誰かを少しも傷付けずに生きていくことが

 不可能なように、

 自分にひとつの傷もつけずに

 生きていくことだって不可能なんだよ。

 なあ、どこまでなら近付いてもいい?

 どこまでなら、受け入れてくれるんだ——?

 許されないことだと分かっていたのに

 おまえに伸びる手を止められなかった。

 頬をすべる指先の感触、耳に触れた唇の熱さ

 背中にまわされた腕の強さ。

 この体に残るおまえを

 ひとつだって、忘れたくない。

 好きだって気持ちだけでおまえに触れられたら

 どんなにいいだろう。


 ここから逃げ出せないのなら

 もう、どこへもいけなくていい——。





 *


 水戸くんと海辺で遭遇したあの日、彼とはそのままあの場で別れた。
 水戸くんが颯爽とハーレーに跨って去って行くその後ろ姿が見えなくなるまで、私はずっと彼の背中を見送っていた。
 ぶらぶら適当に寄り道をして、気が付けば夜の八時を過ぎていた。晩御飯は家にあるもので済ませばいいかと思いながらも水戸くんに打ち明けたことで心の中の取っ掛かりが少しだけ解れた私はやや軽い足取りでマンションに帰った。
 玄関をあけると、まさかの電気がついていて、ぎょっとする。なんだ今日は帰って来てたのかとたまらず溜め息が出てしまう。

「仲良いいのな、水戸と。」

 脱衣所で部屋着に着替えていたとき、背後から声を掛けられて、背中にぞっとするような悪寒。思わずビクンと肩を揺らして振り向くとそこには同居人——寿がいた。
 ああ、なんだ。帰って来てたの?とか、今日、練習終わるの早いんだね、とか。あと、お願い、近寄らないで、とかいう頭で。
 それよりもどうして知っているのだろう、私が水戸くんと会っていたことを。神出鬼没すぎる。もしかして、見られていたのかな……もしくは、誰かから聞いた、とか。だとしたら内通者って、いったい、誰なの——?

 私は反射的に後ずさる。相手は、無表情で歩み寄ってくる。それを遮るスペースなんてそんなにない。いきどまりなんてすぐそこ。洗面台にぶつかってしまう。また、嫌な不安が襲う。

「なあ、藤真はどうした、飽きたから水戸か?」
「……っ」
「いつの間にそんな仲良くなったんだよ」
「な、仲良くないって……」
「へえ。一緒に海、眺めててもか?」

 ほら、いきどまり——。背中に洗面台の温度。冷たい。
 追いやられた私に彼は近づいて、洗面台の鏡に片手を付けて私を挟み込む。顔が近い。

「なあ、なに話してたんだ?水戸と。何で隠れて会ってたんだよ? なあ、おかしくねーか?」
「……っ」
「なんで……いっつも、アイツなんだよ——っ」

 耳元で声がする。心臓がうるさい。体が焼けるくらいに熱い。震える。お願い、耳はやめて——

「……ムカつくんだよっ!」
「っ、あ………ッ!」

 重低音が脳を壊す。やっぱり、ダメだ——。


 『みっちー、けっこう深いぜ?たぶん、闇。』

 『あの闇は——深くて暗いぜ?』

 『下手すりゃ、底無しだな。』


 『急がねえと、手遅れになるぞ。』



 ほら、堕ちた——。


 *


 連れてこられたのは寝室。窓が、開いている。声を押し殺さなければ。
 カーテンが今の私と彼の状況に反して穏やかにゆらゆらと、優し気に夜風に揺れている。一緒に抱き合って眠った、たくさん愛を育んだこのベッドで、両手の自由をうばわれる。
 くちびるを噛んで、声を押し殺した。生理的に出る涙の意味をしらないままなら、たとえば泣くほどに悦いととらえるか、それとも、泣くほどに厭なのかととらえるに違いない。けれども相手は手練。私の表情の違いくらい容易く知れるはず。

「……、」

 歪む視界の奥、精神の限界の奥、理性の最奥でそんなことを思った。苦しいのになんでこんなに気持ち良いの?
 いつも夢だと思って目を開けても絶対にそれは夢じゃない。いつだって現実。つきつけられる、現実——。


