ある意味怒涛の初出勤を終えた午後八時過ぎ。私は電車に揺られて寿と住むマンション方面へと向かう。
「……」
きっと、社長とは頻繁に会う機会なんかはそうそうないだろう。今日は偶然中の偶然だきっと。うん、天地がひっくり返ってもそうに違いない。
「……」
けど——藤真さんの一瞬見せた、あの目……。私だってこと分かっていたよね、絶対に。でも、俺とお前は今日はじめて会った。俺たちはなにもなかった。な? そうだろう?……と。絶対に、俺と知り合いだという事を口外するな……って、目で語っていた気がする。
なんか、寂しいな。まるで本当に赤の他人って感じだったもんなぁ。
「……はぁ、」
それにしても、寿にはなんて言おうか……そもそも言うべきなのかな。わざわざ言わなくたっていいような気にすらなってきた。
私は、どんなふうに彼に伝えようかと頭の中でシミュレーションしてみることにした。
『あ!そういえば私の職場の社長さん、藤真さんなんだってさー』
………だめかー、ダメだよね、うん。ダメよ、ダメダメ、絶対!
こんなの第一声、もしくは遮って来るかたちで「あ?」とドスの効いた声で息の根を止められてしまう。
『全く、顔を出してくることはないんだけどね、私、末端の末端の仕事してるから!でも、社長が藤真さんらしいよー』
……ダメだ。これは、絶対になにを言おうと、「あ?」か、もしくは「あン?」と、寿の機嫌が悪いほうの意味で絶好調になる予感しかしない。
私は駅に降り立ち近くのスーパーに立ち寄って晩御飯の買い物をしながら、ひとりで脳内会議をしていた。お昼頃に届いた彼からのメッセージの内容によればハンバーグかオムライスとの要望がきていたはず。いまからハンバーグは、ちょっと面倒くさいかもしれないと思い卵も半額になっていたので今日はオムライスを作ることに決めた。サラダも添えようと、野菜コーナーへと向かう。
寿って、手作りとなると本当に子どもみたいな食べ物が好きだよなあ。外食時は鯖飯定食とか、ラーメンとか、とんかつとか、男性っぽい普通のメニューを選ぶのに可愛いな。
買い物を終えて自宅マンションに着き、電気をつける。いつもこの瞬間に寿と一緒に住んでいるという温もりを感じて、ほっとする。
手洗いうがいをして着替えを済ませてそのまま晩御飯の支度にとりかかった。出来上がったとき時刻はすでに、九時を回ったところだった。仕事終わりに毎回こんなこともしていられないよなと考えて晩御飯は朝から軽く用意しておかなければいけないな、と思ったりした。
私は週休二日というわけではなくて、月にだいたい十五日ほどのシフトを組まれていた。基本的にはカレンダー通りで、土日祝日の他にも休みがいくらかある。
うまく家事と両立させていかなければと意欲を増すと同時にちらちらと脳裏をよぎる彼——藤真さんの存在を、その都度、脳内から消し去る。
ややあって、寿が帰宅したようだった。玄関に迎えにいけば「おっ!初出勤お疲れ。つか、おかえり」と、先に言われてしまい面を食らう。
「寿こそお疲れさま。おかえりなさい。」
「ああ。ただいま」
ささっとスニーカーを脱いで、玄関をあがってくる彼。私の真横を通り過ぎるとき、ポンポンと労わるように頭のてっぺんを優しく叩かれた。
「……、」
なんか……変なんだよなあ、最近の寿。キス、してこなくなったんだよね。
とは言っても、ここ数日間の話だし、逆に私と寿って、一緒に住み始めてから、毎日必ず一回はキスしていたことになるよな……、なんて気づかされてしまったくらいだったから。そんな、毎日キスをしなければならない決まりなんてないわけで。それが不満というわけでもなかったし悩みになっていたということもないけれど、なんだか、ちょっとだけ引っかかった。
