘密≠作ってしまったのだった。


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