チャイムが鳴り響いて6限目が終わり、帰りのSHRもすっぽかして教室を出る。
「三井どこ行くの?」の女子の声に「便所!」と叫んで走る。教室と反対側の廊下を進み、階段を降りると保健室の前に出た。するとその扉の前で腕を組んで背を預ける男。やっぱりデジャブだ。
「………お前」
思わず、声を掛けてしまった。目の前で俯いていた背の低い男は顔を上げ、上目づかいで不思議そうに俺を見た。
「廊下走っちゃダメですよ、センパイ」
「はっ!?」
「ハハハ、なんか前にもこんなことあったよね」
「あったな、ってそうじゃねぇ!お前何して…」
そこまで言いかけて水戸は苦笑しながら自らの口に人差し指を立てた。「なんだよ」と、素直に小声になり、やや身を屈める俺。
「お姫様が寝てるんです」
水戸はそう言って笑う。あれ?前に同じような光景、あった気がしたけど、あれって夢だったのか?それとも、今のこの状況が夢だったりして。って、そんなこと、今はどうでも良いんだよっ!落ち着け、俺。
「俺、保健委員なもんで」
「……はぁ?」
「授業中に倒れちゃったら付き添わないとねぇ」
「……」
「しがない歩兵の俺は、門番ですよ」
「いや、笑えねーけど」
「ココの匂いダメなんだよねー、俺」
わかってるよねーと、水戸はケラケラ笑って、ドアから背を離した。俺の横をタバコの残り香と男物っぽい強めの香水の匂いが通り抜ける。
「じゃあ以前と同様に、あとはみっちーにバトンターッチ」
「あっ!? 待てコラ!」
俺は急いで追いかけて階段に脚をかける水戸の肩を引っ張る。予告なく制されて不快だったのか水戸の鋭い視線が、俺に容赦なく降り注がれる。
「何?」
「何?じゃねえ! なんで俺がテメーの女の面倒なんか見なきゃなんねーんだよ!」
「あれ、俺の女って認めてくれたの?」
「あ……あぁ?」
水戸は、ふっと嘲笑って、ぱっと俺のその手を払い退ける。そのままスタスタ階段を上がる奴の背中を、無意識の内に俺の脚が追う。
水戸の後ろには微かに香水と、薬品の匂いと、俺の元カノ、幼馴染の彼女の——あれ?まさか、保健室にいたのって、あの女じゃなくて……
頭を振る。まただ、また。時折俺を支配するのは触りたくても触れない彼女の香りで。触れてもすぐに摺り抜ける幼馴染の彼女の香りで。ダメだ心臓が締め付けられて、潰れそうだ。
*
「……何で着いて来るのー?」
ハッと我に返る。四階に辿り着いたとき水戸が背を向けたまま問う。俺は一瞬怯んだ。そして、黙り込む。水戸は鼻で笑った。畜生。コイツは、全部気づいていて。かといって、引き返そうともしない自分に、もう刺せる嫌気も無くて。
水戸は携帯を取り出して放課後の人気の少ない廊下をぺたぺたと歩く。突き当たりの男子便所の前を通り過ぎようとした矢先だった。水戸は不意に俺の胸倉を掴み、バン!と勢いよく男子便所のドアを開け、俺を突き飛ばした。
「——って!」
情けなく尻餅をつく、そんなデジャブ——。
水戸は静かに後ろ手で扉を閉めて無言のまま、また俺のYシャツの衿を掴み無理矢理個室へ引き入れる。ガチャリと鍵が閉まる。薄暗くて狭くて異臭の充満する異空間。
「な……、なんだよ」
無言のままの奴の目を見れない俺が声を発すると水戸は俺に顔を寄せる。俺は当然顔を背ける。無表情だった。奴はこんな異常事態を、なんとも思っていないふうにしていやがる。
「……ッ、ムカつくんだよ、テメェは!」
俺は声を搾り出した。水戸の動きが止まる。
「何でもかんでもすました顔して——何でも自分のものにしようとする、どんな手を使ってもよ」
ようやく目を合わす。凍てつくような、温度のない色。この目つきが、苦手だった。
「汚い自分に満足して、他人を見下して!勝手に線引いて殻に閉じこもって!やっとこじ開けようとしてくれた女をヤリ捨てて……っ!」
今度は俺が、水戸の胸倉を掴む。それでも奴は表情を一切変えることはない。
「エゴに酔ってんじゃねーぞガキが!何でもっと周りを大事にしねぇんだよっ!!」
そう、言い放ったとき——。
「じゃあこんな時に手振るわせてんじゃねーよ」
水戸は俺の胸倉を掴み返し物凄い力で俺の頭を壁に打ち付けた。
*
授業中、眩暈がして具合が悪くなった事までは覚えている。目覚めたとき、オレンジ色の夕陽が目に直撃し思わず布団をかぶり直してしまった。目の前の携帯のライトがチカチカ点滅していた。メールか着信があったみたいだ。携帯を開くと、不在着信が一件。通知を押すと『 水戸洋平 』の四文字が広がった。
