水戸が俺と名字を見ているんだか見ていないんだか、こちらに身体を向けたまま無表情で、俺はようやく視線を自身の手元へと移した。
そのとき、奴の仲間内の携帯電話の着信音が響いてそれを取ったそいつが「ああ、ああ、分かったすぐ行く」と短く言い置くとガタンとカウンターの椅子から立ち上がった。
「行くぞ」
先ほどまでこのバーの中で一番と言っていいほどの声量で笑っていたそいつが、ドスの効いた声を漏らせば水戸以外のもうひとりが立ちあがる。
取り残された水戸に気付いたひとりが、立ち止まって振り返ると「行くぞ?水戸。」と言ったことで、やっぱり相手が高校時代の二個下の後輩水戸洋平≠セということを正確に示してしまった。
水戸はゆっくりと自身のグラスを持ち上げて、中身をひと口飲んだあとフッと笑うと、ヘラりと眉をさげてそいつに顔を向けて言った。
「俺、もう一個寄らなきゃならねえ店あんだよね」
その言葉に、さっき電話を取ったモロ、そっち系の奴が「ああ、〇〇店か」と明らかに夜の店的な名前の店名を言って「じゃあ終わったら来い」と付け加えて早々に二人は店を出て行った。
「………」
「………」
無言でいる俺と名字を、もう一度見た水戸がため息交じりに言葉を発した。
「飲む? せっかくだから。」
「……あ?」
「
どうしたらいいか分からず、俺は思わず名字を見やる。彼女はしばらくしてようやく水戸から視線を解くと、そばに置いていた自身のバッグから財布を取り出し一万円札を俺の目の前に置く。
「ごちそうさまでした」
言ってカタンと席を立つと、すたすたと店を出て行ってしまった。
「お、おい!」
俺はその一万円を手に取って入り口を振り返ったが、すでに彼女の姿はなかった。
店員を呼びつけて自分の財布から一万円を取り出して、それを渡すと「釣りはいらねえ!」と言って急いで入り口に向かおうとした刹那「みっちー!」と背後から声が飛んでくる。
「あっ?」
思わず足を止めて振り返れば、水戸が「
ギロと睨んで俺は返答はせずに店をあとにした。
辺りを見渡して、ようやくその後ろ姿を見つけると俺は猛ダッシュで走って後ろからその腕を思いっきり掴んだ。
「待てって、名字!」
「………、三井、さん……?」
彼女は頬を涙で濡らして、暗がりでも分かる周りのネオンの光で見えたその大きな瞳は、真っ赤になっていた。
「……これ、いらねえって。」
「財布に仕舞え」と言って俺は無理やりに渡された一万円札を彼女の手に握らせた。
「え、お会計は……」
驚いたように俺を見上げる彼女から視線を逸らして、俺は後頭部に手を当てた。
「払わせられるわけねーだろ、上司なのによ……」
先ほどまでの異様な空間が、俺のその一言で現実世界に戻って来たかのような空気に一変した。
「ははは、そうでした。」
急にプッと笑った彼女が、ようやくいつものように笑ってくれた。
しばらく向き合って笑う彼女と、面食らってそっぽを向く俺。ややあって彼女に視線を向けて背筋を伸ばして言った。
「駅のホームまで送るぜ、危ねえしなここらへん。」
「特にこんな時間だと」と付け加えて言えば彼女は素直に「じゃあお願いします、三井マネージャー」と言って先を歩いて行ったのにならって、俺もその後を追う。
駅までの短い道のり、彼女は一言も話さずに、俺も特に何も話しかけなかった。
駅のホームに付いて「ご馳走様でした」と彼女が俺のほうを振り返って頭を90度にさげた。
「いや、また飲みに行こうな」
「はい、お疲れ様でした」
彼女は何事もなかったかのように、いつもの表情で言って俺に背を向けて電車に乗り込んでいった。
スイッチを……、切り替えた感じだったな。
ここからはもう上司と部下≠ンてえな感じで。
今日私は、ただ上司と軽く飲んだだけ
あのバーでは何もなかったですよね?
そんな風に口留めされた気もした。
俺は彼女の乗った電車を見送って、ふうーと溜め息をつくと側にあった駅のベンチに腰を下ろした。
煙草を吸っている奴は、こんなとき一服したくなるんだろうなーなんてくだらないことを思い描いて、ひとり鼻で笑ったあと、ややあって駅のアナウンスを聞き捨ててゆっくりと立ちあがると自分の乗る電車の方へと向かって行った。