雨は冷たいけど ぬれていたいの
思い出も涙も 流すから
そっとあなた 私の手を引きよせ
最後の言葉探してるの?
だけど私 泣いたりなんかしない
涙は 雨のせいよ
思いきり泣いて あなたに抱かれたいけど
何もいらない このままそばにいて
*
校舎とは異なる、体育館の独特な匂い。練習に励むバスケ部員の、生き生きした表情。
みんな体のサイズでプレーしているんじゃなくてハートでプレーをしている。そんな、いつもと変わらぬ放課後のはずだった、のに……
「あれ、なまえ姐さんじゃん!」
久しぶりに足を踏み入れた体育館。バスケ部員の掛け声をBGMにいつもの特等席でヤンキー座りで見学している桜木軍団の一味の大楠くんが私の存在に気づいて声をかけてくれた。その声に反応した残りの三人が私のほうに視線を向ける。
「お、久しぶりだなー」
「もうすぐミニゲームやるってよ!」
続けて野間くんと高宮くんがいつもと変わらぬ笑顔を向けてくれたことで先ほどまでの緊張感が少しだけ緩和した気がした。放課後、日直の日誌を書き終えてふと思い立った、行ってみようかなって。
彼と別れてから一切近寄らなくなった放課後の体育館で、久しぶりにバスケットを楽しんでいるみんなを見て、自然と顔が綻ぶ。私は桜木軍団に笑顔を返して入口横に立ったまま体育館を見渡した。しかしそこには、元彼の姿はなかった。
「こっち来たら?」
ほっと胸を撫でおろしているのも束の間、水戸くんの声が耳に届いて、一瞬びくっとなったが、すぐに小さく頷いてから彼らの元へと駆け寄ろうとした、そのとき。
——ドン!
背後から誰かがぶつかって来て慌てて「すみません」と振り返った先、今のいままで脳裏を埋め尽くしていた彼、三井寿の仏頂面があって時間が止まった。
無表情——そんな言葉がぴったりという感じで私を見下ろすこともなく、体育館の中を一瞥して彩子の元へと向かった彼。彩子とすこし話をしたあとストレッチをはじめて、すぐにコートの中に入っていった。
すぐに決心した、帰ろうって。でもそんな私の気持ちを見透かしたように「なまえさーん、こっち」と私を呼ぶ声が飛んで来る。相手はすぐ見当がついた。だってその声の主は私の予想通り水戸くんだったから。
「こーこ。」
と、自分達の座っていた付近を指さして微笑む水戸くんに面食らって、私は浅く溜め息を吐いたあと決して軽くはない足取りで桜木軍団の元へと向かった。
「あれ、今日はバイトないの?」
「あー、そう。今日は休み」
緩くやり取りをしつつ水戸くんの隣に座った時チラ、とこちらを見たリョータくんと目が合う。反射的にペコッと頭をさげたら口の端をちょっとだけ吊り上げて頭を下げ返してくれた。それでも私はずっと膝を抱えて震えていた。風邪気味でも体調が悪いわけでもない。ただ恐かった。元彼、寿が、恐かったのだ。
「桜木! ちゃんと投げやがれ!」
「投げてる!」
「ったく、シロートが……」
「なにィ!ミッチー、もっぺん言ってみろ!」
私のことが嫌いなんだろうなって思うと今にも泣き出してしまいそうで、昨晩見たお笑い番組の内容とか今日教室で起きたリョータくんと担任のコントさながらのやり取りとか何かそういうのを思い出そうとしたけれど……でも、ダメ——。
「あーもう、桜木花道っ! 集中しなさいっ!」
「彩子さん……だって、ミッチーの野郎が……」
「ふふっ、頑張って〜!桜木くぅん!」
「ハッ、晴子さん……っ」
きっとバスケをしているときには、私情を挟むなんてことはしないと分かっていても、ボールがこっちに飛んできそうな時とか、バンッ!と彼が手でカバーする音とかシュートの決まらない桜木くんに怒鳴る声とかが、何か怖かったから……。
「花道ー! ちゃんと打てって!」