『キスしてくれないね』なんて聞くのも恥ずかしかったので私もなんとなくやり過ごしていた。まあ、いっか、って。
とりあえずダイニングテーブルの上に晩御飯の品物を並べ始めたとき寝室の開いたドアの向こうから、なにか叫んでいる声が聞こえた。
「なあー? こないだ一緒に買いに行ったニューバラのスウェットどこやった?」
最近いつだったか忘れたが寿と一緒にテレビで海外のベースボール中継を見ていたとき日本から移籍して活躍しているベースボールプレイヤーのスポンサーが、ニューバランスなのだという話になった。私が、テレビに映るプレイヤーを見て「ニューバランス似合ってるね、なに着ても英雄はかっこいいんだろうけど」と、なんの気なしに言った言葉を気にしていたらしい彼が、買い物に行ったときに買った新しい上下のスウェットだ。
彼は、そういうところがよくある。負けず嫌いなのか、独占欲が強いのか。きっと「彼、海外でポルシェに乗ってるらしいよ、かっこいいよね」なんて言ってしまった日には彼のことだから次の車をポルシェにしようかな、なんて、無計画にも考えるに違いない。そう思うとなんだかおかしいやら嬉しいやら呆れてしまうやらで私はそれでもそんな日常を、幸せだと感じてしまうのだ。
「着る前に一回洗濯しといたよー?」
ご飯の準備をしながら私が応答する声に被せるように「ああ、あった、あった!」と、楽し気な声が聞こえてきて、思わず鼻で笑ってしまった。
*
「うんまっ」
晩御飯のとき向かい合わせで座っていた彼が、オムライスを美味しそうに頬張っていた。
「急いで作ったから味見してないんだ。でも良かった、お口に合って」
と言い置いて、私も、スプーンでオムライスをすくって頬張る。
彼が口いっぱいに入れていたオムライスを飲み込んで水を流し込んだとき「あ」と声をあげた。
「ん?」
「つか、どーだった?初日、仕事」
「……!」
で、出ました……。どうだった、とは?
普通は大変だった、難しかった、楽しかった、疲れた。まあ、そのあたりの言葉が並ぶのだろうけれども……。
「名前?」
視線を目の前の皿に落とし込んでいた私を不審に思った彼に、名を呼ばれて覗き込まれる。勢いよく顔を上げると、相手がきょとんとしたあと、「まぁ疲れたんだな」と情けなく笑って言った。
「う、うん」
と、曖昧にも頷いた私を気に留めることもなく彼は「ほんとお疲れさんでござんした」と明るく言って、またオムライスを乗せたスプーンを口に運んだ。
「……なあ?」
「……ん?」
彼に視線を向ければ彼は私に向けていた視線を落として、自分の着ているスウェットを見やる。
「——この色、似合ってるか?」
彼の言う『この色』とは、新しく卸したニューバランスの上下同じデザインのスウェットの色の事を言っているのだろうと思った。珍しくあまり選ぶことの少ないベージュ系を買っていたので、それが似合っているかどうかという事を聞きたいのだろうな、って。
「うん、似合ってるよ?」
「ほんとかよ。なんか……違和感すごくてよ」
「あー、でもちょっと。」
「あ?」
「リョータくん感は、否めないかもね」
言って私がクスクスと笑っていると彼は明らかに嫌そうに片眉を歪めて「やっぱそう思うよな」と、呟いた。けれど、寿なら何を着ても似合っている。寿が何を身に着けようと身に着けていなかろうと、私はもうどちらでもいいのだ。寿が側にいてくれる日常があれば、私はなにも求めない。そう素直に口に出せればよいのだけれどまだ私はそこまで心を剥きだしにできないでいる。
藤真さんのことしかり、こうして思ったことを素直になんでも彼にぶつけることが出来ていればもっと私たちのすれ違う回数も、減らせたのかも知れないなと、いまになって思うよ。
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