『結婚してくれ』を使わないプロポーズとは。
そんなことを過去に幼馴染が、話し倒していた記憶がある。
「薬指、空けておいてね」
「君の誕生日、何時間僕にくれる?」
「これからは毎日会いたいな」
「毎日おかえりって言ってよ」
「僕の誕生日は君に逢いたい」
「君になら何をされても許せるよ」
「君の見る空気になりたい」
「君と僕で共鳴しよう」
まったく、よくもまあそんなにぽんぽんと歯の浮くようなセリフが浮かんでくるものだと呆れを通り越し感心した夏の部活からの帰り道。降参、あっぱれだ。
だが同時に、ぜんぶあの二個下のリーゼントが言いそうなセリフだな、と思った真夏の帰り道。
俺には、逆立ちしても言えないセリフだ。
*
全力で階段を駆け登るとあっという間に四階へ辿り着いた。トイレ……きっと、男子トイレだ。西側?東側?私はとにかく、そばの男子トイレのドアをノックした。返事はない。廊下を走って、反対側のトイレへ向かう。
西側の男子トイレ——私は恐る恐る、ノックをした。ガチャ、とドアが開いて、当然香る異臭。一瞬眉をしかめた。けれどその目に映った光景はあまりにも悲惨だった。
「………な、なにっ!?」
私は急いで中に入り扉を強引に閉めた。傍では無傷のくせに手とYシャツに血を浴びた洋平くんが佇んでいた。
身構える。手前の個室は、便器や床に所々血が飛び散っていて中にいた人物は傷だらけだった。
私は倒れている人の顔を見て、叫びそうになる口を両手で押さえ込んだ。
「——みつ……っ」
名前を口にするのも躊躇われた。訳が解らなくて、何故か視界がぼやけ始める。私は洋平くんの方に、勢いよく振り向いた。
「何してんのっ!?」
咄嗟に喉を通り抜けたのは怒号。なのに彼は、へらりと笑って、小首を傾げて見せる。
「はは、泣きながらキレないでよ」
「何してんのって聞いてんのっ!」
この状況に於いてもまだヘラヘラと表情を緩ませる彼に怒りが隠せない。内側から、溢れそうになる感情が——。落ち着け、落ち着け、私。
洋平くんは眉を下げ、まるで何かを慈しむかのように微笑んだ。私はその瞬間、何かに弾かれたように、彼の左頬を平手打ちした。デジャブ——以前もこんな光景、あった気がする。
「——」
「……ッ」
そして私は、一目散に三井のもとに駆け寄る。
「三井っ! 大丈夫!?」
三井を抱き起こすと、う、と低く彼は呻き声を上げた。まだ、意識はある。でも、血だらけだ。鼻血と殴られたらしき箇所から流れる血液が真っ白なはずの彼のYシャツを紅に染め上げている。
私は何故か、涙が止まらない。私なんかに構うから。水戸洋平なんかに、構うから。三井の……この人の痛みを思うだけで、全身八つ裂きになりそうだ。
「その嘘つきを庇うのかー?」
背後で色のない同級生、水戸洋平の声——。
「っ、るさいよ……もう!何でこんな事すんの!ケンカしないって決めたんじゃなかったの!?」
「えーでも、ふっかけて来たのはソイツだよ?」
「そんなんっ……」
ああもう、何も言えない。もう、意味がわからない。おかしいよ。おかしい。
「……おかしいよ、洋平くん」
おかしすぎるよ。こんなの、絶対におかしい。
「知ってるって、言ったよな」
「いかれてるよ」
「知ってるよ?」
「こんなの、誰も得しないよね?」
私は無様に泣き顔を曝して洋平くんと目を合わせた。感情のない瞳が出迎えて、数秒見つめ合うかたち。洋平くんは、タバコを取り出す。
「誰も得しないよ?洋平くんだって気分悪いだけでしょ?」
「うん」
「じゃあ、何でこんなことすんの!?」
私は立ち上がり、彼の咥える無灯火のタバコを勢いよくひったくる。
「謝って! 三井に謝ってよ!!」
「うるせーな……返せよソレ」
「謝って!!早く!!」
「……だから」
「謝っ……!」
そこまで言いかけて——。
「うるせぇーつってんだろ!」
洋平くんは私の右頬をひっぱたいた。さっきの私と同じ。涙が飛び散る。視線の先、視界の中に三井がいた。彼はこれでもかというほどに、目を見開かせている。
信じられなくて、何も言えないでただ叩かれた頬を押さえようとすると腕を引かれ、すごい力で洋平くんが私の後頭部を押さえ込んだ。
「……!」
触れるだけのキス。そしてだんだん深くなる。紛れもない、これは、彼とのファーストキスだ。
「……っな、にすん……っ」
「……」
「……っ……!」
「……」
「……っん……!」
「……」
「よ…うへ……く……っ」
意味がわからない。なんでこんなに優しいキスが、あなたに出来るの?今までだって一度も……してくれなかったくせに。
ようやく唇同士が離れ、私は彼から離れようと手を伸ばす。でも、彼の腕は離してくれなくて、また涙が止まらない。私は、必死にもがく。
「離してっ」
「やだよ」
「離して!」
「無理」
「離してよっ……!」
またキスされそうになって目を瞑ったとき——背後から腕を思いっきり引かれた。一瞬、身体が強張って、でもすぐに解けた。
「……へえ、なるほど?」
