こんなに簡単に変わってしまうのなら
自分の心を信じるなんて無理だ。
どの道を選んだってきっといつかは後悔する。
そうしたらまた過去に囚われて
引っ張られて進めなくなる。
向き合うのは怖い、失うのも怖い。
でもこのまま誤魔化し続けるのもすごく怖い。
自分に付いた傷なんて
どれも大したものじゃない。
過去におまえに付けた傷に比べれば。
もしも、あの瞬間に戻れるなら
「辛い思いをさせてごめん」って、
「愛してる」って、泣きじゃくるおまえを
強く抱きしめて離さないのに——。
12月24日
― 12月24日 ―
自分の部屋で仕事をしていると社長の側近から「相談が」と、呼び出された。角型二号サイズの玉紐のついた封筒を渡されてこれを社長に届けてほしいということだった。さる企業から、株式に影響を与える大切な書類らしい。それ以上の情報は側近の男性は口を噤んだがニュースで叩かれている、あの会社だなと、ぼんやりと事の重大さを想像した。
社長はいま、みょうじさんを連れて会食に行っている。ホテルの半立食とのことなのでさっと渡しに行くことは容易であろう。私は請け負い、早急にホテルに向かった。
一人、ホテル内を早足に歩いていく。途中、レセプタントの気品ある女性と通路ですれ違った。
厚くふさふさした絨毯と白漆喰の壁。かちゃりかちゃりと食事する音。あちこち歩き回る給仕。来賓は立ったり座ったりしている。声がさざなみのように響いてくる。大きな扉を少しだけ開けて社長を捜すも見当たらない。諦めてロビーの方へ歩いていくと、曲がり角の向こう——大きなバルコニーで座っている姿が、そこにあった。
「……藤真社長」
振り向いた社長は、微かに嫌な顔をしていた。私を認識したあと、無言で視線をまた景色に向ける。バルコニーの下は、バロック様式のばら園になっており金色にライトアップされている。その光が届いて、彼の顔を下から照らしていた。
「こちらを社長に届けるようにと言付かってきました」
差し出すと彼はそれを受け取り中の書類を一瞥してから、また中に仕舞った。携帯を取り出してどこかに電話をする。その相手がみょうじさんであることを私はうっすらと感じ取った。電話を切ってから彼は小さく息をついた。
「悪かったな。俺も社に戻る」
「はい。みょうじさんは?ホールにもいませんでしたが」
「接待で見送りをしていた。今は車を手配させている。あと五分はかかる」
こつん、と薄く細い革靴が足音を立てる。彼は手すりづたいにバルコニーをすこし歩いた。
クリスマスイブ——夜空は漆黒だ。それなのに社長は、スーツの姿に薄い光を帯びているように見える。ライトアップの光がとってもきれいだなと思った。
「あすは出勤するのか」
だしぬけに彼が言う。私は「はい」と答えた。あすは土曜日だが、休日出勤するつもりだった。
「休みを取らないのはよくないな」
「……」
「世間はクリスマスだろ。予定はないのか?」
「……、」
プライベートの話を、初めてされた気がする。それにすこし動揺してしまい、私は言葉を詰まらせた。
「……まあいい。」
「……。立て込んだ案件があるので。社長こそ、毎日出勤していますよね」
「あれは俺の会社だからだ。負担にはなってない」
彼はくちびるを閉ざし、ばら園を見下ろした。私もなんとなく彼の傍に寄り同じようにばら園を見下ろす。光に照らされたばらは石膏でできているかに見えた。だが生々しい香気が匂ってくる。さっきは一切香ってこなかった。風が吹いてきたらしい。
「いい香りですね」
「……これは、花の匂いか」
と、彼は言った。ロビーの中、季節に合わせた曲が遠慮がちに天井と一体化している上質なスピーカーから流れている。『Deak the halls』——��ひいらぎをかざろう�≠フオルゴール調の音が、微かに耳に届くのが心地よかった。
「 お前の——香りかと、思った。」
冷たい風が、そよ、と社長の髪を一房乱した。険のある目元が、いまは安らいでいるかに見えて私は思いがけず見とれてしまう。私の視線に気づいて彼が顔を上げる。目が合ったあと、彼はふたたび視線をばら園に下ろした。
ああ、きょうはクリスマスイブ——あと五分はかかると彼は言った。時計を見ると、あと二分。あと二分だけ仕事を忘れても許されるだろうか。そんな期待をこめて��あと二分だけ�≠ェできれば永遠に続けばいいと願った——。
*
寿……いないかもしれないな。リョータくんや水戸くんのお店とか、適当に予定を作っていそうだ。学校は冬休みだから練習は午前で終わったであろうし。ならば誰かと一緒に過ごすクリスマスイブにしてほしい。いまの私なんかは彼のそばにいても、きっと笑顔にしてあげることは出来ないだろうから。
そう思いながら駅をおりて、歩き慣れたマンションまでの道のりを、重い足取りで歩く。
「……はぁ。」
先ほどホテルのロビーで自身に起きた出来事。それを頭の中で整理しようと試みるが、なんだか気持ちがぐちゃぐちゃしていて今はまだ収集できそうにもない。