「ダンクかませぇ!」
だがこの通り桜木軍団はいつものように野次を飛ばしているしこっちに飛んで来たボールをキャッチしてそれを軍団の誰かが寿に返す時も向こうは普通にしているし。だから私の勘違いなのだと思いたい。でも、それでもやっぱり……
「なまえさん?」
果たしてこれって、本当に勘違い?嫌いな人がその場にいると無意識に態度に出てしまわない?たとえ……大好きなバスケットをしている最中であったとしても。
「なまえさーん」
もう別れて、一ヶ月は経つ。こんなちっぽけな淡い想いは、封印してしまわなければならない。もう彼の事を考えるのはやめなければならない。想われているというだけで迷惑に思う人もきっと世の中にはいるのだ。
「なまえさん!」
「……え?」
横で大きな声がした気がして、ハッとして顔をあげて見れば水戸くんがヤンキー座りのまま私を心配そうに覗き込んでいた。
「……顔、やばいよ?」
「え? か、顔……?」
「うん。真っ青……だ、ぜ?」
「……、」
——話し掛けたら、きっとあの目に殺されるし話し掛けなくても目が合っただけであの瞳に殺されるだろう。
別れてから学校生活を何の気なしに送っていたつもりでいたけれど実はずっと生きた心地がしなかった。だけどだんだん感覚は麻痺してしまう。
自分のいまの立場も理解はできていた。弱みにならないよう私から彼に目を合わせる事もやめたつもりでいた。どうせ、なにをしたって嫌われたままだろうし、だから、彼が近くにいたら、避け続けた。
だってそれが今の私に出来る、最大限の彼への配慮だと思ったから——。
「……ううん、元気だよ」
「ほんと? そうは見えないけどねぇ……」
スンと水戸くんからほんのり煙草の苦い香りがした。なんだか今はそれにすら涙が零れてしまいそうになる。弱すぎて、自分が嫌になる。
私は……なんだろう。このままその、優しさのまま水戸くんに、抱きしめてほしいとでも思っているのだろうか。
「大丈夫は、大丈夫……なんだよ?」
水戸くんお願い。もう何も言わないでほしい。お願い、水戸くん。そんなに私を、見透かそうとしないで——また、甘えてしまいたくなるから。
「ちょっと、体育館……寒いだけだと思う……」
優しい言葉をこれ以上かけないで——。期待をしてしまうから。
「……」
「……」
「……あ、そ?」
「へ?」
刹那的な沈黙のあと軽い雰囲気の彼の声が耳に届く。もう一度水戸くんを見やれば彼はきょとんとした顔で、私を見ていた。
「なら、いーんだけどさっ?」
「……う、うん」
「おっ、花道ー、ナイッシュー!」
「……。」
——罰が、当たったのだと思う。自分の気持ちばかり優先させて、相手を思いやる事も出来ずに最愛の人を傷つけただけの一ヶ月間。
私は……自分というものが見えていなかった。うまくやれていると過信して自分以外は何も信用していなかったのだ。
全てを捧げて尽くしてくれた彼を、私は何度も傷つけた。きっと彼は、私なんかよりも深い闇に溺れていたのに。
私はいまも、その報いを受けつづけている。
*
「ちょっと、なまえ!? 顔、真っ青よ!」
「アネゴ……さっきから体調悪そうなんだよ」
「よし、水戸洋平。アンタ、保健室に連れてってやんなさい」
「OK。任された」
「——オイ。水戸、彩子。なまえは……
俺が保健室に連れてく。」
*
「なまえ?」
「……」
「……目、覚ましたか?」
重たい瞼を開けると霞む視界に、寿が映った。低くてちょっと焦っているような抑揚のある声。聞き慣れた、心地の良い声だ。
「具合は、どうだよ」
「……寿?」
「あ、ああ……うん」
私は布団に入って仰向けに寝ている。ここは、保健室?私のおでこには、タオルがのってある。顔を触ると、ほのかに汗が滲んでいた。