洋平くんが目を細めて呟く。私を後ろから引っ張って救出してくれたのは傷だらけの——三井寿だった。
「テメェ、やりすぎだ……」
「み、つい……ッ」
三井は荒い呼吸のまま、ゆっくり呟きかける。触れていなくても背中に伝わる三井のせわしない肺の動き。私も同じように心臓がうるさい。
「水戸、もう……いーだろ」
「……」
「もう喋んないで!無理しちゃダメだよ三井!」
私が言いながら三井のYシャツの袖を掴むと、目の前の洋平くんが今度は私の空いたもう一つの手首を、そっと引いた。
「……よう、へ——」
「そんな顔しないでよ」
「え……?」
「名前ちゃんは、その人を選ぶのか?」
苦しそうな顔をして、彼はそんなことを言う。自分こそなんでそんな顔をするの。今までだってそんな顔、したことないくせに。
「選ぶとかそんなの……ないでしょ、関係ない」
「あるだろ?だって、ボディーガードしたいって言われたんだろう?」
「……な、なんで知ってんの」
「その人ねぇ、名前ちゃんを守る気なんてねーのよ。……あれ?勘違いしちゃった?」
「——、」
三井の肩がピクリと震える。私は、三井を掴む手の力を強くした。何も言えないまま、涙が頬を伝って落ちる。それを見た洋平くんの眉が、怪訝そうに動いた。
三井は——たとえ嘘つきだったとしても、私を勇気づけてくれたり、元気づけてくれたり、安心させてくれたりしたんだよ。今まで私は、何度もこの人に救われた。でもあなたは?私を、三井をほかの人を、掻き乱すばっかりじゃん。なのに、涙が止まらない。
悔しかった。だって、誰よりも強いはずの洋平くんの腕が——どうして小さく震えてるの?
「……洋平くん……っ、おかしい、よっ……」
眉根を寄せる洋平くんと目を合わす。この人はいつもそう。この人はいつも、誰よりも何よりも自分自身よりも、一番に私を、想ってくれるの。犠牲を払いすぎて見えなくなるまで。
狂おしい。これ以上その目で私を見ないで……
「……ッ」
洋平くんに、手首を掴まれたまま。もう片方の手首を三井に背後から掴まれたまま私は、答えが出せなかった——。
ふいに、洋平くんが私から手を離す。私は彼を見上げた。彼は嗤った。心底、愉しそうに。
私は目を見開く。洋平くんは一歩下がり洗面台に寄り掛かる。そして紡ぐ。やっぱり、心底愉しそうに。
「俺も欲しくて、みっちーも欲しくて、彼氏とも別れられないって?」
「……」
「へぇ……虫が良すぎる話だな、名前ちゃん」
彼女は応じない。今までの態度と一変した男、水戸を、受け入れまいと必死に闘っているように見えた——俺の目には。
「欲張るなよ……なぁ?名前ちゃん」
「……っ」
「だから君は、誰の一番にもなれないんだぜ」
「——。」
そして水戸は、彼女の肩をドン、と押す。放心状態の彼女は、ふらっとよろめく。その反動で、彼女の腕を掴んでいた俺の手も離された。水戸は彼女の胸倉を掴み、ゴミでも投げるみたいにして床に突き飛ばす。汚いトイレの床に、彼女が放り出される。
奴の彼女を見下ろすその視線。それはまるで、動物を見下すような視線だった。
「いつだって、世界は二つに一つだ。」
ヤンキー座りで屈んで、水戸は手の甲を彼女へ向けて、指を二本突き立てた。それは��ピース�≠「わば、平和の象徴だ。だが裏ピースサインには侮辱・軽蔑・卑猥という、悪い意味が込められていて中指を立てるのと同様の意味を持つ攻撃的なハンドサインでもある。
奴がどっちの意味で彼女に二本の指を突き立てたのかは、きっと死んでも俺にはわからない
「それがわかんないうちはさ、いつまでたってもただの女。」
「抱かれるためだけの。それ以上の価値もない」
そう吐き捨てて、水戸はズボンのポケットからタバコとジッポを取り出してナチュラルに一服。そして俺の肩を叩いて便所のドアを優しく開く。
「行こっか、みっちー。」
「あ……ああ。」
俺は最後に、薄暗い男子便所に取り残された、哀れな女の末路を見た。彼女は、こんなに暗くて狭くて臭い空間でどんなロマンを夢見たんだろうか。きっとどちらかが選んでくれるとでも思っていたのだろう。そんな、汚い幻想を抱いて。
「悪かった」
泣きじゃくる彼女に俺はただ一言、それだけを告げて、この異空間を後にした。
人生は、全てが正解なわけでもない。たとえばこんなゲームを本能の内に編み出して本気で心の底から愉しむ輩も、実際にはいるということ。
人生はゲームだ。それに気づいた俺がきっと、勝者だったんだ。皮肉なもんだ。
まるで夢であったかのように、彼女の面影は、溶けて消えゆく。
前を歩く背中、極悪人の皮を被った正義の
味方
(
ヒーロー
)
水戸洋平の笑い声だけが廊下に響く——そんな、真冬の放課後の出来事。
誰だ——こんな
特級呪物
作ったの。
(コイツ……正真正銘のサイコパスじゃねーかよ)
※ image song『 Winter sleep/OLIVIA 』
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