≪Chapter 1≫
気づいて、お願い気づかないで
わたし、キミが思っているほど
強いわけでも、優しいわけでも
傷付かないわけでも、きれいなわけでも
ひとりが平気なわけでも、なんでもない。
なんでもない、
つもりだったんだけどね……。
*
「……」
「……」
確実に自分の名前を呼ばれた。振り返ってその場で固まっている俺と、俺の顔を覗き込むように見上げている彼女。そんな彼女の足は、ちゃんと地面についていた。
紛れもない、その彼女の二本足が、しっかりと地面に立って、その体を支えているのだ。
足元を凝視している俺を見た彼女が、クスッと手を口元にあてて浅く笑う。
「なんだか、幽霊でも見たような顔だね」
聞こえた声にまた視線をゆっくりと彼女の顔に向けた俺は思わず息を止めていたことをこのとき気が付く。「だーっ!はあ、はあ」と大袈裟にも息継ぎをしてみれば彼女はきょとんとしたあとにキャハハハと高い声を出して笑った。
取りあえずの流れで、コンビニの車止めの石に二人で腰を下ろして少しだけ会話をした。自分の真横、俺のスペースを空けてくれたであろう彼女を見て見ぬふりをする。
その空けられた一人分のスペースに座る事なく一緒の石段には腰を掛けずに、離れた位置に俺が座ったのは自分の中での罪悪感とせめてもの抵抗だった。
「こっちに……なにしに来たんだ?」
「大学の友人がいるの。あれっ?前に言ったことなかったっけ?」
彼女が俺のほうを見て首を傾げる。俺はそれを一瞥したあと「悪い、覚えてねえ」と言葉を濁した。彼女はそんな俺の返答に驚く様子もはたまた落ち込む様子もなく「ひさしっぽいね」と言って柔らかく微笑む。
沈黙が続く中、俺はやっぱりどうしても彼女の足元に目がいってしまう。俺の視線を周囲の何も知らない人たちが見たらきっと、ただの変態だ。
「足……、」
少し言いよどんだ後に俺がぽつりとつぶやく。彼女は正面を向いていた顔を俺のほうによこしてきた。
「もう、すっかり良いのな」
「うん。なんなら短距離競走もできるよ?」
「そこで試してみる?」と冗談交じりに聞いて来た彼女に俺は「ハハ。遠慮しとくわ」と、手を軽く翳して苦笑いを返した。
「よかったな。」
あまりにも他人事のような言い草ではないかと自分でも自分の発言に突っ込みを入れたくなったが、そんな俺の無神経すぎる言葉に彼女はなにも返してこなかった。けれども、ややあった沈黙のあと、彼女が思いついたように「あっ!」と声をあげた。俺は思わず肩がびく付く。
「ねえねえ?」
「……あ?」
「駅まで送ってもらえないっ?」
「次のバス待ってるのも時間ロスだしさ」と、ヘラッと笑って言う彼女に面食らって押し黙ってしまった。俺は、動揺したまま吃って返す。
「お、送ってって、よ……」
「ねえ〜、お願いっ」
「今回きり、もう無いから」と両手を顔の前で合わせて懇願する彼女に俺は後頭部に手を当てて困惑する。たしかにここから近い駅は、車で十分ほどだ。少し行けばあるバス停に促したとしてもこの時間は、そうそうバスは通過しないだろう。相手を車に乗せるか乗せないかの選択よりも先に幼馴染の彼女に、なんて説明しようか……ということが先行して頭の中を駆け巡る。こんな夜遅くに女性に送ってくれと言われて断るためには世の男性は、なんて断り文句を見い出すのだろうか。ここで置き去りにしたと言ったら真面目な幼馴染はなんて言うんだろう。怒りそうでもあるよな。「夜道に女を放置してきたんか!」とか言って。
「じゃあ……駅まで、な。」
視線をそらしながらぼそりと零した俺の言葉をしっかりと聞き取っていたらしい相手が「ラッキー」と、白い歯を出して笑う。
結局、最寄り駅まで送り届けることにした俺は彼女を後部座席に誘導しようか迷っていた。が、さっさと助手席のドアを開けて乗り込んだ相手にその先を越されてしまう。ここで俺はまた悩む。助手席になんて、乗せてもいいものだろうかと。
本来、この瞬間にやめておくべきだったんだ。「申し訳ないが送れない」と「自分の車には乗せられない」と、はっきり……。
やはり彼女と二人きりにならない方がよかったと気付いたのはそれから数十分経ってからのことだった。
*
車内で彼女はずっとなにかと話し続けていたが俺は幼馴染の彼女のことばかり頭を過ぎってほぼ相手の話は聞き捨てていた。
駅に向かう道、対向車と事故に遭ったであろう軽自動車の周りにパトカーが停まっている。まさかの通行止めを喰らいさっさとUターンして別の道を探す。ナビである程度の抜け道を探し当てたとき、不意にナビ画面のほうに彼女の指が伸びて来て、持ち前の瞬発力に助けられ彼女と接触することを待逃れる。
仮にも助手席の相手がコイツ以外の女、例えば彩子とか赤木の妹とか相手が女とはいえ幼馴染も公認の俺の友人ならば、このまま自宅まで送っていくところだ。けれど、いま隣に座る彼女相手にそれはさすがにお人好しが過ぎる。それくらいは俺だって理解していた。なのに——なんでこんなことになったのか……。
信号待ちをしているときだった。彼女を降ろす予定の駅が信号の先に見えた。運転席の窓ごしに外を眺めていた俺がその体勢のまま無意識の内に「名前」と、つぶやいた。
ややあって助手席の方から「なまえだけど」という小さくも突き刺さるような声が聞こえてきて、俺はハッとして助手席の方を見る。
「……」
「……」
気まずすぎる。完全に無意識だった。彼女が、じっと俺の顔を凝視している。俺はさっと視線をそらして「ああ……悪い。��みょうじ�=vと、言い直した。
その瞬間、車内に何とも説明し難い空気が立ち込めた気がした。だって、名前で呼べないだろ、って。元々は大学の頃も名字で呼んでいたわけでもう関係が精算できているならば当たり前に呼び名は、名字だろうと思う……え、そうだよな?