「私……」
「おまえ、体育館でぶっ倒れてよ」
「え、ほ、ほんと……?」
「倒れたってか、すっげえ顔色悪くてな」
「……」
たっぷり黙りこんでから「覚えてねえのか?」と乾いた声で彼が言う。私はぽつり「うん」と、小さくうなずいた。
「ちゃんと、保健室まで歩いて来てたけどな」
「あ、そうなんだ……」
「……。水戸が——」
「え? 水戸くん?」
「……、ああ。付き添ってくれたみてえだぜ」
そのまま彼はしばらく口を噤んでからわずかに唇を開き、なにかを言いかけて、やっぱりなにも言わぬまま、その唇を閉ざした。そうして、ややあってから彼がようやく口を開いた。
「うわ言で、俺の名前を呼んでるって、水戸から言われてな……世話、頼まれた」
「え……あ、そうだったの? ご、ごめん……」
「水戸なら体育館だぞ。呼んでくっか?」
一度だけ横に首を振ると、それを一瞥した彼は視線を落として「保健室の先生もう帰ったらしくてよ」と呟いた。そしてちらと顔を上げて、彼が私を見る。
「……疲れが溜まってたんじゃねえか、お前」
「寿、あの……」
「……」
「わたし、もう大丈夫。お世話、かけました」
「……ならよかった。じゃあ、体育館に戻るわ。あとは水戸にでも、彩子にでも——」
「ずっと……ここにいてくれたの?」
椅子から立ち上がりながら言った、彼の言葉をさえぎってぽつりと問う。それに合わせて、立ち上がろうとした腰をまた椅子に戻した彼。
「……いや、練習中だったしな。それほど暇じゃねーよ。ずっといたのは……水戸だ。」
「……」
「俺の名前を呼んで、ずっとうなされてたらしいけどな。ひでえ悪夢だったみてーだな」
「ごめん……わたし、たしかに夢、見てて」
「……どんな?」
「うん……寿の、夢……」
まだ心臓がどきどきしている。私はゆっくりと体を起こして、ベッドの前方のパイプ部分に背を預けた。そうして、汗でべた付いた髪を撫でつけながら唾を飲んだ。
夢がどのようなものだったか今では具体的にはわからない。でも、夢の中で寿がどこかに行ってしまって途方に暮れて自分の手を眺めていた事はぼんやりと思い出すことができた。
「——夢ってよ、健康状態に影響するとか、よく言うからな。まだ万全じゃねえんだろ、たぶん」
「ううん私、もうすっかりいいの……でも理由はわかるよ。寿がいなくなる、夢だったから」
「俺が?」
「うん。」
彼は私を見据えている。私も彼を見つめ返す。そして彼——寿は、ゆっくりとまばたきをした。
「たぶんあのあと、捜しまわってたんだと思う」
「……」
「それで疲れて諦めて、こうして手を見て……」
見下ろしていた手のひらに、彼の手が重なる。彼は顎を引き顔を伏せて、そっとこちらに視線を向けた。
*
『もし、やり直せるなら……』
『——おい、それ以上言うなよ』
『お願い、聞いて』
締め切っている保健室の中から『ハァ』というため息のような、男性の声が聞こえてきた。
俺は、保健室の扉の横——ひんやりとした壁に背を軽く預けて両手をポケットへとしまい込む。
『私、出会った瞬間に戻りたいの。名前を初めて聞いたあのとき、初めて出会ったころに戻って』
『素直になりたかったんだと思う。あの、クリスマスイブのあとも逃げないで全部ぶつけてしまいたかった、寿に』
『私は、ずっと後悔してる。いまも、ずっと。』
廊下の先、体育館からはバスケ部員の掛け声と鳴り響く、ボールの弾む音。『……そうか』と、保健室内に低くて小さな声が響き渡った。
ややあってどちらかが窓際に立ったのか、カーテンを開けた音が、申し訳程度に聞こえてきた。止むことなく降り続けている雨を、正面の窓から眺めて俺は溜め息にも似た息を小さく吐き出す。