時刻は十時。あれから職場に戻り仕事を片付けている間にこんな時間になってしまった。今年のクリスマスイブは平日だ。寿とは、これといった約束や予定は立てていない。と、いうか、立てられなかった。昨日の彼の態度を見てしまったら。とてもでないけれどクリスマスイブだろうとクリスマスだろうと約束なんて出来そうにもなかったから。
あのあと、リビングでも寝室でも一緒の空間にいても会話をすることもなかった。わたしたち、いったい、なんで一緒に住んでいるのだろうか。
ガチャ、と開けた玄関の扉。リビングの電気が付いていることに、思わずぞっとする。外出してくれていたほうがよかったのに。
私はすぐにリビングには顔を出さず、そのまま洗面所に向かった。聞こえて来ていたテレビの音が止んだので帰宅した私に気付いた彼がリモコンで止めたのだろうと思った。気にせず私はいつもするように手を洗いうがいをした。
今日の帰り際、社内でこみっとしたパーティを催していて私もワインをすこしだけ呑んできた。まだ苦いワインの味が残っている気がして、このまま歯を磨きたいとも思ったが、いいか、お風呂あがりに磨こうと、洗面台の鏡を見るため、顔をあげたとき——脱衣所の入り口に寄り掛かる彼が鏡に映っていて、また、ひやっとする。
「おかえり」
「……ん、ただいま」
サッとタオルで手を拭いて寝室へ行き部屋着に着替える。寝室から出るとまたリビングのソファに座っている彼の背中が見えて何だか気まずかったので私はリビングではなくキッチンに向かう。ミネラルウォーターを冷蔵庫から取ってキッチンテーブルの縁に腰を掛けながら、半分ほど中身を飲み干した。そんな私の動向を、彼がじっと凝視している。ペットボトルから口を離して「ん?」と聞けば相手は「こっち来いよ」と低い声でつぶやいた。
断る言われもないのでしぶしぶといった感じで彼のいるほうに歩いて行く。ペットボトルをソファ前のテーブルに置きながら、私も彼の隣に腰を下ろした。
「キャリアウーマン」
しばらく沈黙が続いたが突如放たれたその言葉に、思わず私は飲んでいた水を吹き出してしまう始末。
「ええ? なに、それ」
「キャリアウーマンだろ?」
「俺より必死こいて働いてら」と彼がソファに深く腰を沈める。また訪れた沈黙のあと、彼が、「……名前」と、私の名をつぶやく。
つぶやいたというより溜め息を吐いたようにも聞こえた。名前を呼ばれて顔を上げると彼の着ているスウェットの生地が、衣擦れの音を立てた。彼が私の顔に手を伸ばしたからだ。
「……」
「……」
久しぶりに近くで見たその手は、とても大きかった。その手がついに触れてきたとき、私の頬の温度よりもそれは温かかった。そして硬く乾いた男性の手をしていた。その硬さに触れたことで、自分の頬の柔らかさが感じられるほどに。
「……名前」
声にならない掠れ声が、薄く開いたくちびるの隙間から漏れる。その言葉は独り言のようにくちびるからそっと零れただけで、彼の舌の上に留まった。
彼の声を拾った鼓膜が微かに耳鳴りしている。けれど彼は寂し気な瞳をしていた。わずかに寄せられた眉根の陰影だけが彼にも感情があるということを示していた。思わずその手に、自身の手を重ねると、ごつごつと筋張った手の甲がわずかに震えた。
「寿……」
わたしの声も、声にならない。凍り付いた心がまだそのままになっていて、うまく反応する事ができない。
彼は体をかがめて私の顔に顔を近づけた。彼の影が上から降ってくる。視界に、彼のくちびるが映った。頬にあてていた指が顎に添えられてゆっくりくちびるが寄せられる。寿の、匂いがする。
目を開けたまま、そんなことを感じていると、彼のくちびるが、ぴたと近づくのをやめた。
「……」
「……」
瞳を見る。つややかな精神的なその瞳に底知れぬ��闇�≠ェ透けている。
見つめているというよりかは、何だか睨まれている気がする。
目を伏せると彼も目を伏せた。くちびるに感触が重なる。とても感情的な感触が。そして、音もなく結びついたくちづけは、すぐに離れた。
「……」
「……」
触れて、ほしかった。とても、とっても……。
ふたたびくちびるに、まるで発作のように彼の愛おしい熱を持ったくちびるが重なった。だが、触れた途端、衝動を押さえつけるように、ぐっと堪えてそれはまろやかな優しいものへ変化する。
音も立てず口角まで深くついばまれたとき体にやわらかく衝撃が走った。くちびるを重ねただけなのに、腰が砕けてしまったような気がした。
「——好きだ」
吐息だけの言葉。暗くて、力強い視線。美しい容貌。悔いるようにひそめられる。心が掻きむしられた。なぜならば、彼がいま……幸福な状態でないことをはっきりと感じたからだ。
私のそんな動揺の色を感じ取った彼はごまかすように、キスの衝動によって顔を寄せる。
私の微かなワインの香りを湛えたくちづけは、熱く、ほろ苦い味がしたことだろう。
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