入った瞬間に香る、私じゃない誰かの気配……嫌な予感ほど、よく当たるものだ。
私が後悔することは、やらなかったことであり出来なかったことではない。だから私は今日——ここに来た。
16歳、3月
― 16歳、3月 ―
「入れよ」
そう促されて入った彼氏の部屋。中学の頃から付き合っていた彼の殺風景な部屋。すこし前までこれでもかってくらい愛し合った、彼氏の部屋。
「やっぱり俺が恋しくなった?」
喉の奥で彼はくつくつと笑う。そんな彼に私は黙ったまま。怖いとか、そんな感情はもうない。怖いと思う状況が来たとしてもきっと、私は怯えない。そんな自信も覚悟も、もうとっくに私にはある。呼ばれもしないこの人の部屋に、自分から訪れた瞬間から。
「水戸って奴と、どうなったの」
ベッドに腰を掛けるよう促される。私が座ると彼も私の隣に座った。これが、ただの嫉妬だったなら良かったのに。普通のカップルみたいに喧嘩して、仲直りして、セックスして。そうだったらよかったのにね。
「ごめんね。」
「ごめんね?」
私からの突然の謝罪にあからさまに不服そうな顔をする彼。言い訳なんてしない。こちらも思う事は色々あるけれど、まずは謝罪だ。だって私はあの人に出会ってしまったから。
「もう、好きじゃないよ」
笑って言ってやるんだ。絶対に、泣いてなんかやるもんか。そもそも悲しくもない今となれば。
私の痛みが、苦しみが、哀しみが……伝わる?あんたなんかに。
「あんたなんか、もう好きじゃない」
「は……?」
「というわけで、さよーなら」
「ちょ——待てって!」
言葉の通り帰ろうとして立ち上がった私の腕を掴んで彼が引き止める。こんなに力が強かったのかと、今更ながら気がついた。どうやらこの人も歴とした��男�≠セったらしい。
「意味わかんないから! なんだよ急に!」
——急に?どの口が、そんなことを言うんだ。
これからは直感を信じて生きていきたいんだ。理想とは違うけどとか条件が合わないけど情が、とかそんなの時間の無駄。だって人生は一度きりなんだから。本当の自分を決められるのは、自分だけだから。
「……急に?」
「急だろ?久しぶりに会って、さよならなんて」
「急に豹変したのは誰だったっけ?」
私が、ニコッと微笑んで言う。彼は柄にもなくたじろいだ。私は彼の手を振りほどき向き直る。
「だ、誰でしたっけ……」
「とにかく、私にはもうお手上げだから。こんな二重人格、ついていけそうにないもん」
はっきりとそう言うと彼は面を食らったような顔をする。きっと能天気で馬鹿な私にこんな事を言われるなんて、思ってもいなかったのだろう。
うろたえる彼にとどめを刺すかのごとく、私は言葉を放つ。
「第一、相手をしてくれる女なら私以外にもいるみたいだしねー、って……うわっ!」
突然、彼が私を押し倒す。ベッドのスプリングが耳につく。動く度にぎしぎしと鳴る。まったく耳障りな音だ。
「水戸ってヤツの——せいなわけ?」
「さぁ……」
「さぁ、じゃねぇよ!」
どうしてそんなに慌てふためく訳?今更だよ。今更になって私から見限られて挽回できるとでも思っているのだろうか。
私は声を荒げた彼をじっと見つめる。そのまま私を見つめ返してくれたら多少は冷静に話し合いができるかなと期待したが、やっぱり彼はすぐに私から目をそらした。残念、ゲームオーバーだ。
「なに……?マジでお前、なんなの?」
「浮気がバレたくらいでそんなに慌てないでよ」
「お前が浮気の事をとやかく言えるのかよ……」
「先に裏切ったのはそっちじゃん!!」
「……っ」
「バレて困るくらいなら浮気なんてしなきゃいいだけじゃん」
私は顔を背けた彼を見つめながら笑った。今となればもう何も怖くないんだよ。抵抗もできない馬鹿な女だとでも思っていたんでしょ、どうせ。御生憎様。私にはもう何も残されていないから。
「やっぱ——水戸だろ?あいつに会ってからお前変わったもんな」
「……」
「だから離れろって言っただろ?どうせアイツに変なこと吹き込まれたんだろ?」
「洋平くんを——悪く言わないで。あの人は何も悪くない」
「はぁ?おまえ知らないのかよ?あいつが裏で、どんなことやってるか」
私は彼を睨み付ける。まるで、動物でも見下すような視線で私を見下ろしている彼と目が合う。あきらかに軽蔑的なその相貌にも、負けじと私は彼を睨み続ける。
「万引き、強姦、レイプ……終いには、女抱いて金とってるって」
「……っ」
「そんな奴なんだぜ?翔陽でも有名だよ」
彼は吐き捨てるように言った。耳が痛かった。決してそんな事は無い真実と、あの男子トイレで自分の身に起こった紛れもない事実が、頭の中でぐちゃぐちゃと混絡がる。
「そんな奴といるよりお前は俺といる方が——」
ぱん!と私は彼の頬を思い切りひっぱたいた。目を見開く彼が何かを言う前に、こっちから畳みかけるように捲し立てる。
「ふざけんなっ!」
「!?」
「本人に訊いたの!?万引きしてるって訊いた?強姦してるって?レイプしてるって!?」
私の剣幕に彼は驚き私を押さえ付けていた手を放した。私はそのまま起き上がる。彼もつられておどおどしながらも起き上がる。
「会ったこともないくせに勝手に決めないで!」
どいつもこいつも……勝手に水戸洋平を妄想で決めないで。あれこれ好き勝手を言いやがって。勝手に、アンタたちの見解で��水戸洋平�≠�作り上げないでよ……!