 やべえ。脳が、いかれそうだ。くらくらする。潤んだその大きな瞳の中に、俺がいる。たのむ、そんな目で、俺を見るな。

 本人が手に入らないから間接が欲しい?間接が欲しいからキスをする?彼女の匂いが他人に移るのを想像して、それに勃つ?思い出して、逝く?
 欲しいものが永遠に手に入らないもので。おこぼれをもらうように必死にあがいて。プライドも意地も全部捨てて。
 誰のために俺は——こんなことになってんだ?誰のため?自分のためだろ。それ以外ねーだろ。

「………。」


 �� ——名前の、ため? ��





 *


 結局流されて、あんなことになって、そのまま一緒にいられるわけもなく。荷物も持たずに私はマンションを飛び出した。
 ビジネスホテルに入って、ベッドの中で永遠のようにつづく涙を流して。気付けば寝てしまったらしく、あたりは真っ暗だった。

「……はぁ。」

 もう仕事にも行きたくない。ちょっと前まではあんなに仕事に対して意欲的だったのに。
 ベトベトの体をシャワーで流して、放心状態のまま、また布団にもぐりこむ。こんなはずじゃ、なかったのに——。

 次に目を覚ましたその日の真夜中——私はビジネスホテルを出て彩子の家に押し掛けた。玄関先で心身共にボロボロの私の姿を見た彩子はいつものように仕方ない子ねという顔で理由も聞かずに招き入れてくれた。
 事情を説明したあと彩子は「落ち着くまでいたらいいわ」と、それだけ言った。彩子が気を効かせて寿に私を居候させる旨のメッセージを入れてくれたので助かった。

 彼と住んでいたマンションを飛び出した翌日。遅い時間から予定があったらしい彩子が家を出て行った。「好き勝手にお風呂でもベッドでも使いなさいよ」と笑顔で言ってくれた彩子を玄関先で見送った。
 それから、何時間経過したのかはわからない。真っ暗な部屋の中で、私の携帯が光って震えた。もぞ、とのろく動きゆっくり携帯を取って眩しい画面を細目で見れば、見慣れた名前が表示されている。いつまでたっても切れないその呼び出しに私は、思い切って通話ボタンを押した。

「………、もしもし?」
『名前?』
「……。」

 この声は、言わずもがな。

「……、うん。なに、寿——。」

 私の返事に相手は電話の向こうがわで『悪い、急に』と言った。本当にそうだ。急に連絡なんかしてこないでほしい。今はどうしても放っておいてほしかった。とくに、当事者のこの人からは。

『あの、単刀直入で、悪いんだけどよ、』
「……?」
『もうお前、俺に近付くな』
「え……」
『俺がイヤなんだろ?辛いんだろ?もう、苦しいんだろ……?』
「……、」
『ならもう、近付かなきゃいい』
「で、でも」

 ——でも、何?
 嫌なんでしょ? 辛いんでしょ?
 苦しいんでしょう……? 彼の言うとおりだ。

『お前から離れてくれなきゃ俺は、ずっとお前に甘える』
「……」
『甘える、じゃねーな……甘さに付け込む』
「……!」

 そのひとことが、全てのことのように思えた。流され続けているのは彼に意思を伝えないから。やめてって、嫌だって、言えないからだ。そんな勇気を出すことを誰かに後押しされるのを待っていたからだ。寿——本人からの言葉を待っていたから。

「……そう、かもね……」
『俺ら、おかしーんだって……』
「うん……」
『お前がまだ俺を好きっつーんなら、話は別だけどな……』
「……、」

 どう答えたらよいのかわからなかった。なにが正解で、なにが不正解なのかさえも。実際、どうなんだろう。私は、寿のことが……

『はっ……マジかよ』

 電話の向こう、そんな私の思考など知るよしもない彼の自嘲するように鼻で笑った声。まるで、呆れたような、諦めたような、そんな声色と共に漏れる溜め息。

『なんで、そうだって、言ってくれねえんだよ』
「え……?」

 人に飼われていた鳥は、野生でなんかは生きて行けない。私専用の鳥籠に、寿を入れてしまっていたのは紛れもなく、この私なのに。
 籠の中にある幸せは、どこまでいっても籠の中だけの幸せ。外の世界じゃ生きられない。だから寿は私と同じでひとりではもう生きては行けないんだ、なんて思った。