『——きょう、ずっと雨なんだね』
『……ああ』
『帰りまで、止んでくれないかなぁ……』
もう片方も立ち上がった気配。次いでカーテンをシャーッと勢いよく開けたであろう音。俺は目の前の窓、空を見上げる。空は白く霞んでいた。
さわさわと降っているその雨は、銀糸のように頼りなくて細い。気の弱い雨に負けずこの優しい雨は、植物と土壌への養分になるのだろう。
『……ここんとこ、ずっと雨降りだな』
『うん、だね』
『なぁ、今日もし……この雨が止んだらよ、』
『……ん?』
『一緒に、帰ろうぜ』
体育館の方から聞こえていたはずのバスケ部の声よりも今は雨の音のほうがうるさく聞こえる。
『……もし、止まなかったら?』
『……そんときは、まあ……運がなかったって、ことだな』
『縁じゃなくて……運、なの?』
『そう、運。なまえとの縁は……、まあいい。とりあえず、運だ』
『……。うん、わかった』
俺はそっと音を立てないよう壁から背を離し、そのまま踵を返して生徒入り口へ向かおうとしたが、そのとき、背後から『でも、おまえは——』と密やかに呟いた、喧嘩の弱い元ヤン先輩の声が耳に届いて、思わずピタリと足を止める。
『……体調、治さねえと』
『そうだね』
『まだ、バスケ部は遅くまでやるだろうからな』
『……』
『先、帰れよ。』
今にも雨は止んでくれそうなのに。ぽろぽろと落ちてくる水滴を横目に俺は生徒入り口へ歩みを進めた。
*
下駄箱の並ぶ薄暗い空間を通り抜けて靴を履き替え外に出た俺はそのまま歩みを止めずに一定の歩幅で校門へと向かう。
「洋平、くん……?」
その声に足を止めて振り返れば、そこには——同級生。同じクラスの彼女が、傘を差して立っていた。
「……傘は? 持ってきてないの?」
「……うん、ないよ」
「そっか……じゃあ、一緒に——」
「いや——大丈夫。じゃーね、名前ちゃん。」
彼女の言葉を遮って俺はまた足を進めた。一瞬ぴくっと彼女が肩を揺らしていたけれど特に気に止める素振りも見せずに校門を目指す。
「洋平くんっ、」
「……」
すぐに、パシャパシャとこちらに向かってくる足音が聞こえはしたが、考えている間も無く後ろから腕を引かれた。仕方なく、足を止めざるを得なくなってしまった。
「——ねえ。なんで……泣いてる、の?」
彼は着衣に何の乱れもなく、やはり疲労感など一切浮かべない凛とした背中で正面を見ている。
背後からする私の鋭い視線に観念したのか顔を動かさず微かに瞳だけで彼は私を見た。そして、またしっかりと、正面に視線を戻した。
「——泣いてないよ。」
そう呟いて、そっと笑った仕草が背を向けていてもなんとなく見えた気がした。あの、自嘲するときみたいな、笑い方が。
彼の端正な顔。泣いているように見えたのは、どうやら、雨の痕だったらしい。
「そ……そっか。」
「……」
「洋平くん……、」
「……ん。」
「一緒に、帰らない?」
彼はややあってから「うん」と短く返事をして私を一目も見ずにゆっくりと校門の方に向かって歩いて行った。スローモーションのように私の手の中から離れていった、彼の腕。校舎を打つ雨とやけにリアルな雨音。
彼は私に背を向けたまま少し先で立ち止まって一度だけ、校舎の方に視線を投げた。しばらく、その場で立ち尽くしている。
私はずっと、そんな彼の背中を見つめていた。それでも彼は振り向く素振りなどこれっぽっちも見せることなく、静かにまた歩き始めた。
恋
音と、
雨
音。
(願うことは、ただ君に晴れ。)
※ image song『 雨の音/當山みれい 』
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