ようやく番号を交換し合った日の事を思い出しまた頭が痛くなる。あれは洋平くんの家に行った雨の日のことだった。
私はがばっと起き上がる。保健室は電気がついていなくて、とっくに夕暮れ、西日のみが部屋の明かりとして働いていた。先生は、まだいない。
不在着信に掛け直す勇気もない。留守電もないみたいだった。どうしよう。
「……っ」
私は頭をぶんぶんと振って、ベッドを降りる。逃げていちゃダメだ、だってこのまま逃げてたら何も変わらない。むしろ、悪化する。
三井の言葉が脳裏に反芻する。ごめんね三井。やっぱり人任せなんて……私には向いてないよ。私が動かなきゃ、だめなんだ。
私は見当もつかないまま、学校中を走り回る。ただ気持ちばかりが先走って焦る。とっくに部活も始まって校舎に残っている生徒は、ごくわずかだった。軍団も見当たらない。三井も部活なのか見当たらない。もちろん、洋平くんも。
三階のフロア、廊下のはじっこで、私は携帯をぎゅっと握りしめる。かけ直してしまおうか……さっきから、そんな思考ばかりが浮かぶ。
でも、それをしたくないのも本音で。下手に、彼——洋平くんの声を聞いたら、それだけでまた流されてしまいそうで。
「どこだよ、もう……!」
半分泣き出しそうになったとき、携帯が陽気な音を発した。それはまごうことなき水戸洋平専用の着信音で。驚いた私は躊躇って、けれども結局通話ボタンを押すはめになる。
やっぱり私は甘い。これじゃ、ダメなのに。
「……もしもし」
スカートをぎゅっと握りしめたまま、蚊の鳴くような声で、やっとそれだけ言うことができた。
『——名前ちゃん? やべっ、出た』
私の気持ちに反して明るい洋平くんの声が耳に響いた。
「……ごめん、出れなくて」
『別にいーよそんなん。体調は? 大丈夫?』
「あ、うん……誰かが、運んでくれたみたいで」
『そっか。まだ学校いる?』
「え?」
『あのさぁ、今から四階のトイレ来れるかい?』
「よ、よんかいの、といれ……?」
背中がぞくりとした。また、また——そういうこと?
私の警戒を悟ったのか、電話の向こうで彼は、ハハッと軽く笑った。そして『何にもしねーよ』と、小さく優しい声で呟く。
「……ほ、ほんと?」
『うん。見せたいもんあるんだ』
私は数秒の沈黙のあと「わかった」とだけ言い通話を切って走り出す。脳裏をかすめる違和感を無視しきれないままで——。
——同時刻。
壁に打ち付けられた頭がぐわんぐわんと悲鳴を上げている。焦点の定まらない目が視界をさ迷って、ある一点に顧みる。
水戸の拳は綺麗にみぞおちに嵌まり俺が前屈みによろめいたのを良いことに、つむじを掴まれ、膝で鼻を蹴られる。メキ!と音がして、ヤバイという三文字が、思考のド真ん中にふわふわ浮かび出す。痛さに鼻を押さえようとするのと、鼻血が垂れるのが同時だったように思えた。
ガッ!と、左頬を殴られる。次にガンッ!と、右も。
「……ッ、テメェ……」
ボグッ!と、また左。飛び散る鮮血。待てよ、これもデジャブだ——。
「もう彼女には、かかわらないと言え」
ガ ン ッ ! !
「俺と彼女には、二度と近付かないと言え」
ガ ア ン ! !
『もうバスケ部にはかかわらないと言え』
『この体育館には二度と来ないと言え』
『ぐっ……くそ……なんなんだてめえは!』
『バスケ部でもねーのに……』
『関係ねーだろ、てめーには!!』
そうだ。
俺は、あの時からお前が——
「イミ、わかんねーんだ……」
朦朧とする現実の狭間、なにを思ったか俺は、力一杯、拳を振った。
「……だから、」
容易に交わした水戸と、その言葉と、血が匂うグーの手が俺の体にもう一発ぶち当たる。
「俺は、アンタが嫌いなんだよ」
そう吐き捨てて奴は携帯を取り出した。何回かボタンを押して耳に当てる。少しの静寂の後——
「——名前ちゃん? やべっ、出た」
電話口にそう呟く水戸。心底愉しそうな声色。憎たらしい。痛みが全身を支配して身動きのとれない俺に足を乗せ目を向けながら水戸は続けた。
「あのさぁ、今から四階のトイレ来れるかい?」
嘘だろ……こいつ、正気かよ。
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