あの頃は息をするのがつらいことだなんて

 考えもしなかった。

 いつからこんなに生きていくのが

 下手になったのだろう。

 悪意のない刺が突き刺さる。

 無邪気な鎖に縛られる。

 ただ、自由でいたい

 ただ、それだけだったのに——。





 17歳、春
― 17歳、春 ―


 水戸のアパートの階段を降りているとき背中にさあっと走った悪寒。階段を降りた先にアイツがいた。先程の部屋の主。水戸洋平がこの雨の中、傘もささずに静かに立っていた。

「……」
「……」

 コイツ——いつからいたんだ。カン、カン、と階段を降りる音が、奴へと近づく。それでも俺は階段をくだりきる。地面に出来た浅い水たまりにスニーカーがぱしゃん、と音を立てて着地する。奴の横を通り過ぎたときポケットに手を突っ込んだままの水戸は、くるりとこちら側へ上半身だけ向けた。やけに微笑んだような表情で。

「ずいぶん時間かかったねー、送るの」

 俺も反射的に足を止めて振り返る。何か勘違いされているような気がする。別に心配しなくてもお前さんの身内とは、なにもなかったぞ。

「え、や、これは……スーパーに、寄らされて」

 よしっ、これは嘘じゃない。嘘じゃねーぞ? これは、まごうことなき真実だ。

「ふーん。うっそくせーなぁ」
「おまっ、先輩のいうことくらい信じろよ!」
「ははは」

 笑う水戸をよそに、俺はなぜか俯く。こいつの声といえば笑っているわりにはそれはまた温度のない声で。さっきの女や桜木たちとしゃべるときなんかよりも百度くらい冷たい声で。いまは瞳にすら、温度がない気がする。俺は持っていた傘を開こうと、正面に向き直って傘を前に翳した。

「みっちー」
「あ?」

 傘を開く手前、もう一度振り返ると雨のせいでなんだかこいつが……泣いているように見えた。——って。んなわきゃねぇだろ、バカが。
 俺のそんな呑気な思考の裏側で。ふいに胸倉を掴まれた。

「……っ!?」

 思わず持っていた傘を手放す。こんな空気を、俺は、知っている——。


『 もうバスケ部にはかかわらないと言え 』

『 不良やめて正解だったね 』


『 死んでたよ 』


「——、」
「………」

 額がぶつかる。俺は、目を瞑る。強い力が俺を縛る。な、なんだ……これ。漆黒の視界に広がる哀しくて、かなしい、その何か。既視感。そうだこれは、デジャブ——。
 俺がゆっくり目を開けると、俺の目の前、奴の切れ長な瞳。水戸は動けないでいる俺からすう、と、手を放した。

「あら、違ったか。」
「……はっ?」

 場に似合わずその軽やかな声音に、俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

「いや、みっちーがさ。泣いてんのかと思った」
「——、」

 え——。

「……」
「……」

 そして水戸は、静かに笑った。
 脳が固まる。なぜか悪寒が止まらない。自らの震えが、背筋が、凍てついて。カンカンと水戸は階段をのぼっていく。

「なあ……!」
「……ん?」

 俺の呼びかけに水戸は階段の途中で立ち止まり顔だけで振り返って、ポケットに手を突っ込んだまま俺を見下ろした。

「——な、なんであのとき、」
「……」
「俺まで、庇ったんだよ……」

 急に出たその言葉に水戸は表情をひとつとして変えなかった。だが無表情でも笑っているわけでもない。俺を哀れんでいるような目で見ている。
 やめろ……やめろよ。やめてくれ、そんな目で俺を、見るな——。

「んー......」

 と、水戸は、また正面に顔を戻してから何かを考えるみたいな、もしくは考えているフリをしているみたいな顔をして頭を少し斜め上に向ける。そうして、俺に背を向けたままで言った。

「何も知らなかったとしても、あの日——」
「……」
「アンタからバスケットを奪っちまうとこだったからなァ」
「……、」
「だから俺もさ、」

 雨が全身を濡らす。俺を、そして水戸を。酸性の水の音に紛れて微かに聞こえたこいつの声は。


 「後悔したく、なかっただけ。」


 少しだけ、熱いような気がした——。


��応援している�≠ニいう名の粘着。��頑張って�≠ニ言っているわりには、アンチコメ。
 人間の感情は難しいけれどいちいち言ってくる人間は性格が曲がっているのだと気づいたのは、大学時代、俺のチームが連敗していた時だった。その時なぜかあの高校三年生の春を思い出した。体育館に殴り込みに行ったあの日のことを——。

 水戸洋平という人間はいつも、正論を偉そうに言ってる奴らより、しっかり言ってくれるんだ。

「ま、そーいうことだからさ」
「……」
「この話、終わりねっ」

 最後にチラとこちらに顔を向け、眉をさげて、へらりと笑う水戸。雨に濡れずぎて乱れた髪が、ほんの少しだけ元の位置に戻りつつある。そんな水戸の前髪が奴をやけに幼く見せた。ああ、そういやコイツ、十五歳だったな、って。

「じゃーな、みっちー。」
「……」
「帰り道、気ィつけて」

 カン、カン。水戸は階段を気だるげに上がって行った。そしてその姿はもう、見えなくなった。

 前髪を下ろせばどんな瞳をしたって……そう、たとえば、いまみたいに、クソガキみたいな瞳をしたって隠すことができるのにそうしないのは、こいつの精一杯の��誠意�≠ネんだろうな、って。
 そして俺はこの日、こいつにだけは一生��勝てない�≠ニ思った——。


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