「じゃあ、さ。お前は……アイツを全部知ってるって言うのかよ?」
ややあった沈黙。ぽつりと彼がしばらくぶりに口を開いた。私はそっと彼を見張る。
「万引きも強姦もレイプも……間違いなくやってないって言えんの?」
彼はいつもの冷静さを取り戻し淡々と続ける。
むかつく。前は、あんなに好きだったのにな、あなたのこと——。今は全然、響かないよ。
「……言えない。」
彼はにやっと笑った。まるで『勝った』とでも言いたげに。
確かに……心の中なんて本人以外わからない。誰もわからない。私だって、この人だってあの人だって、みんなわからない。わからないけど——でも、でもね。
「間違いなく、なんて言えるわけないよ……」
「……だろ?」
「だって私は、洋平くんじゃないもん」
「……」
「でも——私はやってないと思う」
彼は顔をしかめる。私は視線を足元に落としてそのまま続ける。声が震える。でも言わなきゃ。
「洋平くんは、やらない。」
「……」
「洋平くんは——」
優しい人のことは忘れないように。一度でも、受けた優しさを、覚えていられるように。
「——できない。」
あんなに優しい人は。そんな事、できないよ。
優しさは、忘れられない魔法がかけられているように思う。優しさは、いつだって失われてから気づくもの。
「洋平くんはしないし、第一できないの」
人を傷つけるような事、絶対彼にはできない。だって私は知っている。強がりばかりが先に出た彼のことだけは——。
「……は?」
当たり前に怪訝な顔をする彼に、私は改まる。また視線を持ち上げて、その邪悪に歪んだ、彼の瞳をしっかりと見据えて。
「いい?」
「なに。」
「私とあなたは、もう駄目だよ。ひき止めたって無駄」
「……」
「浮気してるでしょ?その子と仲良くやってよ」
「……っ」
「ていうか、そもそも……」
彼の視線は痛い。けれど、もう後戻りできないんだ。ねえ、洋平くん。笑っちゃうね?今の私を見たら、きっと洋平くんは笑うよね。
「私は、洋平くんがいなきゃ駄目なの……」
「……」
「私はもう、洋平くんじゃなきゃ駄目なんだ。」
「……はっ、まじかよ」
彼が惚けたような顔になり私はそれを無視して部屋の扉を開ける。バイバイ、大好きだった人。
「——捨ててやろうと、思ったんだよ」
背後から元カレの声がする。私は足を止めて、一度だけ振り返る。彼は下を向いていて私が振り向いた事にも気づかない。
「お前なんか——」
「……」
「こっちから願い下げなんだよ、尻軽女が。」
その言葉を背に私は部屋を出て階段を降りる。そして元カレの家を後にした。もう開けることもない彼の家の扉。あ、やばい……涙が出そうだ。おかしいな、もう��好きだった人�≠フはずなんだけどな。
ねえ、もしも私が水戸洋平に会わなかったら、こんなことには、なっていなかったのかな……?
最低。まだそんなこと言ってるのかよ、って、自分で自分のことを突っ込む。未練たらたらだ。けれどもこれも、もうすぐなくなる感情だろう。今だけの感情。
今日もいい天気。洋平くんって、絶対に晴れ男だと思っていた。と言うか、晴天男?
なんか悔しいくらいに綺麗だね。ああ……また泣きそうだよ。
世界は案外
シンプル
なんだ。
(あなたに雲はかからないんだね、どうしても)
※ image song『 大迷惑星。/當山みれい 』
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