「………、なに?」
確実に「気分を害しました。」と言う雰囲気を醸し出しながら、少々、冷たい口調で返される。
「もうすぐ、着くぜ」
「駅。」と言い置いて俺は信号が変わったタイミングでアクセルをゆっくりと踏み込んだ。駅を目の前にした路肩に車を停めて一応ハザードランプを付ける。車体の左右のライトが、カチカチと機械的に点滅している。
「ここからは歩けるだろ」
決して冷たく言い放ったつもりはなかったが、多少、声が低かったことは否めない。
彼女が、ゆっくりとした動作でシートベルトを外す仕種が目の端に映る。俺は正面を向いたまま右手をハンドルにかけていた。彼女が車を降りたらすぐにでもハンドルを切ってしまいたい衝動に囚われていたからだ。
ガチャ……という音とともに、助手席のドアが開いたと知らせるドアアラーム音が車内に鳴ったとき、ホッと胸を撫でおろした刹那——油断したんだ、俺は。
「………」
「………、」
あ?
「………」
「———ッッ?!」
気が付けば、すぐ目の前に彼女のツラがあって俺の唇にかすかな温もりが宿った後サッとそれが離れていった。
思わずハンドルに添えていた右手——手の甲を自身の唇に押し当てる。顔が熱い……きっと俺はいま、赤面状態なのであろう。
彼女はすでにシートベルトを外しているし助手席で平然と座ってこちらを見ているし。そして、俺の顔を見ながら、こともあろうに、くすくすと笑っているのだ。
「ひさしとの��初キス�=c…だね。」
「……あ、あのなぁ!なんなんだよ、勝手にキスなん——」
「最初で、最後だよ。」
わたわたと慌ただしく暴れて放った俺の言葉を遮るように優し気に、そして切なげな彼女の声が室内に、小さく響き渡った。そっと口元に当てていた手を、すとんと下に落としてしまった俺は、呆然と彼女を見ているしかなかった。
言葉がでなかった。なんて、言ったらいいのかわからなかったんだ。
怒る、べきだったのだろうか。笑うべきなのだろうか。いや、違う。謝るべき……、か——。
そんなことを考えて瞼を何度か瞬きするだけの俺を置き去りに、彼女が車から降りて行く。
バタン、と助手席のドアが閉まった事で車内のドアアラーム音がようやく止んだ。シンと無音の空間に包まれる車内。
俺がハッと意識を取り戻した頃には彼女はもう車の外。閉まった車のドアが一枚の大きく分厚い二人の距離感を指し示しているかのようにも見えた。窓越しの俺に二秒ほど手を振って駅の方へと彼女は歩いて行った。その姿を見送って、彼女の姿がしっかりと見えなくなってから俺は「マジかよ……」と、思わず声を漏らしてハンドルにうな垂れるように額を付けた。
罰が、当たったのだと思う。彼女と一緒にいたことの理由に��愛�≠ェ無かったことを彼女は知っていた。それを見て見ぬふりをして日々過ごしていた俺は��責任�≠ニいう、便利な言葉に逃げて、結局は弱い自分自身を守りたかっただけなのだ。
お人好し精神が過ぎた。たとえあの日、事故が起こったとしても起こらなかったとしても彼女をちゃんと突き放せなかった、俺の弱みなのだ。
こんなちっぽけで未熟な俺だったからこそ最愛の幼馴染の元にまた��アイツ�≠ェ現れたんだろうなと、いまならば冷静に思う事ができるのにな。
結局俺は、最愛の相手に��元婚約者�≠ニ会ったことも言えず、もちろんキスされた事も言えずに幼馴染の彼女への初めての��秘密�≠�作ってしまったのだった。
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