「わかんないよ……なに、それ?どういう意味として捉えればいいの?」
『……いや』
「ねえ、寿……。助けて欲しいなら」
『……』
「……っ、ちゃんと、はっきり言ってよ!助けてくれ、って!」

 場に似合わない大声で私は怒鳴った。こんなの情緒不安定がすぎる。けれど自分でももう上手く気持ちをコントロールすることができないのだ。

「ちゃんと言ってよ、そうやって突き放すようなことばっかしないでさ……」
『……』
「寿、いっつもそうだよ、昔から。自分ひとりで抱え込んで、背を向けて」
『……、』
「そんなに、私と別れたい?」
『……っ、』
「もう、寿の手……離したほうが、楽になる?」
『ちげーよ! だから——』

 彼も声をあげて、そうして一息おいた。電話を交わした私と彼の間に、刹那的な沈黙が流れる。

『……好きだ。』
「……」
『嫌いになったことなんて一瞬たりともねえよ』
「……、」
『でも——苦しい。』
「……っ」
『名前のこと好きすぎて……おかしくなりそうなんだよ——っ』

 目頭が熱くなった。彼の抱える心の痛みがようやく分かったような気がしたから。
 私も寿専用の鳥かごの中で飼われていて、でも私はそれが、幸せだった。寿の中だけでずっと、生きていきたかった。ずっとずっと小さな世界の中で生きていられればよかった。ずっと盲目的な恋に守られていたかった。なのに私は、私だけが空の広さを、知ってしまったんだ——。きっと、��好き�≠ニ��幸せ�≠ヘ、比例しない。

『ひとりで、怖えんだよ……』
「……ッ」
『なあ……俺って、怖えーか?』
「……っ、ううん……、」
『嘘つけ……おまえの知らねえ俺が、もっといるかもしれねんだぞ?』

 私は慌ててベッドから起きてティッシュを探した。悟られないうちに処理しようと思ったから。携帯の向こうは、沈黙が広がっている。彼は私の反応を、たぶん待っている。私は暗がりの中で、月明かりのみでティッシュの箱を探し出し一気に三、四枚引き抜いて、盛大に鼻をかんだ。こんな状況下なのにも関わらず、女の子らしからぬ品のない音を立てて。それでも涙は止まらない。いろんな思いがこみ上げてくる。

『名前?』
「は、い……っ」

 急に電話の向こうから、心配したような声音で名前を呼ばれて驚く。

『泣いて、んのか……?』
「……!」

 男なら聞くなよ、わかってるくせに。なんて、とっさに心の中で突っ込んでしまう。しかし彼は私の返答を聞きもせずにそのまま言葉を続けた。

『つーか、……な?』
「……」
『俺を嫌なら嫌でもいいからよ、べつに急いで、帰ってこなくても、いーから……』
「……?」
『切んなよ……、』
「え?」
『電話、切んないでくれ——っ』

 寿の声はなんだかいつものとはちょっと違った感じがした。何かにすがるような声だった。頭に響く、違和感。

「寿……どう、したの?」
『……、』
「……寿?」
『……っ』

 急に相手が黙り込む。私はもう一度彼の名前を呼んだ。すると今度は苦しそうな息遣いが鼓膜を通した。

「ひ、……!」
『切んな——っ、』

 そう、吐息交じりに彼は言った。私の頭によぎった予感は、きっと当たっている。

「ねぇ、寿って、さ……」
『……、っんだよッ……』

 苦しそうな呼吸の間際に。わたしは、ひとつの言葉を生みだした——。


 「 私のこと、愛してる? 」


 携帯電話の向こうで小さなうめき声。わたしの涙は、止まることを知らなかった。

 すこしだけ自由になって空を飛べるような気がして。だけど、ここからはやっぱり、一歩だって動けないような気もした。動いたらいけない気がしたんだ。

 月明かりが照らしてる、こんな夜は——。


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